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04.旅立った新天地で

 それから数日間は目が回るような忙しさだった。 


権利書等をレジナルドに引き継ぎ彼とその妻に農場や家を見せて回ったり、農場で働いていた独身者達の次の働き口も確保して回り、売る予定だった馬や牛の買い手を探して回って売った金を弟妹の学費に足したり従業員達の最後の給料に当て、弟妹の荷造りを手伝い、自身の身辺も簡単ではあるが纏め終わった。


大きな家具はそのままレジナルドに使って貰う事になったのが、ここ数日でマリアが一番ほっとした事だ。


 休みの間に一足早く家を出る事になった弟妹を、マリアはじっと見詰める。


まだ戸惑ったままの表情を浮かべている二人の言葉は今もない、それでも馬車に乗り込む寸前の二人に駆け寄って、マリアはその頬を撫でた――嘗て両親が自分達にそうしてくれていたように。


「私の住む所がきちんと決まって落ち着いたら遊びに来て。手紙も書くわ。返事はしなくてもいいから、ちゃんと読んでね。それから、クリスティアンは三食きちんと食べて風邪には気を付けるのよ。キャサリンは無茶をしないで体調の悪い時には必ずベッドで休む事。休暇の間も学校にいる事になるけど外泊も勿論出来るって言うし、ホーレショーおじさんの所へ遊びに行くといいわ。先生の言う事はよく聞いて。……二人共、元気で――……楽しくやるのよ」


「姉さん……」


 搾り出したようなマリアの声に二人はそう呟いたきり黙りこんで、ボリスが動かした馬車であっという間に行ってしまった。


二人の姿が見えなくなっても、馬車の音が聞こえなくなっても、マリアは足がその場に根付いたように動けずいつまでも見送る。


 不意に弟妹との様々な思い出が一瞬で蘇って来て、マリアはぼろぼろと零れる涙を拭いもせずそのままでいた。


二人は双子という事もありとてもよく似ていたが、姉のマリアとはあまり似ていなかった。


よく父から母の若い頃にそっくりだと言われたマリアは、確かに薄過ぎるほどのスカイブルーの瞳も金色の髪も母のそれを受け継いだ。


だが弟妹は父に似た温かみのあるブラウンの瞳と髪を持っていて、それが羨ましかった時期もある。


 二人を妊娠していた間ずっと母は体調を崩し病院に篭り切りで、幼いマリアは一年もの間手紙以外面会も許されなかった。


だからか幼い頃からマリアは二人をとても可愛がった。


顔は似ているのに性格は真逆と言ってもよくて、幼い頃クリスティアンはキャサリンによく泣かされていた。


そして決まってクリスティアンがマリアに言い付けに来て、それをまたキャサリンが怒って泣かすのだ。


小さな頃二人はよくそうやってマリアの取り合いをした。


今思えばマリアは当時あまり叱るという事がなかったので好かれていたのかなと自嘲する。


 マリアが家を出るのは明日に迫っていた。


ゆっくりと家の中に戻り、家具だけがぽつんと残ったような中でじっと、何度も家の中を見渡す。


この家が壊される事も土地が売られる事もない、ブルック夫妻はとてもいい人で、それなのに言い様のない寂しさが募るばかりだ。


 目を向ける所々にまた思い出が蘇る。


クリスティアンとキャサリンが玩具を振り回していて出来た壁の傷、母がスープを零した床の跡、父が座っていたソファに眼鏡を置いていたサイドテーブル、――ダグラスが来た時は決まって腰掛けていた椅子。


目を閉じれば五人の姿が現実のように瞼に映り、耳には笑い声が聞こえた。


 こんな事になるなんて、一体誰が想像しただろう。


マリアはぼんやりと家の中を眺め続けた。


大して荷物のない中、心に出来るだけの思い出を詰め込んでここを旅立とうと思いながら。


これで最後とばかりにぐっと強く腕で涙を拭った。









 ボストンバッグと小さなバスケットを持ったきりのマリアは馬車を走らせてくれたホレーショーと駅で固く抱き合う。


「向こうへ着いたらすぐに手紙を書くんだよ、いいねマリア」


「勿論よ、おじさん」


 列車に乗っても視線はホレーショーを追い、窓を開けてその手を握り締める。


ホレーショーの足がやがて動き出した列車に追い付かなくなるまで二人はそうしていた。


 ホームの終わりに佇むホレーショーの姿が見えなくなるまで手を振り続けたマリアは、やがてその手を膝の上に置く。


涙はもう出なかった。


今朝家を出るまでに散々詰め込んだ思い出は胸に溢れている。


農場の事も家の事も弟妹の事も心配はないだろう。


 唯一つ、結局仕事から戻らなかったダグラスに別れを告げられなかったのが心残りではあった。


ボルジャー家の家政婦であるバーバラにはダグラスが帰って来たら教えてくれるように頼んではいたのだが、遂にはお別れを言えたのはバーバラだけになってしまった。


マリアはダグラスの申し出に対しお礼とそれが受けられなかった事のお詫びの手紙を書いて彼女に託したものの、それがいつ彼に読まれるのかはわからない。


 ジャンフランコの口利きで以前一時期勤めていたホテルからの紹介状を貰いはしたが、暫くはホテル側が建てた労働者用のアパートメントに住む事になる。


共同生活というのは慣れない事も多くあるだろうが、しかし当分部屋に一人という状況でなくてよかったかもしれないとマリアは思った。


しかしいずれは慣れていくだろうし、資金が貯まって他の住居が見付かればそこへ越して、もしかしたら弟妹達を呼べるかもしれない。


 そう、これからは新しい生活の事を考えて行くのだ。


その為にもマリアは弟妹の学校の教師以外、ホレーショーやバーバラにもアパートメントの住所を教えなかった。


二人にもそれがわかっていたのだろう、ホレーショーのようにバーバラも「手紙を書いてね」と繰り返している。


 今はまだマリアには自信がなかった。


ホレーショーやバーバラの手紙を目にして、毎日泣き暮らすのではないかと不安で。


些細な事でそれを口実に飛び帰ってしまうのではないかと不安で。


 だから信じる事にしたのだ、クリティアンもキャサリンも楽しく学校生活を送っていると。


そしてホレーショーやバーバラ達も元気でやっているのだと。


繰り返し自分にそう言い聞かせてでも、この寂しさを乗り越えなくてはならない。


 列車の窓から流れる景色は見慣れたものから見慣れぬものへと徐々に変化して行く。


こうして自分も変わって行けるだろうかとマリアは開けたままの窓に頬杖をついてぼんやり眺める。


 今思い返してみれば、時もこんな速さで流れていったように感じられた。


どれもこれも昨日の事のように思い出せるのに、この五年は特にあっという間だったように思う。


それにあの頃とは少しマリアは変わった。


 昔のマリアは恐れを知らなかった、子供ながらの純粋さだけでなく疑う事も知らずに。


自分で決めたらどんな事でも挑戦してみたし、こんな風にただ考えるだけで怯える事などしなかった。


 本当に知らなかったのだ、愛が拒絶される事を――「男」がどういう生き物なのかを。


「……あ、すみません」


 頭に何かが当たって振り返ったマリアは、後ろの席の女性が帽子を手で押さえているのを見て慌てて窓を閉める。


 ガラス越しに流れて行く景色を再び眺めながら、マリアはきゅっと唇を結んだ。


――思い出すのよ、マリア。


私は何かをする前に怯えるような人間じゃなかったわ。


これからきっと楽しい生活が待ってる、信じて疑わない事よ。


思い出や愛に縋り付いて、もう足元を見失ってはならないの。


 ふと息をついたマリアは自分に言い聞かせ、そして深く頷いた。















 その通り、時はあっという間に過ぎた。


仕事は二日として同じ仕事が続かないほどあちらこちらに雑用を言い付けられマリアは日々走り回っている。


ホテルで働く者達との共同生活はなかなか慣れなかったが、それでも悪い事ばかりではない。


弟妹も自分と同じく寮生活に何かを見出している頃だろうとマリアは固く信じた。


そして一月の間にマリアは一通ずつ弟妹とホレーショーとバーバラに手紙を書き、しかしやはり住所は告げずにいた。


「ああもう疲れた、ホント嫌になるわ。あのマクドネルの顔を明日も見る事になるかと思うと吐き気がしそう。出来るならもう二度とあの『ミスター完璧』とは顔を会わせたくない」


 部屋をシェアしている二つ年上のワンダはベッドの上でじたばたしながらそう言い、マリアはその姿と言葉に思わず噴き出して笑う。


マクドネルというのはフロントクラークのマネージャーでベテランだけに客への愛想は一流だが、マリア達雑用に対する態度は同じ人間業とは思えない男だ。


しかも神経質で何をしようとも大抵の事は気に入らないときている、新人のホテルマンの最初の障害は彼だと言われているほどだ。


「あの男は自分だけが完璧だと思い込んでいるんだわ。私達女の雑用なんか、何をやろうと最初から全て気に入らないのよ。だったら最初からご立派なホテルマン仲間に頼めばいいのに」


 苦笑しながらマリアも口を挟まず頷いた。


どこにでも一人はいる人種だ、マリアも学生時代クラスメイトに似たような人がいたのを思い出す。


彼はマクドネルほど経験と実績に裏付けされていた訳ではないが、とにかく自分が一番の尺しか持ってはいないのだ。


 そして同じ雑用の中にも似たような人間はいる。


彼女の中では自分が悲劇のヒロインで、対する皆は敵役なのだ。


以前雑用を変わってくれと頼まれたマリアが自身も手一杯だと断ると、それ以来まるで悪役に対するようにマリアに接するようになってしまった。


 中には何を話しかけても黙ったままの無口な人もいるし、女性の体ばかり眺めてにやついているような男性もいる。


だからこそ、少々お喋り過ぎるが陽気なワンダと同室になれた事をマリアは感謝した。


「あーあ、早くこんなとこオサラバしたいわ」


 ワンダはワンダで夢がある、母親の抱えた借金を早く返して故郷に残して来た恋人と一緒になりたいという、マリアには少し眩しいくらいの夢が。


ワンダからそんな言葉を聞く度にマリアはどこか遠くに目をやって何かを探してしまう。


 目下の目標は資金を貯めて一人暮らしが出来るような生活を営む事だが、何をやりたいかと聞かれればとたんに言葉に詰まってしまうだろう。


そして今までもそうだったと気付くのだ。


両親を失ってから目の前にあるものだけを守ろうと必死になって来た、しかし結局それは長く続く未来には繋がらなかった。


「今」しか見えていなかったのだから、それも当然だろう。


 マリアは慌てて首を振って思考を払うと、ワンダと自分の分のお茶を淹れる為に立ち上がった。


 やるべき事ではなく、やりたかった事なら一つだけあった。


強く強く願い、信じて疑わず、無邪気に飛び付いていた――「彼との未来」。


「ワンダならすぐよ。裁縫がとても上手だもの。ドレスの直しを上の階の奥様直々に頼まれたんでしょう?」


 マリアがそう言うとワンダはそばかすの散った頬を上げてにっこりと笑う。


「私ね、将来は店を開きたいの。自分でドレスも作ってみたいわ。そう、それにダーリンとの間に生まれる子供の為の洋服もね」


「素敵だわ、応援してる。ワンダならきっとやれるわよ」


「ありがとう、私もそう思うわ」


 胸を張りつんと顎を上げて言ったワンダにマリアがくすくすと笑い出すとワンダも声を立てて笑い始める。


その様子が昔のキャサリンを思い出させ、マリアは少し懐かしく、嬉しくなった。


「マリアはどうするの?」


「そうね、まずは一人暮らしをしたいわ。それから、やりたい事を見付けたい」


 淹れ立ての紅茶をワンダに差し出してマリアも隣に座る。


じっと自分を見る視線に顔を上げると、ワンダは少し首を傾げて言った。


「気を悪くしないで欲しいんだけど……貴女ってちょっと不思議だわ」


「どういう事?」


「うん、そうね……なんていうか、うん、不思議な感じとしか言えないわ、私頭が悪いの。貴女って頭もいいし、ちょっと知らないような事でも知ってる、外国語も話せるし。それに美人だわ。ねえ、もしかして貴女どこかの貴族なの?」


 思ってもみなかった言葉にマリアは目を真ん丸にさせて、やがて声を上げて笑い出した。


後ろの壁が隣の部屋の住人からどんと叩かれて慌てて口を噤むものの、マリアの笑いはまだひくひくと口元に残る。


 どこかの貴族!農場さえ上手く動かせずに弟妹も手放す事になってしまった私が!


愛する人から振り向いてさえも貰えないこの私が!


 口を両手で覆ってまだくすくすと笑い続けるマリアにワンダはそんなに変な事を言ったかと更に首を傾げる。


「私、以前同じようなホテルに少し勤めていたのよ。やっぱり雑用だったけどね。学校の成績は悪くなかったし、年下の弟妹がいたから子供の扱いにも少しは慣れていたの。それでホテルに宿泊している子供達に少し家庭教師みたいな事もしていた。外国語は友人から習ったし、他の事も色々仕事をやりながら覚えたのよ。それだけ」


 ジャンフランコの父親が経営していたホテルでは他にも様々な事をした。


異国の見た事もないようなスポーツの審判をやらされたりもしたのだが、そこで何とか覚えたものは今少なからず役に立っている。


ホテルマン達ですらわからなかったスポーツの審判をマリアが買って出た時、やはりマクドネルは非常に嫌な顔をしたものだったが。


「そうなの?でもマリア、貴女綺麗なのに勿体無いわよ。普段でももっとお洒落したらいいのに、そんなわざわざ流行遅れの服を着て。そうね、貴女にはグリーンのドレスが似合うわ、その金の髪にピッタリ。髪だって仕事が終わった後くらい下ろしたらいいのよ。まあ余計な男も飛び付いて来そうだけどね」


 だから嫌なのだとマリアは言いそうになった口にカップを押し当て紅茶を言葉と共に飲み込んだ。


ダグラスの好みとは似ても似付かなかったかもしれないが、少なからず一部の男性にとってある意味好意的な容姿であるには間違いがない。


苦々しい思いで、マリアはテーブルに手を伸ばしてお菓子を摘む。


 昔は容姿に対し努力した事もあった、ダグラスの隣に並んで相応しくあるように髪や肌にも気を遣ったしお洒落もした。


だが農場を引き継ぎ彼は離れて行き、そんな時間も余裕もなくなった。


そして――マリアは自ら出来る限り女の気配を消す事にしたのだ。


誰に地味だとみすぼらしいと言われようが構わなかった、古傷を抉られるくらいならいっそ誰の目にも映りたくはない。


「私はいいのよ、これで。それより明日の休日はどうするの?」


「そうねえ、どこかに出かけようと思っていたんだけど。どうせ田舎から出て来たんだもの、街を観光してみたいわ。いずれダーリンに案内出来るようにね。でも明日はダメ、足が棒みたいだし、せかせか動いたら骨が砕けそうだもの」


「それなら明日はゆっくりして、夕食にシェパードパイはどう?メリッサが余った食材をくれたの」


「ああ、あの『公爵夫人の専属料理人』ね。いいわ、そうしましょう。スープは私が地元仕込みのものを作ってあげる」


 ウィンクをしたワンダにマリアは微笑んで頷く。


 そうして翌日、お互い本を読んだり刺繍をしたり、久しぶりに丸一日の休日をゆっくりと過ごした。


夕食にはマリアの作ったシェパードパイと、ワンダの作った残りのじゃがいもを使ったスープ。


普段は下にある食堂で出された物を大勢の人達がいながら各自で食べていたから、マリアにとって誰かと囲む久しぶりな食事は豪勢な晩餐にも劣らないものとなった。


「マリア、貴女恋人はいないの?」


 唐突なワンダの言葉にマリアは食べていた麦ビスケットを噴き出しそうになるのを必死で堪えやっとの思いで首を振る。


じっとマリアのその様子を見たワンダはそっと眉尻を下げた。


「じゃあ失恋した?あ、だって、私見ちゃったのよ、貴女があのベルボーイに口説かれている所。彼、そんなに悪くないと思うわ。なのにデートの誘いも断るなんて、あとは失恋しかないじゃない」


 先週の事だ、テニスの審判を頼まれたマリアがホテル内へ戻ろうとした時、ベルボーイの彼に呼び止められデートに誘われた。


マクドネルの理不尽な叱責にもじっと耐えて対応していた姿を見た事のあったマリアは彼に好感を抱いてはいたが、言ってみればそれまでに過ぎない。


真摯な態度である彼に拒否を示すのはどこか良心が痛んだ、しかしそれから断っても断っても誘いを掛けられる。


ちっとも諦めていない様子の彼に少々マリアはうんざりしていた。


そしてその様子がまるで自分の昔のようで居た堪れなくなるのだ、こんな気分をダグラスも味わっていたのではないかと。


 マリアは肩を落として溜息をつき、緩く首を振った。


「そうであるとも言えるし、そうでないとも言えるわ。私……基本的に男性がダメなの」


 例外は二人だけだ、そして例外である理由は二人共全く違う。


「何かあったのね。あ、いいのよ、それは話さなくても」


 そう言いながらも今ワンダの頭の中ではあれこれ想像が駆け巡らされているに違いないとマリアは内心苦笑した。


ワンダは夢見がちな少女のようだ、大体頭の中のそれがお喋りになって口から出て来る。


決して夢見られるような状況ではないだろうが、しかし彼女を恋人の存在が支えているに違いない。


素直に羨ましいと、マリアは思った。


そうなりたくて、けれどもうマリアには手の届かない姿だ。


「唯一の人には、彼自身から拒否されてしまったのよ」


 ふと息をつきながら言ったマリアにワンダの目が大きく開く。


「貴女をフってしまう人がいるなんて、ちょっと信じられないわ。まさか、奥さんがいる人?」


「いいえ、恋人は何人もいたようだけど」


「そう。お互いに見る目がなかったのね」


 あっさりとそう言ったワンダにマリアは少し笑みを浮かべて頷いた。


その通りだ、ダグラスは結局マリアを幼い頃のままの子供としてしか見れなかったのだろう、振り返る余地さえないくらいに。


そしてマリアは燻り続ける思いを消そうともせず、自分に愛を植え付けた彼の気持ちを察しようともせず盲目的に追うだけだった。


 冷静に考えればダグラスが恋人になったところで、マリアの望むものは長く続かないだろう。


いつだって彼に視線を投げかける女性達にやきもきしてばかりいる羽目になるだろうし、そもそもダグラスはこれから本格的にエイブラハムの後を継ぐ気なら爵位も得る、そしてマリアが望む先の結婚などは望めない。


 身分の違いだけではない、マリアがこの五年間の出来事で少なからず変わってしまったように、ダグラスもまた恋人と将来温かい家庭を望んでいるような人ではなくなってしまったのだ。


それは次々に変わる彼の恋人達が証明しているだろう。


どれだけセクシーな美女でも、お金持ちの令嬢でも、ダグラスとの未来を手にした女性はいない。


 なるべくしてそうなった、ワンダの言葉は見事にそれを言い当てていた。


マリアが望む形として、二人は交わる事がない。


「あら、雨かしら。雨戸を閉めましょう」


 立ち上がったワンダに続いてマリアも通りに面した方の窓を閉めに歩み寄る。


雨戸に手を掛けたところで、下の通りにぽつんと誰かが佇んでいるのが見えた。


こちらを窺っているかのような黒い人影にマリアは悲鳴を上げそうになるのを堪え、急いで雨戸を閉めさっと席に戻る。


 この辺りはそう治安も悪くはないが、だからといって安全といえる場所でもない。


上流階級の人間が多く宿泊するホテルや高級店が近くにある為にそれを狙う者も頻繁に出没する。


大抵狙われるのは金持ちばかりだが、先日は近くに住む女性が暴漢に襲われたと聞いたばかりだ。


 不穏に高鳴る心臓を押さえ、マリアは神妙な顔をワンダに向けた。


「ワンダ、今下に誰かがいてこっちを窺っているみたいだったわ」


「本当?いやだわ、この間物騒な事聞いたばかりでしょ」


 マリアは神妙に頷いた、私は大丈夫と過信する事は出来ない、用心には用心を重ねなくては意味がないのだ。


すでにマリアは四年前にそれを学んでいた。


「行き帰りは常に誰かと行動する事にしましょう。決して一人にならないように」


「そうね、そうした方がいいわ」


 二人は心細くなったお互いの手を伸ばし、そっと握り合って不安を煽るような雨音に耐える。









 それから一月の間、マリアとワンダは出来る限り一緒にホテルを行き来し、お互いが一緒にいられない時には同じアパートメントに住む者に声をかけ一緒に帰宅した。


あれから二度ほどマリアは夜になるとアパートメントの下にやって来る人影を目撃している。


三度目の時には人影はもう一つ増えていて、得体の知れない何かにぞっとしたものだ。


 幸い今のところ住人が何か被害に遭ったという話は聞いていないが、だからといって今後もそうであるとは限らない。


顔は見えなくとも、二つの人影はアパートメントの前で何かを探るようにしていたのだ。


「悪いな、マリア。それじゃあ、気を付けて」


「いいのよ、それより早く行ってあげて」


 ホテルの前で手を上げながら去って行くジャックを見送って、マリアは一瞬躊躇ってから、思い切って帰路に一歩を踏み出した。


今日一緒にアパートメントまでの道を帰るはずだった同じ雑用をしているジャックだが、近くに住む母親が仕事中に怪我をしたらしく、そのまま病院へ向かう事になったのだ。


ジャックが一緒だからと安心して遅くまで仕事をしていたのが仇になってしまい、もう他に頼める人はいなかった。


 マリアは急ぎ足で暗い道を行く、もしかしたらアパートメントの下であの人影に遭遇してしまうかもしれないがいきなり襲って来る事はないはずだと自分に言い聞かせる。


もしかしたら偶々下を通り掛かる人だったのかもしれない。


そうでなくとも、数度姿を見せている事から何かの計画があるに違いないのだ。


 ぶるんとかぶりを振ってマリアは最悪な方向に流れようとする思考を追い出す。


とにかく今は一刻も早くアパートメントの自室に帰る事だ。


半ば駆け出すようにマリアの足は速まった。


 徐々に見えて来たアパートメントの姿にほっとしながらマリアは徐々にその足を遅くし、そっと前の建物の脇に身を滑り込ませて通りの様子を窺う。


アパートメントの下に人影は見えない、少しの間それをじっと確かめてマリアは再び早足で歩き出した。


 漸く飛び付く勢いで入り口に辿りついた時にはほっとし過ぎて盛大な溜息が零れたが、次の瞬間には喉が痛くなるほどそれを胸に逆流させる事になる。


「ひ……っ」


 中に入ろうとした腕を後ろから何者かに掴まれ、咄嗟に振り払おうと腕を振り上げたがマリアの体が反転しただけだった。


全身から湧き出でる恐怖を口から爆発させようとしたマリアは、腕を掴む人物の顔を見上げて再び喉を詰まらせる。


 いるはずの、否いるべきではないはずの人が、そこにいた。


「ダグラス……」


 様々な驚愕に全身を震わせてマリアはこれまで同様、無表情にじっと自分を見下ろす彼を見上げた。


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