03.さよならの序章
今夜もクリスティアンとキャサリンは家でのハンストを続けていた。
マリアが二人の部屋のドア越しに出掛けて行くと告げてもやはり返答はない。
二人が夕飯をご馳走になって来ている友達の家の親からはそれとなくマリアに伝えられ、二人だけで町に出たりおかしな連中と付き合いがない事にはほっとしてはいるものの。
肩を落としながら施錠して家を出ると肌寒いほどの風が体に吹き付け、マリアは両腕を抱くようにして擦った。
ジャンフランコとは外食した経験がなく、どんな店に連れて行かれるかはわからない。
しかしどんな店だろうと、マリアの持っている服は選べるほど抱負にはなかった。
もし服装で追い返されるような店に行くと言い出したらなんとしても帰って来てやろうと思いながら、近くに住むボリスに家の事を頼んでマリアは約束の場所へ馬を歩かせた。
すでに待っていたジャンフランコは笑顔で駆け寄って来るなりマリアを馬から下ろし引いた手に短くキスを落とす。
彼にとっては何でもないこの行動にマリアは悲鳴を上げそうになった事もあったと苦笑した。
「さあ行こう。いつか話した事があっただろう、友人が店をやってるって。半年前にこっちにも作ったんだ」
「ねえ、ジャンフランコ」
「わかっているよ、マリー。安心して、僕は君の心を傷付ける罪を犯さない」
笑って腕を差し出したジャンフランコにマリアは溜息をつきながら頷いてそっと手を絡ませた。
それが額面通りだとわかってはいるが、すっかり見透かされている事にマリアは安堵より僅かな落ち着きなさを覚える。
しかし自分を見下ろす温かい微笑みにマリアはゆっくりと力を抜いて、近頃常に無意識の緊張が体を蝕んでいたのだと気付いた。
案内された店は一見普通の家で、安心したというよりもマリアは面食らう。
それを悪戯好きの子供のような顔で見て、ジャンフランコはマリアを中へ促して自分も入ると、奥から出て来た恰幅のいい婦人と抱き合った。
ホレーショーより幾つか下という印象を受ける婦人は「ジラ」と名乗り、満面の笑みでマリアとも抱擁を交わす。
「話は聞いているわ、さあ奥に座って頂戴。今日は貸切だから、ゆっくり寛いでね。とびきりの晩餐をご馳走するわ」
「勿論信じてるよ、ジラ。それにトマスの腕もね」
文句のつけようもないウィンクを投げたジャンフランコにジラは陽気な笑い声を立て、席に着いた二人にワインを振舞ってから奥へと軽い足取りで引っ込んで行った。
「ジャンフランコ、貸切だなんて……」
「待った、それ以上は聞かないよマリー。こうしなければ君の口から僕の望む言葉は聞けない、そうだろう?」
露とも疑ってもない口調にマリアは思わず噴き出して頷いた。
「そうね、きっと」
「そうなんだよ」
ジャンフランコが何を聞きたいのかはマリアにもわかっている。
大きな鉛でも飲み込んだような気分になって俯いたマリアにジャンフランコがワイングラスから口を放し緩く首を振った。
「顔色が悪い、君の肌はミルクみたいだけど、このままじゃそれを通り越して透けてしまうよ」
「まあ、ジャンフランコ。見っとも無く焼けてしまっているのは自分でもわかっているのよ」
「君は全然わかっていないよ」
このところずっと自分の抱えて来た矛盾の答えを言い当てられたようでマリアは口を噤んだ。
慌ててジャンフランコが何かを言い募ろうとする前に戻って来たジラがマリアの前に笑顔で皿を置く。
それを見て咄嗟に上げたマリアの驚いた顔にジラはにやりと口の端を器用に上げた。
「体がびっくりしないようにね。いいこと、出された物を全て平らげるまでここからは帰さないわ。アルコールは別だけど。ジャンフランコに見張ってて貰いますからね」
そう言ったジラは優しくマリアの肩を撫でて奥へと戻って行く。
迷子になった小動物のような表情でジャンフランコを見たマリアに彼はくすくすと肩を震わせて笑った。
「勿論見張っているとも。さあマリー、残さず食べるんだよ」
「……ありがとう」
最早それしか言えなくなって、マリアはオートミールを口に運んだ。
最早ぼんやりとしか思い出せない母の味に似ている気がして、うっかり出そうになる涙を堪えるのがやっとだ。
毎日鏡は見ていたが自分自身の変化はよく注視しなければ気付かない、それほど酷くなっていたんだろうかとマリアは思わず頬に触れる。
確かに痩けた感触のするそれを気まずげに撫で視線を落とした。
やがて前に置かれた軽食を彼も食べながら、マリアはなんとか皿のオートミールを食べ切ってふと息をつく。
その様子に笑ったジャンフランコにマリアも小さく笑った。
「お腹がはちきれそうだわ」
「そうだろうね、そんなに痩せて」
逃すつもりはないときっちり示した彼にマリアは諦めて項垂れる。
空になった皿を下げたジラが奥へ入って行くのを待って、マリアはゆっくりと口を開く。
しかし長い間話さなかった人ように少し舌がもつれた。
いつの間にかテーブルの下で握っていた手がじわりと汗をかいているのがわかる。
「……農場を手放さなきゃいけなくなったの」
嘗てジャンフランコに農場の事を話した事はなかった。
ダグラスの事をホレーショーに話せないように彼はある意味逆の立場なのだ。
ある時から親密に打ち解けるようになって、彼がマリアを本当に妹のように思ってくれているのがわかったからこそ、家の事は話せなかった。
ホテル王の息子である彼はマリアの家が困っているとなれば、湯水のように金を使う事も厭わなかっただろう。
恐らく察してはいたのだろうが、マリアが何も言わなかったのでジャンフランコもそのように接してくれた。
しかし今、彼はマリアが話してしまうまで逃がさないと決めているようだった。
とうとう言ってしまったと、うっすらと唇を噛んだマリアの頬にジャンフランコの指が伸ばされ優しく触れる。
「辛いだろう、あれほど君は両親の農場の為に頑張っていたのに」
「わかってはいたの、いずれこうなる事は。私はただ思い出の土地を自分の手から離すのが嫌で認められなかったのね」
頬に触れるぬくもりに後押しされるようにマリアは認め、そう言った。
とたんぴしりと自分の中の何かが音を立てて軋んで、その衝撃にぎゅっと目を閉じ耐える。
「それで……権利を売って欲しいと言われたの、……彼に」
躊躇いながらも口にした言葉にジャンフランコの指が離れ間際にぴくりと動いたのを見てマリアは彼の動揺を知った。
三年前のあの日、倒れ掛けたマリアをジャンフランコはホテルの部屋に連れて行き手厚く介抱してくれた。
軽く錯乱していたマリアはそれまでの様々な悲しみが自身を襲って、訳もわからず全てを彼にぶちまけていたのだ。
気が付いた時には途方もない羞恥と後悔に襲われたが、決して彼は茶化すでもなく真面目な顔でマリアの手を握る。
彼もまた家族を――幼い頃可愛がっていた妹を病気で亡くしていた。
それだけではない、当時より更に五年前にも愛した人さえ事故で亡くしてるのだと語ってくれた。
人を愛して失う恐怖はまだ消えていないのだと言う。
誰かを好ましく思う事はあるが、恐怖に打ち勝つほどまた女性を愛する事は出来ないという不安と共に。
暫く二人は寄り添って互いの内なる恐怖から身を守った。
それからだ、ただの気の合う二人から、同じ「傷」を持つ同士のような絆を得たのは。
違う意味合いではあるがお互い異性に対する恐怖感を抱いている、それを知っているからこそ一定の心地好い距離を保っていられるのだ。
そしてジャンフランコはマリアの男性に対する不安と恐怖もあの時から知っている。
彼――ダグラスの事も。
「仲直り……はしてないようだね、その様子じゃ」
マリアは眉尻を下げて頷いた。
尤も喧嘩という訳でもない、ダグラスにはもう昔のようにマリアに接する気などないだろう。
もし僅かにでもそれがあったのなら、マリアの気持ちも聞き出さずまるで決定事項のように告げて来る訳がない。
「経営権を彼に渡して、運営は私に任せると言うの。農場を売るつもりはないと言っているわ、でも……」
「彼を信じられないんだね」
震えて続かなかった言葉を引き継いだジャンフランコにマリアは項垂れるまま肯定する。
彼に愛されないからといって彼の示したものを信用ならないというのは気恥ずかしかったが、それでもマリアはジャンフランコにもう隠さなかった。
ホレーショーにも憂いの全てを話す事が出来ない以上、マリアにとって彼は最後に縋れる唯一のものだった。
嘗て兄とも慕ったダグラスにそうしていたように。
「マリー、マリア、そんな顔をしなくてもいい。君の愛情はきっと君が思う以上に深いんだ、だから君は様々な事に深く傷付いている。愛に恥じ入る事はないよ」
微笑んだジャンフランコにマリアは泣きそうになるのを必死に堪えた。
「さて、これが問題なんだが、君は農場をどうしたい?」
「……手放すわ」
やっとの思いでマリアはそう言った。
限界は常にあった、それが今目の前に迫っているだけなのだ。
問題は誰に、どういった形で手渡すかだ。
「それなら僕の知人を紹介する。家畜を増やしたいと言っていたから、君の農場なら充分だろう。でも君はこれからどうするんだい?弟や妹は?」
「他に仕事を探すわ。家を……出て行かなきゃならない事になるけど、弟達には口煩い姉がいない方がいいだろうし……。もし農場を買ってくれる人がいたらそのお金で寮のある学校に入れるわ、あの子達が入りたがっていた所があるの。お金が足りなければ家にある物を売って……」
ここに来るまでに精々マリアに考えられたのはこの程度だった。
農場はともかく家まで売る事を真っ先に選択は出来ないが、だからといってしがみ付いていても家から通える範囲で仕事は見付からない。
また途方もない寂しさが蘇って来そうで、マリアは必死に胸の中にある思い出を全て掻き集めるように胸の前で両手を握り締める。
大丈夫、ここにある。
農場も家にもいられなくなったって、弟妹が遠くへ行ったって、大事なものは全てこの胸に繋いである。
マリアはともすれば震えそうになる両手を口元で押さえた。
「決めたのかい?」
急かすではないゆっくりとした口調にマリアは真っ直ぐジャンフランコを見て頷いた。
「わかった。早速明日知人に連絡するよ、彼と会って話し合ってどうするか詳しく決めるといい。大丈夫、いい人だよ。ただちょっと、馬に対する愛情が半端なものではないけどね」
「大歓迎だわ」
マリアは時間を掛けて息を吐き出し、差し出されたジャンフランコの手を何度もお礼を言いながら強く握り返す。
もう後戻りは出来ない。
けれど戻る場所もないのだと、マリアは前を見詰めた。
翌日早速ジャンフランコが寄越してくれた使いに連れられ、夕食を交えてマリアは彼の知人と話をする事になった。
指定された店へジャンフランコに連れられてやって来た人物を見てマリアはまず倒れそうになる。
というのも彼は合わせれば数千ヘクタールも下らないだろう莫大な農場を所有する組合長だった。
震えそうになるのを必死で堪え、マリアは努めて笑顔でレジナルド=ホルブルックに手を差し出した。
ホレーショーと同じくらいか少し上の年頃だろう、日に焼けた顔をにっこりとさせ気持ちのいい笑顔でその手を握り返した彼は、ジャンフランコがいた所為もあってか驚くほど好意的にカートライト農場について評してくれた。
「彼から話を聞いたんだが、農場の近くに家を構えているんだって?」
「ええ、小さな家ですが。それが何か?」
「実はね、そこを借りたいんだ、暫くの間」
思ってもみなかった言葉にマリアは咄嗟に喉を詰まらせそうになる。
慌てて首を振って人に貸せるような、まして彼が住むような家ではない事はなんとか訴えた。
家はマリアが生まれる前に祖父が建てたもので、修復しながら住んでいるほどには古い。
身寄りがいなかった母の為、祖父が当時結婚祝いとして母好みの家をプレゼントしたと聞いている。
それだけに様々な思いと思い出が詰まる場所なのだ。
しかしレジナルドは気にもしない様子で続けた。
曰く、彼とその妻は大きくなり過ぎた農場ではなく、最初の頃のようなもう少し小さな場所で日々を過ごしたいらしい。
カートライト農場には増やす予定だった家畜を移送しその場所では極小規模でやって行きたいと、満足そうに彼は語った。
「思ってもみない事です……ああ、その、何と言ったらいいか」
「家には私達だけが住む事になる、息子も娘ももう手を離れているんだ。勿論、改装もしないよ」
「はい、ありがとうございます、是非そうして下さい。いえっ、改装などはお好きになさって下さって構いません。……もしかしたら、家を潰して土地を売らなければいけないかと思っていたので……」
少し堪え切れなかった涙をマリアは慌てて拭った。
その様子に二人は微笑んで視線を交わす。
「ああ、本当にありがとうございます。感謝しますわ、ミスター・ホルブルック」
「レジナルドと呼んでくれて構わないよマリア」
レジナルドの言葉に何度も頷き彼の手を取ってマリアはお礼を繰り返した、勿論頬を出して催促するようなジャンフランコにも笑ってお礼のキスをする。
ジャンフランコを交えながら二人はその日遅くまで農場について語り合った。
そしてそれから五日後には自宅にホレーショーを呼び、農場を手放す事を彼に告げた。
黙って頷き抱き締めたホレーショーの内なる言葉はマリアにも伝わる。
自分よりもずっと長く両親の農場を見守り支えてくれた人だ、きっとマリア以上に思う事はあるだろう。
「よければこのままこの農場にいてホルブルック夫妻の助けになって欲しいわ、とてもいい人よ。きっとホレーショーとは気が合うと思うの、彼もそれを望んでいるわ。ここに家庭がある人には是非残って欲しいって」
「ああ、勿論だ。それにしても驚いたよ、まさかあのミスター・ホルブルックが新しい農場主になるとはね。確かに彼ならあの農場を上手くやってくれるだろう」
「ええ。私も驚いているの、本当に友人には感謝しなければ」
椅子に腰掛け出されたコーヒーを一口飲んで、ホレーショーは家の中を見渡した。
「よく決心したねマリア」
マリアはそれに首を振った。
本来なら遅過ぎるくらいだ、そしてこれだけいい条件で引き渡せるのは全てジャンフランコのお陰だった。
彼は「妹」の為だと笑って請け負うが、やはりいずれ返せるものは返して行きたいとマリアは思う。
「仕事は見付かりそうか?」
「ええ、隣の州のホテルを紹介して貰ったの。下働きから、また色々勉強していくつもり」
「お前なら出来るよ、必ず幸せを掴める」
「ホレーショーおじさん」
マリアは立ち上がってホレーショーに抱き付いた。
この五年間、いやそれ以前からもう一人の父と慕った人だ、別れるのは身を切られる思いだ。
両親を亡くした時のように恐怖が一瞬襲ったが、二度と会えなくなる訳ではないとマリアは必死に自分に言い聞かせる。
「クリスとキャットは?」
「やっぱり寮学校に入れる事にしたの、学費も今回のお金で間に合いそうだし。今晩話すわ、昨日私も行って来たけどとてもいい学校だった、部屋もずっと綺麗で。きっと二人共すぐに馴染むと思う」
「あの子達も寂しがるだろうな」
「……そうだといいんだけど」
苦笑したマリアの頬をホレーショーが撫でる。
「そうだとも。マリア、あの子達はお前を疎んでいる訳ではないよ。反抗期というやつだ……よくある、ね」
にやりとしたホレーショーにマリアも笑って頷く。
ホレーショーの一番目の息子は十代の時手が付けられない「やんちゃ」だったが、二十代になったとたんがらりと生活を変え出て行っていた家に戻って来た。
今では妻子を抱え仕事に奮闘していると、ホレーショーがいつか呆れたような口調ながらも嬉しそうな顔で言っていた。
そしてほっとした顔をしたホレーショーにマリアが首を傾げると、そっと微笑みが返る。
「笑顔だね、マリア」
ホレーショーの優しい声にマリアははっと息を飲む。
やがて微笑んで頷いた。
「そうしておいで。それがジェシー達にも、私にも、一番の安心になる。お前が微笑むとほっとするんだよ、マリア」
再び抱き付いたマリアをホレーショーは優しく抱き締め返し、長い間末娘の背中を優しく撫で続けた。
日も落ちた頃に家に帰って来たクリスティアンとキャサリンをマリアは呼び止め椅子に座らせた。
こうして向かい合うのは何日ぶりだろうと内心苦笑する。
二人はまた小言を言われると覚悟しているのか身構えた様子だったが、マリアの雰囲気が変わっているのに気付いてやがて訝しげな目を交わす。
正面に座ったマリアは細く深呼吸を繰り返して二人を見た。
例えば反抗期だろうが、二人はマリアにとって可愛い弟妹に違いはない。
クリスティアンは少し気弱で、しかし物事の機微には聡い。
キャサリンは勝気だが、それだけ行動力もあるし突き進んで行く力がある。
大きくなったのだなと不意にマリアは思った。
もう何から何までマリアの、誰かの指示に従って行動する年ではないのだ。
「農場を売る事になったの」
息を吸い込んだマリアははっきりとそう告げる。
一瞬呆然とした二人の目は徐々に見開かれた。
「どういう事?」
「売るって、それじゃあこれからどうするの?」
立ち上がり掛ける二人を制して、マリアは続けた。
「二人には寮のある学校に入って貰うわ。ほら、貴方達が以前行きたがっていた所よ。私もこの間行ったけれど、とてもいい所だったわ」
「寮って……」
「農場を買ってくれる人がこれからここに住む事になったの、農場もそのまま使ってくれる形でね。急な事だけど、来週には私達はここを出なくちゃならないわ。ホレーショーおじさんやボリスが荷物を運ぶのを手伝ってくれるから、必要な物を纏めておきなさい」
「姉さん!嘘でしょう!?」
「そんな、あの農場を手放すなんて――」
マリアは首を振る。
「ごめんなさい、貴方達だってあの農場が思い出の詰まっている場所だってわかってる。けどもう、このままじゃあの場所は売れもしなくなってしまうわ、それどころか全て潰されて借金を抱える羽目にもなってしまう。姉さんを許して――私の力が足りなかった、考えが甘かったの。でもこれからの事も心配はしないで。私は新しい場所で働くし……隣の州の大きなホテルなのよ。大丈夫、一からやり直すつもりで私頑張るから、ちゃんとお金を送るわ。あまり会えなくなるけど、……私がいつでも貴方達を愛している事は、忘れないでね」
力の抜けたような顔で座り込む二人にそっと目を伏せ、マリアは立ち上がって自室へと戻った。
複雑な心境であるだろうが、二人もすでにどうする事も出来ないのは悟っているだろう。
とんとん拍子に話は進んで以前なら不審を抱いただろうが、今のマリアは風に乗るような気分だった。
これまで必死にやって来た日常から未知の世界へ飛び込む事は並大抵の事ではない。
しかし大人になるべく、決別の時が来たのだ。
例え思い出の場所を求めて心が寂しさに軋んでも、この先一生「傷」を抱え――他の男性が愛せなくとも。
しがみ付き、それが許される時代は終わったのだ、疾うの昔に。
自分の行く先に何が待ち構えているかはわからない、けれどそれは誰だってそうなのだ。
これからはささやかでも、自分なりの幸せを見付ける為に努力しなければならない。
愛する人に愛される、そんな幸せ以外のものを見付けられるはずだ。
マリアはベッドに腰を下ろして灯っていた明かりを消すと、窓の外にぽっかり浮かんでいる月を眺めた。
こんな風に淡くても優しい光でこれからの人生も満たされて行きますように。
両手を組み、祈りを捧げたマリアはゆっくりと目を閉じた。