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02.初恋の人

「行ってらっしゃい」


 この一週間、今日もその呼びかけに返って来る言葉はなかった。 


溜息をつきながら無駄になった朝食は農場にいるボリス達独身者に食べて貰っている。


何を言われるかはわかっているのでホレーショーには内緒だった。


夕食もどこで食べているのか、弟妹はマリアが用意したそれには見向きもしない。


いっそ用意するのを止めてしまえばいいのかもしれないが、五年も習慣となった行動は抜けそうになかった。


それにいつ気が向いて食べてくれるかもという期待が捨てられない。


 無意識にまた溜息をついたマリアは今朝からもう何度目だろうかと思う。


自身の食欲もすっかり落ちて、農場へ行けばホレーショーやボリス達の心配そうな視線に晒され、申し訳なさと情けなさに胃が痛む毎日だ。


 それに農場の今後の事も決まってはいない。


理屈ではダグラスの提案が悪いものではないとわかっている、経営権を渡してしまっても自分が運営していけるのならむしろ条件が良過ぎるくらいだとも。


 結局拘っているのは自分だけなのかとマリアは肩を落とした。


そして昔とすっかり変わってしまった態度を気にもしていない様子のダグラスにとって、自分はその程度の存在でしかなかったのかと。


「マリア」


 荷物を纏めて家を出たところで後ろから掛けられた声に思わずびくりと肩を揺らしてマリアは振り返る。


じっと無表情に自分を見詰めている彼の感情など、今では何も見えては来なかった。


「ホレーショーから話は聞かなかったのか」


「……聞いたわ」


「悪い条件じゃないだろう。何も無断で売り払おうとしている訳じゃない、俺はそんな事はしないさ」


 昔なら……彼を純粋に想っていられた頃ならそうだっただろうとマリアは心で頷いた。


しかし彼の恋人には決してなれず、今となっては妹としての価値もない、そんな自分に今更そんな好条件を出して来るのは何故だろうかと疑ってしまう。


数年ぶりにしたマトモな会話がこんな話ばかりでは、目的があると見た方がむしろ自然だろう。


 それなのに今ですらダグラスの視線一つで心を揺らせてしまう自分がマリアは恨めしくも嫌になった。


自分の中で全てが矛盾を抱えている気分だ。


「どうして急にそんな事を言い出したの?」


「急でもないよ。君だってわかっているはずだ、このままでいれば負債を抱えて全てを売っても借金が残る」


 わかっている、けれどとマリアは唇を噛む。


「そうなったらあの子達は学校にも通えなくなるんだぞ」


「わかっているわよ!」


 自分でも驚くような大声が出てマリアはくっと俯いて持っていた荷物を握り締めた。


ダグラスの言う事は全て正論だ、マリアが家も農場も残したいと決めた時点で……結果は殆ど決まっていた。


ただそれを先延ばしにしただけなのだ、結局は。


何の後ろ盾もなく父や母のように、学生だった自分が上手くやれるとは勿論思わなかったが。


現状維持くらいはしていけるだろうという期待さえ甘かったのだ。


 ゆっくりと歩み寄って来る気配がしてマリアが顔を上げると、僅かに顔を歪めたダグラスがいる。


そんな顔もある意味見るのはマリアだけだろう。


いつも逆境にすら爽やかな微笑を浮かべて乗り切って行くダグラスは、誰にも同じような微笑を浮かべる。


彼に選ばれた恋人達はその隣で自慢げにそれを独り占めしようとするのだ。


 彼の恋人達は誰もその期間が短く、けれどすぐに空席は埋まってしまう。


マリアもこの五年で遠巻きに様々なダグラスの恋人達を見て来た。


しかし次々に空き埋まる、その席にマリアが近付けた事すらない。


元より彼が遠ざかってしまっているのだから、無理もないが。


 自分を咎めるような視線に耐え切れずマリアはダグラスに背を向けた。


嘗ては、追いかけた自分がそうされたと思いながら。


「夏が来るまでには決めるから……もう少しだけ時間を頂戴」


「マリ――」


 それをやっとの思いで呟いて、マリアはその場から走り出す。


背中から聞こえて来たダグラスの声が昔のように「マリー」と呼んだ気がして、そんな気がした自分が心底嫌になった。


 少なくとも決定打だったのは、やはりマリアが知る限りダグラスがあのセクシーな恋人と歩いているのを見た最初の日だろう。


腕に恋人を絡ませたダグラスは駆け寄って行ったマリアにあっさりと背を向けた。


勝ち誇った顔で「さようならお嬢ちゃん」と振り返った女性の顔が今でも脳裏に焼き付いている。


ショックから抜け出せないでいる間にいつの間にか、そしてあっという間にダグラスは遠い存在になった。


 ダグラスが一人の時に話しかけても結果は同じだった、それでも何度も追いかけた、日々の忙しさの中でも彼の存在だけはまだマリアの中で輝いていたのだ。


しかしそしてまた素っ気無い言葉で追い払われた。


一年ほどそれを繰り返し、いつしか追いかける事も出来なくなって、二人の間に個人的な接点は何もなくなったのだ。


クリスティアンとキャサリンの事でさえ、もう二人を繋ぐものではない。


むしろ二人が離れた分、弟妹とダグラスの距離が縮まったほどだ。


 くしゃくしゃとした気持ちを抱え、マリアは濃い悲しみが混ざる苛立ちをなんとか治めようとする。


昔からだそうだ、ダグラスは一瞬でマリアの気持ちを乱してしまう。


浮くのも沈むのも、ダグラスの手にかかれば造作もなかった。


 だからだろうか、今頃という思いも手伝って、ダグラスの言葉に頷く気になれない。


あの日のように突然掌を返したように背中を向けられないという保障などどこにもないのだ。


そう、それが出来るだけの信頼はすでに失ってしまっていた。


 ――それなのに勝手に昔と同じように心のどこかが高ぶってしまうのは何故だろう。


いっそこの凝り固まった愛が心から消えてしまえば、楽になれるのに。


今やマリアの方が背を向けて逃げ出したい気分だった。









 思考を振り切るように農場に出たマリアはいつものように黙々と仕事に没頭した。


 殆ど五年前に雇い入れた人達は皆気持ちのいい人ばかりなのが救いだ。


ただそうだからこそ皆に給金が払えないという自体にはしたくない。


一番年長のホレーショーを始め、家庭を持っている人も多い。


独身であっても次の仕事を探す妨げになりたくもない。


 馬にブラシをかけた後は外に出して、一心不乱に顔が映りそうなほど床を磨き上げる。


農場は何もかもが大変な仕事だったが、両親を見て育ったマリアは苦の中にもある楽しさを知っていた。


床から顔を上げて中に戻したとりわけ毛並みのいい馬に歩み寄ってその首を撫ぜる。


「貴方に早くいい買い手が見付かってくれるといいんだけど……でもホレーショーの目は確かだから、心配は要らないわ」


 ぶるんと鳴いて擦り寄って来た馬にマリアは少し目を丸くして苦笑した。


きっと人の言葉が話せたのなら「心配なのはそっちの方だ」と言ったに違いがない。


時折街へ出るのにマリアが走らせるこの馬は頭もいい。


「お嬢さん、そろそろ休憩にしませんか」


 ボリスの声にマリアは返事をしながらもう一度馬を一撫でして、ブラシやモップをバケツに入れるとそれを手に外へ出る。


空は明るく草木も青々としていて、夏がもうすぐだと告げていた。


眩しさに目を細めるフリをしてマリアはひたひたと心に広がる焦燥感を押しやる。


 休憩を取る小屋に入って行った面々に用意して来た昼分のサイドイッチと飲み物を出し、少し自分の分を取ると外で食べると言い残して再びマリアは外に出た。


牛が放牧されているのを眺めながら柵に手を掛けよじ登って腰掛ける。


涼やかな風を受けてほっとマリアは息をついた。


 下に置いた食べる気のないサンドイッチが恨めしげに見上げているような気がしたが、それを無視してただひたすらマリアは農場を見渡す。


そして自分の両手を見下ろしそれをぎゅっと握って苦笑する。


 何もかもこの手にしていたいと願うばかりだった。


取りこぼしている事にも気付こうとしないで、ただ躍起に誰かの手に渡したくないと駄々をこねる様は子供そのものだ。


人々はマリアを見てよくやっていると言ってくれるが、やはりそうではない事は自分が一番強く感じている。


 時間を欲したのすら間違いだったのだろうか。


最初から誰かの手に引き渡していたのなら、こんなに辛くはならなかっただろうか。


 ダグラスの言う通りに出来たとしても、自分の心はそうではないとマリアは感じた。


あの他人行儀そのものな態度や会話がどうにか出来ない限り、ダグラスでなくとも誰の手に渡しても同じ事だ。


知っているだけに却ってダグラスの方がやり辛いだろう。


肝心なものを奪われたまま、いつ掌を返されるかとびくびく怯えながら農場をやって行くのは、さして現状と変わりない。


 この五年で何度思った事だろう、男性にさえ生まれていたのならよかった。


そうだったなら少なくとも女性相手だと下に見られる事もなくもう少しばかりは農場を上手くやって行けたかもしれない、もしかしたらダグラスとて昔と変わらぬ友情を育んで行けたかもしれない。


 マリアは緩く首を振った、そんな夢物語は今やどこにもないと。


今まではダグラスを追いかける事で見なかったフリをしていたが、最初から彼は遠い存在だった。


本人は乗り気ではないようだがダグラスもいずれ爵位を得る事になるだろう、そうして彼の隣に並ぶのは同じ貴族かお金持ちの家のご令嬢になる。


 それに比べて自分はどうだ。


長い間の農作業の所為で唯一自慢だった金色の髪は色褪せたようになっている、もう肌は陶器のようだと言われる事もなければ、彼の恋人達が身に着けていたドレスなどきっと元々似合わない。


――私は彼に相応しくない。


こんな自分の事もわからない子供の相手をするのが嫌になっても当然だ。


マリアが農場を手放さないと躍起になったあの我侭を叶えてくれたのが、ダグラスの最後の優しさだったのかもしれない。


 彼は間違っていなかった、間違っていたのは……自分だった。


「……」


 また熱くなる目頭を誤魔化すようにマリアは昔母のキャスリンがよく歌っていた歌を口ずさんだ。


家族でピクニックに出かけた時、幼い弟妹が農場を手伝うと小さな体で両手一杯に藁を運んだ時、楽しい事があると必ず歌ってくれた。


そしてマリアが落ち込んだ時にも元気を出せるようにと、隣に座ってマリアの肩を抱き締めながら優しく。


 キャスリンは根本的に体の弱い人だった、体力はそれなりにあったのだが病気に罹り易かったのだ。


あの日、マリアは学校から帰って裏庭で倒れている母を見付けた。


大慌てで農場にいる父を呼びに行って、そして父は母を馬車に乗せて村の医者に診せに行ったのだ。


――運が悪かったとしか言い様がない。


気が動転していた父は近道を通ったのだが前方で寝ていた犬に気付かず、慌てて手綱を引いたものの咄嗟の事に犬も馬も驚き過ぎたのだ。


バランスを崩し馬車は横転したまま馬に引き摺られ、そして崖から落ちた。


そう高いところでなかったにも関わらず、父も母も打ち所が悪かった。


そう、何もかも、悪過ぎた。


 いつの間にか歌を止めていたマリアは柵の上でぶらぶらと足を投げ出す。


何度も何度も、後悔してばかりだった。


そしてあの時父の代わりに馬車一つ動かせなかった自分を罵った。


 このところこんな事ばかりだなとマリアは苦笑してふと息をつく。


昔を思い出しては無力で子供だった自分に絶望して、けれど五年経ってもちっとも大人になれていない自分に失望している。


「どうしたらいいんだろう」


 最早自分の気持ちに始末をつけるだけなのだ、だがそれが一番の困難だと言えるだろう。


 両親が亡くなって現実がよくわかっていない弟妹を寝かし付けた後、マリアの傍にいてくれたのはダグラスだった。


何も言わずただじっと強く肩を抱いていてくれた。


恐らくその時だろう、マリアがそれまでダグラスに感じていた憧憬をはっきり恋愛感情だと自覚したのは。


しかし皮肉にもその時からダグラスはマリアへ距離を置くと決めたのかもしれない、マリアの自覚した感情に気付いたからだろうか。


 あれほど失うのが怖くて無我夢中でやって来たのにこの先残るものはある意味家だけになる。


視線を上げ、マリアは少し遠くに見える自宅に目を細めた。


 思い出は残る――ホレーショーのその言葉が重く圧し掛かる。


「何してるんだ、そんな所で」


 その声にはっと顔を上げると今朝と同じ人が立っていた。


いつもいつも、この人を見ると泣きそうになってしまうとマリアは思う。


「何も……」


「マリア」


 言い聞かせるようなその声が、じわりと胸に痛みのようなものを齎す。


「仕事は?」


「明日からまた暫く出なきゃならないから、今朝から荷造りに来たんだ」


 エイブラハムと同じようにダグラスも最近ではあちこちに飛び回っている。


 また催促に来たのだろうかと思いながらマリアが頷いた時だ、彼の背後からドレスの裾を引き上げてやって来る人物を認め思わず目を逸らす。


「ダグラス!」


 鈴のようなその声にダグラスも笑顔で手を振っているその人を振り向いた。


ある意味、いつもと同じだ。


気品と色気たっぷりの美女、そしてその人の腕を自分に巻き付け微笑む彼。


 マリアはすとんと柵から降りた。


「ダグラス、こんな所にいたの?探したのよ。今日はデートの約束じゃない。ねえ早く行きましょう、靴が汚れてしまうわ」


 笑いながらも農場の土に眉を寄せた女性にダグラスは「仕事の話があったんだ」と頷く。


 ――仕事の話。


マリアは内心繰り返してその場から立ち去ろうと背を向けた。


しかしダグラスの声が追いかける。


「夏までには本当にちゃんと返事をするわ。早く彼女を連れて行ってあげたら?」


 その美しい靴が汚れてしまっては大変だものね、と口にはせずに肩を竦めマリアは今度こそ歩き出して納屋の方へと向かう。


自分の足音と彼らが去って行く足音が重なって聞こえた。


 どうして一々胸が痛くなるんだろう、マリアは馬鹿馬鹿しい思いで少し乱暴に開いた納屋のドアを閉める。


彼の恋人になれない事などもういい加減わかっているのに。


それともまだ期待をしているんだろうか――本当に馬鹿馬鹿しい。


 彼がもし本当に農場をマリアの手元に残しておくべく「出資」をしてくれるのだとしても、もう彼との接点は余計な繋がりだった。


「愚かな子供のマリア」は僅かにでもダグラスと繋がっている限り期待をして、まんまとこうして期待を裏切られ勝手に傷付く。


 納屋に入って来たボリスが買い足しに行こうと思っていたというのを半ば強引に取り上げ、マリアは早足にその場から出て馬に飛び乗ると風を切るように走り出した。


ダグラス以外の誰かに渡せば農場は売られてしまうだろう、しかし元からそうなる事だったのだ。


ただマリアが諦めればいいだけだ、五年も長く思い出の詰まった農場で過ごせたのだからそれを喜ぶべきだ。


父も母もマリアの心の中に生きている、農場がなくなっても父も母も許してくれるだろうし、今だって離れていても何もかもが思い出せる。


何度も何度も言い聞かせるように繰り返した。


 雑貨屋の前で馬から降りたマリアが馬を脇に繋いでから雑貨屋のドアを開けようとすると、嬉しげな声がマリアの名を呼んだ。


それは今はもう誰も呼ぶ事がない、両親とダグラスだけが呼んでいた名前。


「マリー!やっぱりマリーだ、久しぶりだね」


「ジャン!?ジャンフランコ!」


 振り向いた先で笑顔で両手を広げたジャンフランコの広い肩にマリアも笑顔で飛び付いた。


 ジャンフランコ=ランドリアーニはマリアが三年前に台風で壊れた納屋や農具を修復するのに夜も働きに出ていたホテルのオーナーの息子だ。


成績の良かったマリアはホテル内で子供達に少しばかりの家庭教師やクリーニングをしていたのだが、父親についてこちらに来ていたジャンフランコとはそれが縁で出会った。


マリアは彼の友人の息子の家庭教師をしていて、その部屋にジャンフランコが遊びに来たのだ。


異国情緒たっぷりのそのセクシーな美貌を最初こそ臆していたものだったが、一緒になって子供相手に勉強を教えようとする彼は陽気でユーモアもありマリアもすぐ打ち解けた。


 それからジャンフランコが滞在している間に二人は仕事の合間を見付けてはこっそりと会って様々な話をした。


ダグラスよりも四つ年上のジャンフランコは、当時ダグラスの仕打ちに打ちひしがれていたマリアにとって本当に兄のような存在だった。


尤も彼に対してダグラスのように兄以上の想いを寄せる事はマリアにはなかったが。


「ちっとも手紙をくれないから、我慢するのは止めて飛んで来たんだよ、テゾーロ」


 大切な人、と目を優しげに細めてそう言うジャンフランコにマリアはくすぐったさを覚えながらも首を振った。


「ごめんなさい、でも貴方ったらちっとも一つの場所にいようとしないんですもの。私が一度出した手紙を読んだのは何ヵ月後だったか憶えているの?」


「勿論、七ヶ月も熟成させた君の手紙は最高の味だったさ」


 全く違和感のないウィンクにマリアはくすくすと笑った――それが久しぶりだと気付き、少し俯く。


しかしマリアの顔を引き上げるようにジャンフランコの指が顎に掛けられた。


 ダグラスの瞳は女性を包み込んで融かしてしまうようだと言われるが、ジャンフランコの瞳は相手を貫き燃やし尽くそうとするような熱を帯びている。


うっかりその炎に飛び込んで焼死した女性は数が知れないのよ、と言ったのは彼の友人の妻だ。


自分が焼け死ぬ事はないだろうが、逃げられないなとマリアは早々に白旗を揚げた。


「顔色が悪いね、まるであの時みたいだ。これから時間はある?いや、なくても僕は今夜君をディナーに連れて行くよ」


 すっと髪を一撫でされてから、以前と変わらない強引さで約束の時間と場所を告げたジャンフランコは来た時同様風のように去って行った。


それを見送って雑貨屋で買い物を済ませたマリアは馬の手綱を引きながらゆっくりと歩いて道を戻る。


 「あの時」――三年前、もう近付く事を止めてさえいたダグラスと、その恋人の情熱的なキスを見てしまった日。


恋人の顔から一瞬顔を上げた彼はマリアに気付いていた、そして笑ったのだ。


再び彼が顔を恋人に向かって伏せた瞬間、マリアはその場を飛び出した。


何を思ってダグラスがマリアに向かって笑ったのかはわからない。


これ以上傷付く事はないと思っていた心はまたしても切り裂かれ、涸れたと思っていた涙は滝のように溢れた。


夢遊病者のように街をふらふらと歩いていたマリアに気付いたのがジャンフランコだった。


 不意にマリアの脳裏を懐かしい声が過ぎる。


「可愛いマリー。君が困ってる時にはいつだって駆け付ける、助けてあげるよ。だからいつも僕に微笑んでいて」


 今よりもずっと若い、笑顔のダグラス。


それは古びた写真のように時を止め、けれど思い出す度色褪せていく、幼い頃の甘い記憶。


「……頭が痛いわ」


 ぐるぐると全身を渦巻く何かに気付かないフリをして、マリアはただそう呟いた。





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