28.見失わない
馬車に揺られてやって来た大きな建物の中、通された部屋で振り返ったその人は別段驚いた顔も見せなかった。
ダグラスの口元にある痣を見てでさえだ。
まるで全てを理解しているとでも言いたげに一つだけ頷かれたのに対し、ダグラスは苦いようなほっとするような複雑な気分を味わう。
しかしこれほど臆さずに父に向かい合えたのは初めてかもしれなかった。
「父さん。いずれ――いや、俺はこの会社に残らない道を選びます」
威厳にさえ溢れている父にこうして向き合うといつも気圧されるものがあった。
あまりにも偉業を成し遂げ続ける父の背中を追ってここまで来た、この選択が周囲に影響を及ぼすとも理解している。
しかしどちらかを選べと言われて、今のダグラスに迷いはなかった。
もっと早くに気付くべきだったのだ。
父の背中を追いかけている以上、隣に並ぶ事も超える事さえも出来ないと。
「マリアの事は聞いている、私も勿論助力は惜しまない。だが彼女を助け出せたとして、それからお前はどうする」
「また一からやり直します、何年かかろうと。俺は必ずエイブラハム=D=ボルジャーを超えます」
出来るか出来ないかではない、やるかやらないかだ。
マリアの事も同じだった。
先の事など勿論どうなるかはわからない、ただ今までの全てを投げ出す事はしたくなかった。
それは自分自身の人生に他ならない。
自分を支え、見守り、信じてくれた人達の為にも、歩み続けなければならない道だ。
何より自分を見失わずにいれば、同じ過ちを繰り返す事はない。
己が何を考え何を思い、そしてどう行動するか見極めれば、自ずと周囲の事も見えて来る。
自分を見るという事は即ち周囲を見るという事なのだ、それにやっと気付けた。
やがてエイブラハムはゆっくりと表情を緩め、そして僅かに微笑む。
「お前には最初からその方がよかったのかもしれないな。話し合うべき事を怠ったのは私の怠慢だ。だがお前の決断を嬉しく思うよ」
母が一番好きだと言っていた父の表情だった。
恐らくは血の繋がりのない息子を抱え、周囲に碌に目も向けず立場を守らなければと必死になっていた息子にどう声をかけていいものか彼も迷っていたのだろう。
あの頃違う道を進めと言われていたのなら、自分は息子として認められなかったと絶望したに違いない。
母の言う通り、父もまた自分が想像していたよりもずっと心を砕いてくれていたのだ。
ダグラスは震える声を抑えて低く、だがはっきりと言った。
「ありがとう、父さん」
「報告はこちらでも随時受けているが、首尾はどうだ?」
さっといつもの厳しい顔に戻ったエイブラハムにダグラスも緊張を新たにする。
「その事で少々お話があります」
促されソファに腰を下ろし、正面に座った彼に対して慎重に話し始めた。
やがて話し終えるとエイブラハムはやはりショックを隠せない顔を両手で覆い膝に肘をつく。
静かに堪えているようだったが、ダグラスには父が己の激情と戦っているのがわかった。
マリアの両親が他界した夜もこうした父の姿を目にした事がある。
だが受けた衝撃はある意味それ以上のものかもしれない、親友が他界したのは他殺などという可能性があれば尚更だ。
「そんな馬鹿な事が……」
「今はまだ憶測に過ぎませんが、可能性は高いです」
少し白くなった顔を上げたエイブラハムは頭を振って冷静になろうと努めているようだった。
「何か、キャスリンの事で知っている事はありませんか?」
節くれ立った指で顔を撫で、彼は一つ呼吸を置いて首を横に振った。
「彼女について知っている事は実はそう多くはない。元々がこの国の生まれで、それから十にも満たない頃家の事情で働きに出たらしい。彼女の両親は流行り病で早くに亡くなっていたそうで、当時キャスリンの面倒を見てくれていた女性の知人がジェシーの父親だった」
「ジェシーから何か聞いてはいませんでしたか?マリアは昔、恐らくハーサリェルストという国の言葉を時折話していたんです。ジェシーがその事について言っていた事は?」
ダグラスは焦れる思いで待ったが、彼は首を横に振っただけだった。
ジェシーも知っていたのかどうかはわからない、知らなければキャスリンは夫にさえ話していなかったという事になる。
「ジェシーは人の好い男だった、勘付いてはいても敢えて聞かなかった可能性は大きい。あいつはマリアという娘が出来た事を本当に喜んでいたからな」
肩を落としながらもダグラスは記憶に残るジェシーを思い出し頷くより他なかった。
ジェシー=カートライトという男は実に稀に見るお人好しと言ってもいい人間だった。
ダグラスが知る限りでも、その所為で損をした事は一度や二度ではない。
彼がもっとビジネスに対し積極的で僅かにでも冷酷さを持ち合わせていたのなら、今頃あの農場はホルブルック家が所有する物よりも大きかったかもしれない。
しかし彼は農場を大きくする事よりも、妻子を愛する事に心血を注いでいた。
マリアに引っ張り込まれた先で出迎えてくれた彼らの家庭の温かさに羨ましさを感じた事もある。
彼は知らなかったとしても、マリアを我が子として深く愛していた。
今目の前にいる父がそうであるように。
「しかし……いや、わかった。こちらでも調べてみよう。不明瞭な事が多い今、些細な事でも気に留めておいた方がいいだろう」
「はい」
「そう浮かない顔をするな。お前は昔からそうだ」
呆れたようにしながらも、どこか懐かしげにエイブラハムは笑う。
「自分でも不甲斐ないのは重々承知しています。目の前でみすみすマリアを――」
「そうではない。ほら、それだ。お前はマリアの姿が見えなくなるととたんにそんな顔をする」
「は……」
思わずダグラスは自分の頬に手をやった。
「幼い頃は本に熱中していてもマリアが傍からいなくなるとすぐにそれを投げ出してお前が探し回っていた」
思い当たる事があったようななかったようなで、ダグラスは視線を落とすしかない。
実に依存していたのは自分の方だったと思い知らされる。
そしてあの頃も自分自身がはっきりと見えてはいなかった、父の後を追いかけ息子として周囲にも認められたい一心で真実自分がどうなりたいかなど考えた事はなかったように思う。
当然だった、己の事ですら「ボルジャー家の息子」としてしか見てはいなかったのだから。
そんな事だからマリアの想いも両親の想いも見えずにいた。
勝手に作り上げた自分のイメージが、自身の首を絞める結果となるのも当たり前だ。
「己を強く持つ事だよ、ダグラス。例え誰が否定しても、お前がお前である事を知っている者達がいる事を忘れてはいけない」
「はい。もっと早くに決断出来ず、申し訳ありませんでした」
まさに肝に銘じる思いでダグラスは頷き頭を下げた。
「構わん。エドウィンからも報告は受けている、お前の業務の引継ぎはすでに行われた。企画書も受け取った、この短期間でよく纏めたな」
「いえ。報告が来次第、俺は行こうと思います」
「そうだな、事は一刻の猶予を争うかもしれん。出来る限り連絡は入れてくれ。……無茶をするなと、私は言わんよ」
ダグラスが視線を投げるとエイブラハムは僅かに苦笑する。
「誰しも欲しいものを手に入れようと思えば無謀だと言われるような事も時には必要なものだ。そんな経験もお前にはいい糧になるだろう。しかしマリアの無事を最優先に考えるんだ、その為の慎重さは惜しむな。その信念がお前自身を守る事にもなる」
貴族である父が母と結婚しようとした時、ダグラスが想像した以上に周囲からの反対があったのだろう。
当然無謀だと後ろ指を差され、時に策略や妨害もあったはずだ。
悩みも傷付きもしただろう、しかし今二人はそれを乗り越えているからこそ夫婦として強く結び付いている。
「はい」
重く頷いたダグラスに彼も頷き返し、小さく息を吐き出した。
「ヘンリエットに詳細は知らせないでおく。マリアの事だけでなく、ジェシーやキャスリンの事まで知れたら卒倒するかもしれん」
「そうして下さい」
実際ヘンリエットに知れたのなら卒倒どころの話ではないだろう。
親友が他殺だったかもしれないどころか、それを企てた人間がマリアを拉致したなどとは到底言えない。
この気丈な父でさえ未だ顔色が回復したとは言えなかった。
「それとなくヘンリエットにも聞いてはみるが、期待は出来ないだろうな」
キャスリンが夫であるジェシーにまで隠していた線を思えば、ヘンリエットにも何かを洩らしている可能性は薄いだろう。
その点でキャスリンは実にマリアとよく似て頑固なところがあった。
事情を全て洩らさないと彼女が決めていたのなら、どこまでも耐え忍んだだろう。
例えばそれが夫や娘達、そして親友を欺く事になってもだ。
「ランドリアーニの息子の妹が暮らしていた先で内乱があったと言ったな?そちらも調べてみる事にしよう」
「お願いします」
「ヴィーンラットには散々苦汁を飲まされて来た、いい加減に反撃と行こうじゃないか」
「しかし」
ダグラスは手で制して来た父の顔に口を閉ざした。
同業者が恐ろしいとさえ評する策略者の顔に、彼もまた手を拱いているばかりではなかったのを知る。
「買収の目処はついている。地味なやり方ではあるが、逃げ道を一つずつ塞いで行くのが燻り出す為の最善策だよ」
「出るでしょうか?」
「その時がいずれ来るだろう、そしてその時にこそ威力を発揮する」
口角を上げた彼が何を考えているかは何となく悟った。
恐らく買収は表立って行わず、全ては秘密裏に運ぶつもりなのだ。
鼠が僅かにでも巣に足を踏み入れようとすればそこで確実に捕らえる罠が待っている。
彼がここ数年特に忙しく飛び回っていたのはこの計画を視野に入れての事だったのだろう。
「相変わらず、ですね」
「お前に私のやり方は学べたところで実行出来まい。未熟者め、だから早い内に結婚をしておけと言ったんだ」
「ええ」
苦い思いでどちらにともなく答えた。
確かに偉業を成し遂げた父が元々持っていた才覚もあるだろうが、しかしそれを最大限に発揮させたのは母だろうと思う。
「では、失礼します」
立ち上がり出て行こうとするとエイブラハムがダグラスを呼び止める。
「マリアが帰って来たら、久しぶりに皆でゆっくり話をしながら食事をしよう」
「はい……必ず。行って来ます、父さん」
深く頭を下げてから頷いた父の顔を目に焼きつけ、ダグラスは振り返らずその場を後にした。
いつでも出て行けるようにと準備を整える数日間、千々に乱れる心を持て余し続けた。
胸が詰まる思いで何度も息を大きく吐き出しては、落ち着きなくあちこちを歩き回りながら今まで集めた情報に目を通す。
目をやる時計は動いているか幾度も確かめた。
「全く、何をやっているんだ俺は……」
緩く頭を振って窓に凭れかかり暗くなった外を眺める。
この先不測の事態には幾つも備えて行かなければならないのだから焦るばかりではいけない。
しかしそうは思っても頭はあの日のマリアの姿を蘇らせ、どうしても落ち着かないままだ。
もう何百回と深呼吸を繰り返して、状況をせめて頭の中で整理しようと努める。
希望は潰えてはいない、マリアは一切を話し出そうとはしなかったが彼女は一旦彼らから逃れられたのだ。
勿論今度はそれを対策し厳重な監視下に置かれているだろうが、最初からそうしなかったのは差し当たり切羽詰った状況に彼らがないという事かそれともマリアを見縊っていたか。
どちらにせよ最初の時点で警戒が薄かったのは、彼女があまり下には置かれていなかったのではないかとも考えられる。
何かに利用しようとして捕虜のような扱いを強いられていたのなら逃亡は困難を極めただろう、そしてダグラスが見た限りでもマリアが暴行などを加えられた形跡はなかった。
誘拐の手口こそ荒く忌々しいものだが、マリアを目的としている誰かはその意思にはないのかもしれない。
そうは言ってもマリアが逃げ出した事とそこへ戻るという意思などなかったのが全てだろう。
時折窓の外を見やる彼女が何かに脅かされているような目をしていたのを思い出す。
あの時もそして昔も、己は真にマリアの為に何も出来ていなかった。
「ダグラス様、失礼致します。例の村の方から荷物が届いております」
「荷物?ああ、そうだ。マリアが残して行った物の回収を頼んだんだったな」
ノックの音にひやりとしたダグラスは、顔を見せたエドウィンの言葉に失望を隠しながらも言った。
報告はまだやって来ない、体が一つしかないのがもどかしかった。
「こちらです」
エドウィンが抱えて来たのは小さなトランク一つきりだった。
軽いそれを受け取り、一つ間を置いてからダグラスはそれをテーブルに置いて開く。
何も持たずに攫われたマリアだ、手掛かりになりそうな物を所持しているとも思えなかったが船で出る直前になって回収を頼んでいた。
もしかしたらあのブローチをマリアが拾い中に入れたかもしれない。
だが開けたトランクの中身はダグラスの予想を超える物だった。
「ダグラス様、それは……」
ダグラスは慎重にそれを手にし、立ち上がって広げる。
あちらこちらに宝石が散りばめられた上質なドレスだ、あの村で手に入れられるような物ではない事は明らかだった。
「一体……何なんだ、マリアに何をさせようとしている?」
一層不気味さが募る、攫った娘に対しこんな物を贈るのは常軌を逸しているとしか言い様がない。
普通に考えてもしこれを贈ったのが男性ならば、相手の女性に並々ならぬ好意を抱いているという事になるだろう。
しかし好意を持つ女性に対しあんなやり方でしかも誘拐するとは――。
己の行為と比較してうんざりとする、五十歩百歩だ。
ダグラスが手を放したそれに今度はエドウィンが断りを入れてから手を触れまじまじとあちこちを見やる。
その熱心そうな様子に声をかけた。
「何か気になるところでもあるのか?」
「え、ええ。これは、西の国で流行している型ではなかったかと」
「何?」
「私の姪が夏の誕生日にこの型のドレスが欲しいと言って来たのです。ええ、間違いありません。この袖の形は西の国の鳥の羽を模して作られたのだと言っていました」
「西……」
さっとダグラスは脳内で西の国の名を全て浮かべたが、西は小国が密集していてそのどれであるかは見当がつかない。
しかし北か南かもわからない中では収穫であるには違いない。
「今すぐ調査員に報告を――」
「その必要はない」
ダグラスが机を振り返る前に聞き覚えのある声が遮った。
「ランドリアーニ」
「うちの調査員が君の所の調査員とかち合ったようだ。盗賊を捕らえるには盗賊を、だな。君の調査員には少々融通を利かせて貰ったよ」
「構わない。それじゃ――」
ジャンフランコの後ろから顔を覗かせた調査員に下がれと命じ、ドアが閉まった部屋の中を一歩ずつ歩み寄って来る彼に心臓が痛み出す。
やがて彼が頷いたのを見てダグラスは全身から汗が吹き出そうな思いがした。
「これだ――西の小国、群島の南にある海に面した本当に小さな国だよ」
差し出された書類を奪い取り貪るようにダグラスがそれに目を通す。
読み終わったが早いかエドウィンにそれを渡し出て行くのを確認してからジャンフランコを振り返った。
「こんなに早くよくわかったな」
「ボルジャー、君はある都市伝説を知っているか?」
ソファに腰を下ろし膝に腕を乗せた彼が突拍子もなく言うのにダグラスは訝しげに見やる。
そして表情も変えない彼が握りこんだ拳を細かに震わせているのを知った。
「恐らく知らない。一体どんなものだ?」
どこか慎重にダグラスは言う。
都市伝説の類などは勿論耳にした事がない訳ではない、特に金を持て余した貴族や金目当ての商人には多いものだ。
だがそれは子供の御伽噺のようなもので、ダグラス自身信じた事はない。
「いや、君も聞いた事だけはあるはずだ。世界中の有能な人間だけを集めて作られていると言う『理想郷』を」
ダグラスは彼の正面に腰を下ろしながらそれに緩く首を振る。
自身が耳にした中でも一番下らないと思った噂に過ぎない話だ。
学者、芸術家、医師、身体能力に優れた者等――特化した能力を持つ人間だけを集め国を作り、そしてその中で生まれた「有益な人間」でやがて全く新しい世界を創るなどという途方もない計画。
そんな事が可能ではない事は現実が証明している。
それぞれの分野にしか特出していない人間を集めたところで、人種や今までの習慣の壁がそう簡単に越えられるとは誰も考えないだろう。
特化した能力が有益などと考えるのなら、尚更諍いは起きる。
精々この話はどこかの思想家が唱えた理想論に過ぎなかったはずだ。
「まさか」
笑い飛ばそうとしてダグラスは一瞬で全身の血の気が引いた事を悟った。
「馬鹿な!あんなのは戯言に過ぎない!」
しかしそれを払い除けようと叫んだダグラスに彼の強い目が見返す。
「僕もそう思っていたさ!――嘗ては世界の富を極めたと言われた男を知っている。君も名前は知っているだろう、彼はこの国の出身だ」
「ハロルド=スミス……」
思い当たった名を呟けばジャンフランコは力なく頷いた。
だがダグラスがそれに再び首を振って何かを振り払おうとする。
「だがあの男はもう何十年も前に失墜した、今じゃ場末で酒を浴びる日々だって言うじゃないか」
「そうだ。彼は酒の所為ですっかり頭がイカレた。口にするのはありもしない理想郷の事ばかり、そしてそれに選ばれる事はなかったと恨みを」
髪に手を差し入れて掻き回し、ダグラスが大きく息をつく。
「貴方はそんな老人の戯言を信じると?」
確かにハロルド=スミスと言えば当時世界の王族でさえも震撼させたという大富豪だ。
しかしダグラスの言ったように嘗ての栄華はすでに衰退し財産は枯渇している、時代の寵児はその時代でしか生き残れなかったのだ。
教えを乞おうと彼の元を訪ねた者も少なからずいたようだが、今では名前を憶えていない人間の方が多いだろう。
「彼は繰り返し言った」
――私が、世界を統べたこの私が、選ばれないはずなどない。
――私こそがあの理想郷の王となるべき人間なのだ。
「まるで呪いの言葉でも吐くように――ハーサリェルスト帝国と」