25.再度の喪失
※ダグラス視点です
暗闇の中を両手で掻き分けた、しかし足掻いても足掻いても黒い霧が全身を襲う。
息が詰まる、早く抜け出さなければならない、そう思うほど霧は隅々から入り込んで支配しようとする。
早く、早く、行かなければ。
そうでなければ失ってしまう、失ってしまう。
だから、早く――。
「マリアッ!」
爆発したかのような自分の声に文字通りダグラスは飛び起きた。
とたん痛む喉を押さえ体を折って咳き込む。
その音を聞き付けたのか、飛び込んで来てダグラスに水を差し出したのはエドウィンだった。
奪い取るようにしてコップの水を飲み干し、視線を走らせたダグラスは今いる場所が滞在しているホテルだと気付く。
そして咄嗟にエドウィンの腕を掴み叫んだ。
「……マ、ッァ、……っ?」
げほげほと再び咳き込んだダグラスはそれでもエドウィンの腕を放さず険しい表情を向ける。
エドウィンは眉根を寄せ、静かに首を振った。
全身に氷をぶちまけられたような衝撃を受け思わず手を放すと、躊躇いがちにエドウィンが退室して行く。
引き止めようと声を張り上げようとして肺が詰まったような息苦しさを感じ、全ての息を吐き出す勢いで上体を折って更に激しく咳き込んだ。
思い通りにならない体に対しダグラスは拳を横の壁に叩き付けて苛立ちを露わにする。
そして次々と蘇って来た記憶に痛いほど顔を歪めた。
あの時他の部屋も見て来ると修理を終えたダニエルの背を見送って、そっとマリアの後を追いかけようとした。
ダニエルに見つからないようにしながら彼女の姿を探し、奥の部屋で見つけた自分の上着を何気なく身に着けその部屋を出ようとした時だ。
窓に打ち付けられた板の間からふと外の様子を見た瞬間、ダグラスは考えるよりも先に外へと飛び出していた。
風に撫でられぐにゃりと曲がった茎の束の間から、マリアの金色の髪が見えた気がして。
逃げられたのかと考えた、自分から逃げ出したいのかと自問した。
それほどまでに自分こそが彼女にとって不幸の種に成り下がってしまったのかと。
優しい彼女の事だ、ダグラスの事を考えながらも遠回しに自分は必要ないと告げていたのかもしれない。
感謝など要らなかった、好きになった事を過去にもされたくなかった。
それでも彼女が幸せなら、彼女が必要とする男と幸せなら、口を挟むべきじゃない。
だからこそ痛みが徐々に少なくなっている喉を自覚しながらも言葉にはしなかった。
それなのに彼女は自分から逃げる事で、今ある幸せからも逃げ出してしまったのではないかと思った。
だがそれはその時の詭弁だ。
彼女が再び自分の前から姿を消してしまう事が、どうしても耐えられなかっただけなのだ。
彼女は本当にもう自分を必要となどしていない現実から、自分こそが逃げようとした。
「やあ、目が覚めたのかい?」
気遣わしげな表情で入って来たダニエルはダグラスを見て怪訝そうな表情になる。
「まだ調子が悪そうだね。医者の診断では目が覚めれば大丈夫だという事らしいけれど」
「マリ、ア、は」
咳き込みそうになるのを堪えて言うと、彼は先程のエドウィンと同じく静かに首を振った。
「あの日の内に一隻船が出たようだ、あまり大きくないものだから行き先はそう遠くはないはずだが。どうやら秘密裏に出航したらしい、関係者は全て船の中だろう」
「あの日?……一体あれから、何日経っているんです?」
咳き込んだ所為か喉を押さえつけられるような感覚を覚えながらもしっかり言葉が出たのにダグラスは幾分ほっとする。
「二日だ。明日には船が出る、君もこの国を出た方がいい。今度の嵐は長引くようだ、次の出航はいつになるかわからない」
ダグラスは呪いの言葉を吐く代わりに再び壁を拳で叩く。
その様子を見てダニエルも傍らの椅子に座り少し項垂れた。
「ある程度の事情は君の執事から聞いた。……彼女が話してくれてさえいたらと思わずにはいられないよ」
「全て私の責任です。貴方にも、申し訳ない事をしました」
上体を整えて頭を深く下げたダグラスにダニエルが咎め、怪訝な思いのまま顔を上げる。
そして不可解な思いに囚われた、理不尽にも怒りさえ覚えてしまう。
幾ら後の祭りであるとは言え、己の恋人が目の前の男の事情に一方的に巻き込まれたというのに、何故こうしていられるのか。
もし立場が逆であったのなら形振り構わず彼に掴みかかっていた。
「僕に謝られても仕方がない」
「貴方には……以前からそうしたいと願っていました」
恐らくは彼の言う通りなのだろうが、けれど釈然としないままダグラスは言う。
彼――ダニエル=G=キャンピオンの近しい者を巻き込んだのはこれで二度目だ。
「君の事情は少しばかりは把握しているつもりだよ。だからこそ僕は君に謝られる覚えはない」
「ですが、マリアを――」
「その事なんだけれどね」
言いかけたダニエルはノックの音に口を噤み、入って来たエドウィンが差し出した薬をダグラスが飲み干すまで待った。
その様子を視界の端で捉えながら、ダグラスはどこか付き纏っていた違和感の原因に気付く。
昔パーティーで顔を合わせたり、以前ヴィーンラットから攻撃を受けてしまった被害者の血縁という認識程度でしかなかったが、しかし記憶にある彼とは姿がだいぶ変わっていた。
彼の家がどうやら以前のように「華やか」ではなくなったと聞いてはいた、そして彼が行方知れずだとも。
当時は明らかに貴族の気品を備え一糸乱れぬ印象であったというのに、今は服装からしてどこかの村から抜け出して来たようだ。
ただやはり第一印象で感じた、年上という事だけではないどこか得体の知れなさは健在だった。
「これは僕の推測でしかないが、……彼女には他の問題が関わっている可能性はないかい?」
ダグラスは力なく首を振る。
「貴方もヴィーンラットはご存知でしょうが、彼女を攫ったのは彼の手の者で間違いない」
噛み潰すように言ったダグラスに彼は少し間を置いて言った。
「何故君を置いて行ったのだろう?僕の見解が正しければ、例の時は君達への警告だった」
ダグラスは一瞬にして白くなった思考のまま頷く。
彼の血縁者が暗に故意の事故に遭ったのは所謂「見せしめ」だったとダグラスも考えていた。
だからこそ同じように親しくしていた者達から距離を取った――マリアもその一人だ。
「結果論に過ぎないが……マリア自身が狙われていた可能性がある」
指を鳴らしたような音がダグラスの脳裏に響き、はっと顔を上げ宙を睨み付けながら頭に湧き出て来た思考を組み合わせる。
今の結果からすればそう考えられない事もない。
例の事件が起こりダグラスが必要以上距離を取る羽目になった間にマリアは農場を売り、そして一人になって攫われた。
今度も同じだ、自分が出向いた後に彼女は攫われている。
恐ろしいほどの膨大な量の記憶の引き出しを開け放ち、ダグラスは次々に昔の事を照合した。
ヴィーンラットの邪魔が入る時に必ずマリアの周囲に問題が起きていなかっただろうか?
蝋で固まったような顔を向けると、ダニエルも険しい表情になる。
「心当たりが?」
「幾つか……いや、……そう考えれば全てに説明が行くほど」
ダグラスは地を這う如く唸り、怒りと憎しみで全身が沸騰する感覚に陥った。
「ただ、わからない。何故ヴィーンラットがマリアを狙う?」
「とにかく、その可能性も大いに考えるべきだな。君は隠される事もなく畑の中に倒れていたんだ。もし彼らがただ君を屈服させたいだけだとしても、それにしては彼女をわざわざ追って来たのが気になる」
片手で顔を覆い、何とか噴出しそうな烈火を堪えると、ダグラスは再びダニエルに向かって頭を下げた。
「彼女を、守れなかった」
まるで自分自身にナイフを突き刺しているようだとすら感じる。
自分さえ来なかったのなら、もしかしたら彼らはマリアの居場所を突き止めなかったかもしれない。
そうであったら彼女は彼と共に、確かな幸福を手に過ごせていただろう。
彼女の幸福を守る事が今唯一自分に残された贖罪だ。
しかし頭ではどう考えようとも、心が唸る。
彼女を支える事を許されたこの男が、理不尽にも憎くて仕方がない。
あの部屋で最初に目が覚めた時、抱擁を交わし心から身を預けられていた彼に激しい嫉妬を抱いた。
願って止まなかった位置に立つ彼が焦げるほど羨ましい。
ダニエルはそんなダグラスを見下ろし、少し間を置いた後で首の後ろを擦り溜息をついた。
「わかった。君は誤解をしているんだな。生憎……いや君にとっては幸いとでも言うべきかな?僕は彼女の恋人ではないよ」
とたん弾かれたように顔を上げたダグラスは、呆れた顔をするダニエルを凝視する。
信じようにも信じられない。
事ある毎彼女は彼を素直に頼っていたし、二人はダグラスの目にとても仲睦まじく映ったからだ。
「ああ、そうか。なるほど」
一人で納得し呟いたダニエルは肩を竦めて苦笑する。
「マリアの話を少し聞いて、どうも自分自身妙だなと思っていたんだ。君はどうやら、僕と似ている部分があるみたいだな」
「どういう意味です?」
怪訝そうに尋ねたダグラスに彼は再び肩を竦め両手を少し広げた。
「まあ僕と一緒にしては失礼だろうけれど。君はまだマリアを取り戻せる、しかし僕の愛する人の心は恐らく永遠にもう手には入らない」
亡くなったのかとでも尋ねようとして、そうではない事に気付いたダグラスは口を噤む。
しかしそれを察した彼は苦笑した。
「僕が自分の心に気付かなかったばかりに、他の男性の所へ行ってしまった。僕の……息子と一緒に」
「私が、違うとでも?」
先程まですっかりそう信じ込んでさえいて、とても彼の言葉に頷けない。
彼がマリアの恋人でないと言っただけで彼女自身の心もわからない。
それに例え二人がそんな関係でなかったとしても、この先彼と同じ事が起こり得ないなどとは言えないのだ。
それどころか彼女は拉致までされてしまっている。
「これから次第だと思う。確かに君は女性に不自由するタイプには見えないけれど、気付いてはいただろう?」
一体何の事かと問いかけようとしたダグラスは、次の彼の言葉に思い切り咽た。
「彼女を抱きたいと思った事がない訳じゃないだろう。――……大丈夫かい?」
再び体を折って咳き込んだダグラスは呼吸を整えながら恨めしげにダニエルを睨む。
その顔が赤く染まっているのに彼は目で「そら見ろ」と語った。
ダグラスはまたしても片手で顔を覆い、封印したつもりだった記憶が蘇って来たのに眩暈がする。
イエスかノーかと問われれば、イエスと答えるより他はない。
ただダグラスにとってそれは最早禁忌に近い感情であり、認める事は許されなかった。
妹として可愛がって来たはずの彼女に抱くものではあり得なかったのだ。
それを自覚したのはマリアがまだ十四の頃だ、その時ほど自分を劣悪に感じた事はなかったが――。
「彼女は、妹だったんです。その、つもりだった」
「まさか君はその持論で彼女から逃げ回って他の女性に手を出していたのか?」
「違います!いや……そういう意味でなら、そうです。彼女の両親が事故に遭うまでは」
あの頃はまだマリア自身が純粋に自分を兄と慕ってくれていたからよかったのだ。
正確には、だからこそ耐えられた。
身近な存在に欲望を抱いてしまった自分から逃れたくて、当時も数人と付き合った。
けれどあっという間に欲望を物理的に消化するだけの自分にも、欲しいものを搾取しようとする彼女達にも嫌気が差した。
マリアの両親が他界してからはそうした密接な付き合いを一切止め、自分の仕事への利益を追求するだけになった――結局は彼女達と同じように。
心が通じ合った事など一度もない、お互いの利害のみが一致した時だけは楽しいと感じられた事もあったが、それは今思えば逃避による安堵でしかないだろう。
自分こそが距離を置きそして類似した女性しか寄っては来なかったのだから、実を結ばない関係だったのは当然とも言える。
愛情を知る賢明な女性ならそうした男性にはまず近寄らないものだ、そして幸か不幸かダグラスに集まる女性はそうではなかった。
事実、婚約を考えた女性はその最も足る例だった。
彼女がダグラスに望んだのは「夫としての格式」であり、それ以外は目もくれない。
夫は彼女にとって自らを飾る宝石の一つに過ぎない、それがまたダグラス自身に似通っていた。
もし自分が他の女性をこんな風に追いかけているなどと知れたのなら、即座に身を翻して彼女はすっかり他人になるだろう。
他に彼女を飾る宝石という名の男性は掃いて捨てるほどいる。
彼女は夫に愛人がいる事は許容するが、夫が心奪われる恋人がいるのをよしとはしない。
ダグラスの心までも所有したいからではなく、相手の女性に「夫の格式」までをも奪われる事を危惧しているのだ。
「兄」としての自分に固執しマリアにそれを見せつけ気付かせようとするあまり、隣に置いただけの女性の数こそ多いが、実際に体まで知った女性は片手にも足らない。
そんな男だと知られるのを恐れたのか、殊更マリアの前では仲睦まじく振舞った記憶さえある。
マリアを傷つけた後に残ったものは、それを悟ったのだろう彼女達に含みのある顔で笑われただけだった。
何となくそれを察したらしい、ダニエルの表情が一層呆れを通り越して脱力した。
「君は思った以上に相当な不器用なんだな。マリアにもっと言ってあげればよかったよ、君の幼馴染みは完璧どころか好きな子に素直になれない少年そのものだとね。子供より大人になってからかかる病の方が大事だとは言うが……いやはや」
言い返したかったがダグラスに反論出来る術はない。
他人からそう言われてしまうと、尚更自分が幼稚な子供にしか思えなかった。
自分の心を偽りなく曝け出しぶつかって来たマリアの方がどれだけ大人だっただろう。
むしろそうする方が難しいのだと今は気付いている。
マリアとて拒絶され何度も傷付きながら偽る方が楽だとも悟っただろうに、それでも彼女はダグラスへの愛情だけは隠そうとはしなかった。
やがて彼女は追う事もしなくなった、そうさせてしまったのは自分だ。
彼女はもう充分に傷付いた、贖罪を科されるべきは自分の方だと言うのに――神とやらは一体何を見ている?
「一体何の為にマリアを……」
下にあったシーツごと強く拳を握り締め、ダグラスは全身が締め付けられる思いに耐える。
「ミスター……」
「ダニエルで結構だよ。僕も少々ヴィーンラットについては調べた事がある。僕が家に戻ったらすぐに手配するよ」
「ダニエル、感謝します」
彼は頭を下げかけたダグラスを手で制した。
「僕の友人であるマリアの為だ。彼女のお蔭で僕は自分が辛い事を避けているだけの人生から抜け出そうと決意出来た。逃げている自分に気付けたんだ」
そして恐らく初めてダグラスに向かって微笑む。
「彼女も傷付き迷っているけれど、それは君を愛しているからだよ。そして無意識にどんな君でも受け入れようとしている、その為に自分が強くあろうと思っているように見えた。君は掛け替えのない人に愛されたね」
今度こそ猛烈にダグラスの胸があちこちらか刺されたように痛み苦しくなった。
彼の言った言葉はきっと真実に近い。
マリアが果たしてあの頃のような愛情を自分に抱いているか疑問は拭えないが、彼女がダグラスの過ちでさえも受け入れようとしているのは事実だろう。
「ダグラスを好きになってよかった」――あの言葉に自分こそがそうなのだとどれだけ叫びたかった事か。
「昔から、彼女はそういう人だった」
貴族としてある為に彼女を顧みなかった事すらあったのに、それでも幼い少女はただひたすらに自分の望む形で寄り添ってくれた。
常にその全てを愛されて来た、両親との距離すら測りかねたあの頃どれだけ救われて来たかわからない。
失いたくなかったのだ、そして傲慢にも勘違いをした。
形だけをあの頃に戻したところで彼女はもう戻らない。
マリアの言う通り、上辺だけのものでは家族にも友人にとてなれやしない。
「明日の出航に体調を整えておく事だね。僕も別の船で明日ここを出る。連絡先は執事の方と交換してあるから、着いたら一番で調査書を送るよ。僕の出来る事は少ないけど、何かあったらすぐ連絡して欲しい」
「ありがとうございます……本当に感謝しています」
「さっきも言ったけれど、マリアの為だからね。役に立てるよう祈っている、マリアの無事も。それに少しほっとした」
怪訝そうな顔つきになったダグラスに彼はわざとらしく胸を撫で下ろしてみせる。
「嫉妬に狂った視線に殺されるのはもう勘弁して欲しいからね」
一つ笑いを残し去って行ったダニエルに石でも噛み砕いている思いがした。
そして一人になったとたん、様々な思いに体が冷え動悸が不気味に強くなっているのがわかる。
ダニエルとの会話は複雑なものを呼び起こした。
むしろ避けたい方の可能性が自分の頭の中で大きくなりつつあるのに気付く。
認めたくはないがあまりにも符合し過ぎている、彼女が目的だったとすれば説明がつく事すらあるのだ。
ただ形だけがわかっても、その中が暗闇で何一つ見えては来ない。
マリア自身にああも執拗に狙われる理由はないはずだ、ヴィーンラット個人だけを考えればその点はダグラスを理由にした方が筋は通る。
彼女と彼の接点も考えられない、しかしカートライト農場に横槍を入れていたのはヴィーンラットが関係しているかもしれない。
だとすればマリアの両親か、それとも農場に関する事で私怨でもあったのだろうか。
しかし今農場はホルブルック夫妻が所有していて、後者の可能性はないはずだった。
そしてふと頭を過ぎった記憶にダグラスはどくんと強く鼓動が高鳴るのを感じる。
そして部屋を見渡し、あの日羽織った上着が掛けてあるのを見つけるなりベッドから飛び起きた。
忙しなく内ポケットを確かめ、ブローチがないのにはっとする。
マリアを攫ったあの男ともみ合った時に落としてしまったに違いない。
半ば失望しつつブローチに書かれた文字がどんなものであったか思い出しながら再びポケットを探った。
上着から雨が染みた所為で滲んでいたが、取り出した手紙はどうやら無事のようだった。
しかし結局この手紙すら渡せなかったと更に失望が襲う。
「え?」
少し皺になったそれを伸ばそうとして、封筒が破られているのに気が付いた。
無意識にすっと息を止め、ダグラスは細かに震える指で波型に切られた封筒から手紙を取り出す。
畳まれたそれはダグラスが予想していたものとは全く違っていた。
何も書かれていないはずの裏側には同じ言葉に埋め尽くされている。
開いてみると所々丸く滲んだ跡がありインクも少し飛び散っていて、下の方へ行けば行くほど文字は震えて波打っていた。
何度も何度も何度も、同じ言葉が繰り返されている。
「マリア……」
ダグラスはそっと手紙をポケットに納め直し、いつの間にか床に膝をついたまま震える両手を骨が軋むほど強く組んだ。
あの村にいる間、言うべきでなかった思いを口にしてしまった。
自分を過去として決別し子供時代から抜け出そうとしているマリアに、今更告げるべきではなかった。
あれだけ自分が「ボルジャー家の妻」に望む女性はマリアには持ち得ない物を持っているのだと知らしめておいて――、ダグラスは組んだままの両手を傍にあったソファに押し付けて震えを止めようとする。
しかしもう何もかもを言ってしまった、懺悔と共に。
今まで押さえ込んで来たものが全て溢れ出してしまって、愛も贖罪も言えずにはいられなかった。
あの自分の言葉をマリアが正しく受け取る事はないだろう。
もう本当に彼女の愛を取り戻す事は、ダニエルの言う様には出来そうもない。
しかし彼女の弟妹への愛は未だこんなにも強い、それを失くしていないマリアが今希望も失っていないと信じている。
「そういう、人なんだ」
愛されなくてもいいとは嘘でも言えない、失った信頼も取り戻せるかどうかもわからない。
それでも今は決断すべき時だった。
「今」、そして「未来」の彼女が、心から幸福であると微笑む為に。
ダグラスは最後とばかりに大きく一つ咳き込むと、立ち上がってエドウィンを呼んだ。