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24.泥沼

 マリアは目を開けていたが、寝ていたとも起きたとも認識は出来なかった。 


全身に纏わり付いている泥のような倦怠感に脳までもが浸された感覚を覚える。


恐ろしくゆっくりと瞬きをしていると、漸く寝転んで上を見ていて、それが深緑色をしていると理解出来ただけだ。


以前似たような経験をした記憶が一瞬脳裏を掠めるが、しかしそれは以前の比ではない。


ぐにゃぐにゃとした柔らかい入れ物に自分の魂だけが押し込められているようだった。


瞬き一つが億劫なままそれでも何とか視線だけを動かすと、やはりそこには見覚えのない部屋がある。


ただ誂えたであろう豪華な調度品らしき物を目にし、マリアの気分は更に悪くなった。


 掻き分けても掻き分けても抜け出せないねっとりとしたものが這い回る思考を、細く長く息を吐き出しながら一つに集中させる。


結果は良くなかった、また囚われたのだと悟っただけだった。


そして融けてしまったような肢体を投げ出したまま、少しずつ元に戻り始めたような頭から記憶を引き出す。


瞬く間にマリアの全身がさっと冷たくなり、最後に見たダグラスの顔を思い出して咄嗟に跳ね起きようとした。


しかし思考が僅かずつながらはっきりして来ているというのに体はぴくりとも動かない。


それどころか冷静になればなるほど体の感覚がなかった。


「ぅ、あぅ」


 何かを喋ろうとしても舌すら上手く回らない。


次第にすっかりはっきりとし始めた意識で、マリアはそれ故に酷く混乱した。


何とか視線を動かして見るも手足に拘束など一切されていないにも関わらず、体だけが本当に体温を感じる別物にでもなったかのように動かない。


まさか自分が人形にでもなったのかと恐怖に駆られ、懸命に手足を動かそうとしてみたが指一本動いた気がしなかった。


ただ思考と同じように多少回復を見せたのは眼球だけだ。


視線は動かせてもやはり瞬き一つするのに酷く時間がかかる上、そうしている内に倦怠感が思考を飲み込んで投げ出したい気分に陥ってしまう。


 マリアは目を閉じ、頭だけでも冷静さを取り戻そうとした。


しかし真っ暗になった視界に浮かんで来るのはダグラスの生気を失くしたような顔と、ダニエルや村人達、そして弟妹の顔ばかりだ。


あの場で殺す事はないと言った青年の言葉を信用する訳にもいかないが、しかし皮肉にもそれに希望を見出すしかない。


 目的の自分を攫って来たのなら大丈夫だと半ば自分に信じ込ませ、マリアは再び懸命に瞼を開ける。


すでにおぼろげではあるが記憶に残る例の城の部屋とは違って見えた。


目を閉じたくなるような豪奢な部屋で窓にご丁寧な鉄格子は変わりないが、幾つか以前と違う点もある。


金や銀細工で飾られた部屋の中で、マリアが寝ているベッドの正面奥にある古びた暖炉が大きな違和感の原因だ。


そう大きくなく煤に汚れているのでもなく、ただあちこち欠けた煉瓦が目立つ。


 瞬きをしない事で痛んで来る目を凝らしながら視線をベッドの横に滑らせ一瞬鋭く息を呑む。


そして人影かと思われたのは壁に掛けられた肖像画だと気付き、マリアは音もなく呑んだ息をゆるゆると吐き出した。


だが金細工の額縁の中に描かれた人物が誰であったかを思い出すと、奇妙に胸の辺りがどくどくと傷むのを感じる。


 ――リュティリア王妃。


彼女はマリアの記憶にあるまま、その慈愛にすら満ちた微笑みを讃えている。


マリアは暫く見詰め返すようにした後、涙が滲み始めた痛む目に従って素直に目を閉じた。


再び暗くなった視界にぼんやりと肖像画の王妃が浮かぶ。


その微笑みには一抹の不安も感じられない、ただ幸福そうな温かさを覚えるだけだ。


美しい人だと思う、恐らく青年が話した通り初代の帝王とやらに愛され、そして愛した人なのだろう。


 そこからして自分とは違うのだ。


マリアは耳にダグラスの声を蘇らせて、しかし頭を振りたくても出来ない状況に辟易とする。


一体彼がどういうつもりであんな事を言い出したのか、そう考えてマリアは自嘲したくなった。


深い意味などない、彼はあんな状況で自分を勇気付ける為に咄嗟に口にしたに過ぎないだろう。


しかし彼はマリアが思った以上に自分を近しい者として愛してくれている事は疑えなかった。


何故ならマリアがとった行動と、彼の事情からとった行動はよく似ていたから。


「う、ぅ……っ」


 マリアは酷い倦怠感と戦った末、どれくらい時間をかけたか忘れる頃漸く僅かな勝利を掴んだ。


頭を乗せていた枕に背の半分を乗り上げただけだが、しかしだいぶ部屋を見渡すのが楽になる。


どっと押し寄せて来た疲れのようなものに思わず目を閉じ掛けた瞬間、視界に入った物に気付き閉じようとする瞼を懸命に堪えた。


 掛けられたシーツから抜け出した腰辺りに何かが引っ掛かっている。


もう首も動かせず痛むほど目を動かしてそれを確かめると、見覚えのあるブローチだった。


疲れ果てて視線を元に戻してしまったが、マリアがキャスリンから譲り受ける形になったブローチに見間違いはない。


そして漸くホテルから最初に連れ去られた日に自分が付けていた物だと悟った。


しかし今の今まですっかり忘れてしまっていた上、畑から連れ去られた時のままの格好であるマリアが持っていた訳もない。


あの日着ていた服は処分されたはずだ、だが連れ去られた時にブローチをしていたかどうかも定かではなかった。


何故こんなところにこのブローチがあるのかと思ったが、マリアはすぐに理由はどうでもいいと思い直した。


場所からしてあの青年が拾っていて付けてくれた訳はないだろう、しかし偶然でも奇跡でも思い出のブローチが手元に戻って来た事で気持ちが僅かに明るくなった。


これが唯一という物でもないが、今もし失くした事を思い出していたら酷い絶望感に襲われていた事だろう。


まるでキャスリンが励ましてくれているようだとさえ思えた。


 マリアは再び己の体と戦い、やっとの思いでシーツを少し指で引き上げブローチを表から隠す。


思うようにブローチを手に握れないのがもどかしかった。


そして連続で動いた所為かとうとう本格的に体を覆い尽くそうとする倦怠感に身を委ね目を閉じる。


高熱を出している時の如く後はもう泥のような中を漂うだけだった。


それなのに不思議な事に頭の一部は冴えていて眠気はやって来ない。


但しだからこそベッドに沈み込んで行く感覚が恐ろしいとすら思えた。


 おかしい、と漠然と感じる。


仕事に疲れて似たような倦怠感を覚えた事はある、そして体は疲労しているのに目が冴えてしまうという事も。


だがその経験と今とでは言葉に出来ない決定的な違いを体で感じた。


確かに似ているが、何かが明らかに違う。


マリアは目を閉じたまま可能性を考えたが、どれもそうだと断言は出来なかった。


意識を保たせたままでこうもを体が動かせなくなる薬物などあるだろうか?


 ただこれだけはわかる。


――今度は拘束をするのではなく、体の自由自体を奪われたのだ。


 しかし徐々に倦怠感は再び脳までも蝕もうとし、マリアはそれに気付くまでもなく泥の中に落ちた。









 次に目が覚めたと気付いた時にはもっと酷い状態になったと同時に悟り、マリアは半ば自棄になって再び意識を失いたいとさえ思った。


鉛のように重たい瞼を押し開いた先には、今この世で最も見たくないであろう人物が忌々しいほど静かな微笑みで横の椅子に座りマリアを見下ろしている。


悪態をつこうとして唇が震えもしない自分自身にうんざりとした。


彼はそれだけなら絵画として飾られていそうな微笑みを讃えたままその宝石に似たグリーンの瞳を更に細める。


だがそれはまるで獲物を見つけた獣のようだとマリアには思えた。


「お久しぶり、とでも申しましょうか?」


 優しげなその声が元に戻ろうとするマリアの意識をぐちゃぐちゃに掻き回す。


「おわかりになっているでしょうが、そうするより他なかったのです。まさか貴女があの庭の抜け道を憶えていたとは流石に予想しませんでしたから、今度は万全を期しました」


 睨み付けたかったがマリアに出来たのは出来る限り視線を鋭くさせる事だけだった。


エスレムスは今度は口元に大きく笑みを浮かべ、そっとマリアの手を取るとそこへ唇を寄せる。


「ぁあ……ぁ、ぁ」


 唇や舌が動かないだけでなく、声帯すらも思うように震わない事に愕然とし彼を見上げた。


そっとマリアの手をシーツの中に戻した彼はさも楽しげに微笑む。


 そしてマリアは漸く悟った。


この体は事実、彼の人形に成り下がってしまったのだと。


「貴女の快活な言葉が聞けないのは残念ですが、それも少しの間です。ここでも貴女に必要な物は取り揃えますからご安心下さい。……自由以外は、ね」


 ぞっと身の毛がよだつ感覚を覚えたのに体が僅かに揺れる事もない。


混乱と恐怖に泣き叫びたかったが、やはりマリアの少し開いた口から出たのは意味を成さない音だけだった。


どうしてこんな事が出来たのかと例え聞けてもどうしようもない疑問が浮かぶ。


堰を切って次々にマリアの頭には疑問が過ぎったが、精々揺れたのは彼を驚愕で見詰める視線だけだ。


エスレムスはそんな様子を見て困ったように首を傾げて見せる。


しかし笑みを浮かべたままのその表情は、彼が全てを悟っていると物語っていた。


「きっと、こうお聞きになりたいのでしょう?「彼」は無事かと」


 子供に言い聞かせるような態度にマリア自身も結果を察する。


ただその安堵も今目の前の男への怒りに覆い尽くされた。


「勿論、無事ですよ。それに――あの男にはもう用はない」


 そこで初めて彼の表情も声も何もかもが冷たく凍ったのに、マリアはまた胸の辺りが嫌な感じに鳴る。


「最後は思った以上に役立ってくれましたがね。あれだけの情報で貴女を見つけた犬並みの嗅覚は賞賛に値すると言ってもいい。しぶといだけが彼の取り柄のようですね」


 眉を上げてそう言い放ったエスレムスに吐き気すら覚えた。


ダグラスですら見張られていたらしい、それもやはり自分が原因で。


マリアを見失ったエスレムスは意図的にダグラスを泳がせたという事なのだろう。


一体いつから彼ですら利用出来るよう手筈を整えていたかは見当もつかない。


最悪、あの青年の言葉通りマリアを監視していた頃から、だ。


 突然頭の中に閃光が走り、マリアは力を込めてエスレムスに向かって瞠目する。


エスレムスはマリアがダグラスに思いを寄せていたのを知っている、だとすればそれを黙って監視させていたはずがない。


暴漢に襲われたマリアをわざわざ助けさせたのだ、ダグラスにはある意味それ以上の危険があるとこの男が考えてもおかしくはないだろう。


例えマリアがダグラスに相手にされていなかったとは言え、接する機会が多いままだったのならそこに男女の関係が出来ると可能性を見出す方が自然ではないか。


そう考えれば恐らくダグラスがマリアに必要以上近付かないよう妨害策を立てたはずだ。


そう、ダニエルが言っていた、そしてダグラスも認めた――マリアから距離を取る理由。


「っう、うぅあっ」


 形振り構わず目の前の男を殴り付けてやりたくてマリアの視界は一瞬怒りで染まった。


しかしその反動の如く、否倍にすらなって倦怠感が襲い意識を失いかける。


エスレムスのくすくすという笑い声がマリアの頭を鐘の如く打ち鳴らした。


「いけませんよ、オイタは。貴女は淑女であり、私の妃となる方なのですから。いつまでも昔のようにいられるとは思わないで下さい」


 ぐったりとしたマリアの頬を彼は深く笑んだままで優しげに撫でる。


長い指は流れるように頬から首筋を辿り、胸の谷間を綺麗に縫うと行き着いたシーツを取って胸元まで引き上げた。


その感触のおぞましさにマリアの視界が滲む。


それを目に留めておきながらエスレムスはやはり楽しげに微笑んでマリアの額に唇を落とした。


「貴女は私の、私だけの妃です。それをこれから教えてあげましょうね。残念ながら、そう沢山の時間をかけてはいられないが。ああ……どうか泣かないで下さい。過去と決別をするのはそう難しい事ではない。私との新しい未来が如何に幸福であるか、貴女ももうすぐ気付く事になります」


 そんなものは一生来ないと言う代わりにマリアは目から涙が零れる事だけはすまいと己を叱咤し続けた。


こんな男の前で泣くなど、それこそ生涯自分に恥じる事になる。


エスレムスは愛しいとでもいう表情でマリアの目元に手をやって閉じさせると、今度は頬に口付けをして立ち上がったようだった。


「湯と着替えを用意させましょう。五日ほどとは言え、船旅はやはりお疲れになったでしょうからね。それではまた伺います」


 謎の言葉を残して彼が去るとドアの音がやけに大きくマリアの耳に届く。


一体船旅などとはどういう意味かと覚束無い頭に過ぎらせ、やがて出来る限りの力で瞼を強く閉じた。


――ここはあの城ではない、あの国でもないかもしれない。


倦怠感すら凌駕する脱力感を覚え、マリアは再び肢体を投げ出したままゆっくりと瞼を開いて呆然と天井を見詰めた。


 また最初に攫われた日にでも戻ってしまったようだった。


それももっと最悪な状況下になった事を予感した。









 マリアを心底うんざりさせる出来事は幾らでもあった。


使用人らしき女性達があの後突然数人でなだれ込んで来たかと思うと、その数人がかりでマリアを浴室へと運び、全く動けないままでいる体はまさしく有無を言わさず隅々まで洗われた。


花の香りのする物を塗り込まれた肌の上を滑りそうなつるつるとしたナイトドレスに着替えさせられ、香ばしいパンやスープを代わる代わる口に運ばれ飲み下せられ、傷口は軽くなっていたらしい手足に手当てを施され、仕舞いには「お休みなさいませ、殿下」ときた。


 悲鳴を上げる事も抵抗する事も反論する事も、何もかもの気力を削がれてしまったかの如く、マリアは未だ治まらない倦怠感に身を委ねながら左手の中にある感触を確かめた。


浴室に連れて行かれる寸前咄嗟にわざと使用人の一人に大きく体を預けて身を擦りベッドに落としたブローチだ。


使用人達は何の変哲もないブローチだと判断したのか、部屋に戻った時それに視線を投げたアリアの手に握らせて行ってくれたのだけが幸いだった。


 力なく半分下がった瞼の下から視線を下ろすと、シーツの隙間から中途半端に折り曲がっている指の根元に丸いそれがあるのが見える。


何かを考えるでもなくマリアはブローチを眺め続けた。


そしてそうしている内に蔦模様の縁と布地の間から糸が一本出ているのに気が付く。


どこをどう巡って辿り着いたのかはわからないが、このブローチにとっても容易くはない旅路だったのだろう。


しかし繕うにしてもこの体ではどうしようもない。


暗に過去とは決別しろと言い切ったエスレムスに取り上げられる事にだけはならないよう、これだけは何としても彼の目から隠しておく必要がある。


 マリアは溜息とも言えない調子で細く息を吐き出し、ドアをノックして悠々とした態度でやって来た彼に再びうんざりした。


せめて嫌味の一つでも返してやりたい、そう思い声の出なかったダグラスはさぞもどかしかっただろうと気付く。


「落ち着きましたか?」


 ちっとも落ち着かない、その言葉の代わりにマリアは静かにエスレムスへ視線を流す。


歩み寄ってベッドの脇にある椅子へと腰を下ろした彼は、窓から差し込む日差しにちらちらと輝く金の髪を揺らしマリアを覗き込んだ。


「いい香りでしょう、王妃が愛用した物と同じに調合させたのですよ」


 わざわざご苦労な事だとマリアは思ったが、悔しいかな鼻に届く香りは確かに心和ませるものがある。


温まった体からふんわりと湯気のように立ち上るそれは、あたかも花畑の中にいるような感覚に陥らせた。


 そっと顔を遠ざけた彼にほっとしながらも、いつまた彼に触れられるのかと気が気ではない。


特に彼に触れられるのは奇妙な感じだった。


いつかの暴漢や自分を連れ去った青年の兄らの方がまだわかりやすいというものだ。


エスレムスは確かに性的な興味も窺わせながら、だが決してそれだけではない。


体だけではなく、まるでマリアの奥深くまでに触れようとするような――。


「暫く経てばもう少しは体が動くようになりますから。船旅中にまた逃げようとされては困りますからね、少々薬を使い過ぎてしまったようです」


 やはり薬物だったのかと思うも、得体の知れなさが強固になっただけだった。


こんな風に体の自由を奪うような薬物を取り扱う薬師すらこの男は抱えている事になる。


「ああ、ここがどこだかまだ説明をしていませんでしたね。とは言え、ここも我が国なのです。正確には……元々全てが我らの国だったのですが」


 ノックの音に言葉を切ったエスレムスは短い返答をして使用人を中に入れると、脇に寄せられたテーブルに用意されたお茶を手にし、その香りを楽しむようにカップに顔を近付ける。


使用人が出て行くと同時にカップに口を付けた彼は再びマリアに向かって笑顔を向けた。


「飲ませて差し上げましょうか?」


 図らずしもマリアの視線が鋭くなったのに彼は冗談の意を示してくすくすと笑う。


カップを下に置いた彼はマリアからそっと窓の方へと視線を外した。


「そう、全てが我々一族の物だったのです。それで全ては上手く運んでいるはずだった。仮にも一族の中から二度も裏切り者が出るとは、実に嘆かわしい事ですがね」


 口調は穏やかだったが、彼の言葉の端々に暗く重いものが見える。


意味はわからなかった。


しかし例の城が落とされた以前にも同じ事は起こったらしい。


それもそうだろうとマリアは疑問にも思わなかった、全てが己の物などと考えているのなら反発する者が出て当然だ。


それが近しい者であったのなら尚更、いずれまた同じ事が起きる。


何故それがわからないのだろうかと、マリアは益々目の前の男を不気味に思う。


「以前の城よりは幾分小さい物ですが、煩わしいものはこちらの方が遥かにない。貴女の逃亡を手助けするような不届き者もね」


 はっとして自分を村に逃してくれたトムや小さなコーディの顔を思い出した。


しかしすぐ手を出してはいないだろうと思い直す。


それが出来るくらいなら自分を連れ去る時にダグラスをどうにかしていたはずだ、家に踏み込んで来る事だって出来ただろう。


だがそう考えてもどこか不可解だ、まるでこの男自身のように。


マリアに対してこれだけ無茶をするにも関わらず、どこか公にならないよう問題を避けているところもある。


弟妹までを攫って来れない何かと関係があるのか。


 マリアは思考を巡らせながら、体が温まった事と食べ物を腹に入れた事で襲って来る眠気に耐える。


今すぐにでも強引にマリアに手を出して来ようとしないエスレムスだが、この不可解さだ、どこでどう気が変わるかわかったものではない。


第一、彼の言う「花嫁」が正しくどんな意味であるのかも知らなかった。


「眠って構いませんよ。貴女の身の安全は私がお守りしますから」


 錘を乗せたような瞼が徐々に下がって行くのを感じながら、一番の危険人物に心で悪態をつく。


「愛していますよ、私の唯一の乙女。何千、何万とこの時を待った事か……」


 すっかり視界が閉じてしまった暗闇の中で額に何かの感触を感じたが、マリアにはもう抗う術もないままだ。


ただ彼の不気味な言葉が頭の中を木霊する。









 何千、何万、億すらも超える長い間。


 私は待ち続けている。


 ずっとずっと、あなたを待ち続けている。


 何度出会い、何度別れても、あなただけを待っている。





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