23.途切れた声
日が落ちる前、決意を話したマリアにダニエルは険しい顔で首を振る。
「無茶だ。せめてもう少し風が止むまで待つべきだよ」
言葉もなくただ見詰め続けるマリアに対し、ダニエルも表情は変えなかったがやがて力なく溜息をつく。
「何をそんなに急いているのかわからないよ。彼が心配だけではなさそうだね?」
「雨は弱まっているわ、また強くなって来ないとも限らない。一刻も早く彼を家に帰したいの、待っている人がいるのよ」
切羽詰った声になったのは自分でもわかったが、マリアはそれを止められなかった。
恐らく泣いて赤くなった目を彼に察せられているだろう、そしてそれを追求しないでいてくれるもの理解している。
だが彼をいつまでもここに留めてはおけないと、一種の強迫観念に駆られていた。
弟妹の手紙を見た所為なのか、それとも別の何かなのかはわからなかったが。
「それなら僕が行く、そうでないととても同意出来ない」
「駄目よ、貴方はこれからご両親の許へ帰らなきゃならないのに。風邪でもひいたら大変だわ」
「それは君だって――」
ダグラスの声もマリアに釣られ高くなろうとしたその時、何かが爆発したような轟音が二人の体を揺るがす。
次いでごうごうと風の音がすぐ近くに聞こえ、二人は慌てて音のする方へ向かってその場を駆け出した。
音のしたマリアの部屋へ駆け付けると、雨戸が壊れぶら下がった状態の窓がガタガタと音を立てて揺れている。
さっと視線を交わした二人はお互い窓を押さえようとしたが、また次の瞬間には別の方向から轟音が鳴った。
「私が見て来る、ダニエルはこっちをお願い」
「わかった、窓が割れているかもしれないから気をつけて」
マリアは頷くが早いか駆け出し、音のする方向がダグラスのいる部屋だと気付いてさっと血の気を引かせた。
転がるように部屋の中へ飛び込めばやはり部屋の雨戸は外れていて、窓が羽のようにバタバタと風に揺れている。
そしてそれに手を伸ばそうとしているダグラスを見て思わずマリアは悲鳴を上げた。
「触らないで、じっとして!」
さっと目を走らせたベッドのシーツを丸めて、マリアはそれを盾に近付き片方ずつ窓を閉じ、シーツごと窓を背にして押さえ付ける。
突然吹いて来た突風に何度も押し戻されそうになるが、すぐにダグラスがマリアの両脇に手をついて窓を押さえた。
「ありがとう。だいぶ雨が吹き込んじゃったわね、濡れなかった?」
マリアを覗き込むようにしてダグラスが頷いたのにほっと息が出た。
ベッドの頭側に窓があったから幸いしたようなものの、マリアはドアの脇にまで吹き飛んだ雨戸がダグラスに当たっていたらと思いぞっとする。
頭を強く打ったというジェシーとキャスリンの、殆ど外傷が見られないような遺体を頭を振って脳裏から追い払った。
そんなマリアを見てかダグラスが腕を引き強引に体の場所を入れ替える。
突然の事に抗議しようと顔を上げたマリアは彼の肩越しに黒い影を見て出かけていた言葉を一瞬にして喉に詰まらせた。
突風に吹き飛ばされた木の枝かもしれない、そうであるはずだった。
――なのにどうしてこんなに心臓が痛いほど高鳴るんだろう?
「大丈夫かい!?」
工具箱を持って飛び込んで来たダニエルを振り返り、マリアはやっとの思いで頷いた。
見間違いであるはずだ、こんな時に「人」が外を歩いて来る事など考えられない。
「人」であるはずがない。
「ダニエル、ここもお願い。私は……他の場所も見て来るから」
「わかった。充分気をつけるんだよ」
自分を追って来そうなダグラスをその場に留め、マリアは心臓が飛び出て来そうな胸を押さえながら玄関の方へと向かう。
違う、絶対に違う、もし人であったのだとしてもきっとあちこちを巡回しにやって来た村の誰かに違いない――何度も何度もそう言い聞かせながら、マリアはキャビネットを引いて風に押されそうになるドアを開け外へと体を滑り込ませた。
とたん息も出来ないほどの風が吹き付けて来てマリアは鼻先を手で覆いながら、もう片方の手でドアの脇を探り柵に引っ掛けていた箒を手に取る。
見間違いならそれでいい、そう繰り返し押し戻されそうになりながら強風の中を先へ進む。
ダグラスが飛び出して来た畑の前まで来ると、茎だけ残された作物はすっかりぺしゃんこになっていた。
ぎゅっと箒を握り締め、それでもマリアの腰元まである茎の波の隙間を見るように目を細める。
影を見たのはこの辺りだったはずだが、飛んで来たような枝は見られない。
精々あちこちの家の前においてあったのだろうバケツなどが転がっているだけで、しかしそれもこの風によってすぐどこかへ飛ばされて行く。
気のせい――マリアはそう思ったとたんほっと息をつこうとして、開けた口に飛び込んで来た風に咽た。
腰を折った事で風に飛ばされないようにと、畑の陰でもう少し小さく蹲る。
何とか呼吸を整え箒を杖代わりにして立ち上がろうとした瞬間、体がふわりと浮いた気がした。
否、実際に浮いているのだと悟ったのは視線をやった足元が地についていなかったからだ。
「え!?きゃ――」
混乱に叩き落されて叫ぼうとするとその口が塞がれる。
そして体は強い力によって畑の中に引きずり込まれた。
茎の波によって多少風が遮られているのか、マリアの耳元に囁かれた言葉は不気味なほど大きく聞こえる。
「騒ぐなよ。尤も、この風じゃ中の連中には聞こえやしないだろうがな」
どこかで聞いた事のある低くしゃがれた声だと感じたがいつ聞いたのか思い出せない、何より耳に吹き込まれた吐息に全身が震えた。
大きな手で口を塞がれたまま視線だけを動かすと、自分を抑えている男の隣にもう一人フードを被った誰かがしゃがみこんでいるのがわかった。
もう誰かなど聞くまでもない、彼らはエスレムスが手を回している人間の一味だ。
とたんぶつりと何かが切れたようにマリアは両手足をばたつかせて男の腕から逃れようとする。
しかし後ろからマリアを抱きかかえている形の男の力ま更に強まり、その痛みに体を強張らせた瞬間もう一人いた誰かがマリアの両足をまとめてロープで縛り付けた。
ぎりりと足首に食い込んだ痛みに歯を食い縛って耐え、足を縛った人物に向かって手を振り上げる。
しかしそれは後ろに引かれた事でフードを掠っただけだったが、落ちたフードの中から出て来た顔にマリアは鋭い視線を向けた。
マリアを連れ去った青年だ、となれば恐らくもう一人の男は彼が言っていた「兄」の方だろう。
腰に回していた腕を解いて後ろの男が腕を掴んで来た事で抵抗も虚しく両手首にもロープが巻かれる。
体を捩じらせて這い出そうとしたが、後ろの男の手が腰周りを撫でるように這ったのに体が凍りついた。
「やっぱりイイオンナだなあ、アンタ」
「止めろよ兄さん、その人に手を出したら僕達もただじゃ済まない。それより急ごう」
ちっと後ろの男が舌打ちをしたのが合図だったかのように、マリアは強張った両足をそのまま勢いよく伸ばし目の前の青年の腹辺りを蹴り上げた。
逃れたいと思う心が爆発したかのように体に勢いがつく。
「テメエッ!」
ぐっと男の手が己の首に当たったが、マリアは考えるよりも先に延ばした足を再び折って今度は地面を強く蹴ると、飛び上がったマリアの頭が男の顎に強打される。
横倒しに投げ出されたマリアは芋虫のように地面を這って畑から抜け出そうとした。
だがすぐに背中から覆い被られ全身がぐっと潰れたかの衝撃が来る。
痛みと苦しみと恐怖が次々と絶え間なく襲って来て訳もわからず束ねられた両手足を突き上げ首を振った。
「離して!離しなさいっ!」
「全く、とんだじゃじゃ馬姫だ。これではあのお方が手を焼いたのもわかる気がする」
青年は腹を押さえて軽く咳き込みながらただ呆れたように言った。
「そうそう、貴女のご命令を聞けというご命令はないんですよ。大人しくなさった方が身の為です、王女様」
「私を王女なんて呼ばないで!!」
喉が引き裂かれるかという甲高い悲鳴が零れる。
しかし彼らは意に介さずマリアの口を塞ごうと再び手を伸ばして来た。
罵倒を浴びせかけようとしても最早ひっひっという奇妙な音しか出ては来ない。
恐怖に頭が掻き回されて猛烈な吐き気が込み上げた。
だが上を通り過ぎる強風に音に紛れて聞こえた音にマリアは思うよりも早く唇をきつく結ぶ。
マリアのその行動に二人も動きを止め畑の外の様子を窺った。
微かではあるが声がする、そしてそれはマリアが今最も聞きたくない人の声だった。
「マリア!どこだ!?マリアーッ!!」
掠れている声を張り上げているダグラスから逃れるようにしてマリアはその場に膝を曲げて蹲った。
こんなところを見付かれば彼らが何をするかわからない。
ダグラスは帰らなければならないのだ、自分と同じように待っていてくれる人がいる。
弟妹の顔が浮かんでマリアは涙を目に滲ませた。
彼は帰らなくてはいけない、絶対にだ。
ぐっと唇を噛み締め吐息すらも零さないようにとしたその時、横まで来ていた男が立ち上がりかけたのを見て咄嗟にその袖に噛み付く。
だがそれがいけなかった。
突然腕を引かれた男が怒りに任せて叫び声を上げたのだ。
「誰だ!?」
そしてマリアが畑の奥に身を飛び込ませようとする前に彼はやって来てしまった。
「逃げて!お願い!」
もしほんの僅かにでも理性が残っていたのなら、そう叫んだところで逆効果にしかならない事はわかっただろう。
しかしマリアはそう叫び出していた。
「お前達は……」
「チッ、面倒だな」
「兄さん、早く!」
青年がマリアを押さえ、その間に男がゆっくりと立ち上がりダグラスに対峙する。
「止めて!止めて!」
背中を押さえ付けられながらもがき、両手足に食い込んだロープが雨ではない何かにぬるりと濡れ始めた感触がした。
それでも青年の手から逃れようとするマリアに視線を向けていたダグラスの顔が遠目にも険しくなる。
ダグラスも普段であればそこらの男には負けなかっただろうが、病み上がりの体で丸腰では到底希望は持てない。
何より対する男が武器を持っていないとも限らないのだ。
喉が裂かれて血が出るかというほど痛んだが、マリアは体を潰されたまま叫び続ける。
首を思い切り捻るとマリアの目には丁度お互いの胸倉を掴み合った二人が映った。
「こんな所で殺しはしないよ、流石に厄介な事になるからね」
とても安堵など出来そうにない事を青年は言う。
押さえ付けて来る手から身を捩ろうとするも、細身とはいえ男の力には敵わない自分が歯痒かった。
それどころか口元を腕で塞がれ、噛み付いても平然とした顔をしている青年の表情を見てマリアは身震いする。
あの城で初めて顔を見た時のおどおどしたような印象とは違い、まるでブリキででも出来た人形のようだ。
「静かにしていれば手荒な事はしないよ。あれで兄さんは軍部にいた事もある、どの程度で死ぬかどうかくらいは心得ているよ」
「ううっううううっ!」
――それはどうもご親切に!
マリアは何とか腕が回されたままの顔を捻り、ダグラス達の動きを追おうとする。
畑の中を転がるようにしてお互いが胸倉を掴み合い拳を振り上げ、それが地面や体へと当たり鈍い音を立てていた。
男に乗り上がったダグラスが再び拳を振り上げて男の顔を殴り付けようとすると、男は器用に上体を捻ってそれをかわしダグラスの拳はまたも地面に叩き付けられる。
地面から引き抜いた彼の拳から赤いものが流れて行くのを見てマリアはまた手足をばたつかせたが、今度は両足に乗って体重を掛けられそのまま覆い被さるようにして青年が両腕も掴んでしまう。
「兄さん!遊んでいないで早くしてくれ!」
「女一人押さえ付けられないなんて、だからお前は軟弱――」
立ち上がりかけた男が一瞬後ろに目をやった隙を突いてダグラスが飛び込むように体当たりをし、すぐに体勢を立て直すと今度はマリアの元に走り青年の肩目掛けて足を振り下ろす。
がっという音はダグラスが蹴った音だったのか青年の叫び声だったのかはわからなかった。
体の上から重圧がなくなったかと思うと、地面のすぐ上にあったマリアの視線はぐんと高くなる。
「ダグラス!?」
肩に担ぎ上げられているのだと理解してすぐ彼はそのままの体勢で畑の中を駆け出した。
縛られたままの両手でダグラスの背中を叩くが、彼はしっかりとマリアの両足を抱え隣の畑に飛び込むと今度は体勢を低くしたままで地面を這う。
畑の端ほどまで行ったところで漸く彼に解放されたマリアは声を潜めて訴えた。
「お願いダグラス、逃げて。何をされるかわらないわ」
「だったら、……尚更君を連れ去られる訳には、いかない」
荒い息を吐き出しながら痛むあちこちを堪えているのだろう彼の歪んだ表情にマリアは唇を噛み締めて涙を堪える。
泣いている暇はない。
「ダグラス、血が出てるわ、止血しないと」
「血なら君だって出ている!」
吐き捨てるように言った彼に思わずマリアは息を呑んだ。
ダグラスは視線を落としマリアの足に縛られたロープに手を掛ける。
暴れた所為か自分の足が驚くほど真っ赤に染まっていて、思わず叫びそうになった口を慌てて塞いだ。
「俺は大した傷じゃない。……すまない、君を巻き込んでしまって。全部俺の所為だ」
「な、何を言ってるの?貴方の所為なんかじゃないわ」
首を振ったマリアにしかしダグラスは険しい表情のまま固い結び目を解こうとする。
しかし血で濡れた事で余計に締まってしまったのか何度も彼の指がロープの上を滑る。
「違う、あいつらが君を狙ったのは俺の所為だ……俺がもっと早く自分の欲しいものに気付けていたら、やり方を間違えなければ、こんな――こんな事には」
結び目に爪を立てる彼の手からはまた新しい血が筋を作り、先程よりも背の高い茎の間から吹き込んで来る風によってあちらこちらへ流されて行く。
「や、止めて。いい、もういいから」
「よくない」
「いいったら!こんな事してたら見付かっちゃう、お願いだから早く逃げてよ……」
感覚さえなくなっていく寒さの中、マリアの目元がじわりと焼けるように熱くなった。
「どうして俺がこんな状態の君を置いて行けるなんて思うんだ」
「貴方は帰らなきゃ、皆が……大事な人が待ってるじゃない」
ダグラスはどうしても解けない結び目に小さく悪態をついて今度はマリアの手首のロープに手を伸ばす。
そちらも両足同様に縛られたロープは赤く染まっていた。
マリアはダグラスの手から逃げるようにして自分の両手を胸の前に引き寄せる。
しかし彼は片手でマリアの腕を掴み再び結び目に指を掛けた。
触れ合っていてもお互いの体温がわからないほど体が冷え始めている。
風の音と共に男の声が聞こえ、ダグラスは腕を掴んでいた手でマリアを引き寄せ体勢を低くした。
「君は……あいつと、ここに残るつもりなのか」
「あいつ?」
マリアが思わず尋ねたのにダグラスは答えなかった。
「俺の両親はわかってくれているよ、わかっていなかったのは俺の方だったんだ」
その言葉の意図が掴めずダグラスを見上げたマリアに真っ直ぐな視線が降りる。
「このまま俺が帰っても、君がいない」
「ダグラス、クリスとキャットの事なら……」
弟妹から自分を連れて帰るようにと言われて来てくれたのかもしれないと気付き、マリアは首を振ろうとした。
「そうじゃない」
しかし彼は何故か泣きそうな顔で首を振り、そしてそのまま微笑んだ。
「俺の一番大事な人が、君だからだよ」
そうしてマリアの耳には風の音すらも届かなくなる。
言われた意味を考えようにも何もかもが頭から吹き飛び思考は形を成さなくなった。
ただ瞬きを繰り返す視界にはダグラスの琥珀色の瞳が映る。
何かを問おうとしたのか唇が無意識に動いた気がしたが、マリアの耳に自身の声は届かなかった。
「君がここに残りたいのならそれでもいい、それが君の幸せだって言うなら。俺に……それを止める権利なんかないんだ。けどせめて俺に、その幸せを守る事を……許して欲しい」
彼の言葉がただマリアの耳を通り過ぎて行く。
一体彼が何を言っているのか、何を言おうとしているのか、もどかしいほど頭が回らない。
「君をもう傷付けさせたくない――俺からも、誰からも」
キンと一瞬耳鳴りのようなものが頭に響いた。
そしてダグラスだけを映していた視界に黒い影が飛び込んで来る。
「ダグラスッ!」
声を上げるべきではなかった、そうマリアが思ったのは実際それよりも随分後の事だった。
マリアの声に反応した彼は躊躇いもなくマリアの体に覆い被さった。
そのまま地面に倒れ込み、上にある体がぴくりとも動かなくなる。
狂ったようにマリアは叫んだ。
顔のすぐ横にあるダグラスの瞳が何度叫んでも開かない。
「ダグラス!ダグラス!ダグ――」
憶えているのはそれまでだ。
斧で断ち切られた如く、自分の声はぶつりとそこで消えていた。