22.手紙
更に翌朝も雨は続いた、ただ少し開けた雨戸の隙間から見えた空は僅かに明るさが戻っている。
ダグラスの声も回復は見られないが、食欲は戻りつつあるようでマリアはほっと胸を撫で下ろす。
朝から根気よくダグラスに繰り返し続け、やっとの思いでホテルの名を聞き出す事にも成功した。
嵐が治まり次第ダニエルと共に一番近くの町へ出て連絡をし、途中エドウィンにマリアを拾って貰えれば往復にそう時間を取られる事もないだろう。
だがそれは彼らとの別れが刻一刻と近付いている事も意味していた。
「あら、どうしたの、そんな顔をして」
少しずつ食料を分ける計画を練っていたマリアはキッチンに戻って来たダニエルの顔を見て言った。
すると苦虫を噛み潰したような顔をしたままダニエルがどさりと近くの椅子に座り込む。
「目はどこでも一つの言葉を持つだなんて、一体誰が言ったんだろうね。実にその通りだと賛同の拍手がしたくなったよ」
「一体何の話?」
「どうして君じゃなくお前なんだって、始終彼の目が訴えるんだ。やっぱり次からは君が彼にスープを持って行ってくれ。まるで僕は親の敵だ」
「貴方にはとてもお世話になったと話したのに」
「……とにかく、僕はもう丁重に辞退させて頂く。これ以上あの視線に刺されたら僕は蜂の巣より酷い事になりそうなんだから。薬を飲んだかの確認は君にお願いするよ。僕が毒でも入れてるんじゃないかって疑わしそうに見るんだ、全く」
ゆるゆると首を振ったダニエルはすでに慣れた手付きでお茶をカップに注いだ。
ダグラス用に野菜がくたくたになるまで煮込んだスープの鍋をぐるりと掻き回してマリアは腰に片手を当てる。
「そうだわ、ダグラスの上着にブラシをかけておかないと」
「やはり彼とは一緒に戻らないのかい?」
マリアはそれに答えずただ苦笑した。
表情からするにダグラスが勿論納得しているとは思わないが、マリアには一緒に戻るという意思はない。
彼の安全を確保出来る見通しがついてからは他にやる事も考える事も山ほどあった。
ただ心にずっと残っていた弟妹への気がかりは多少薄れた事でほっとする。
ダグラスの家の保護下にあれば少なくとも身の安全は保障出来るだろう、それにあの二人なら自分がいなくともしっかり将来に向けて歩んで行ける。
――それが少し寂しく感じてしまうのは我侭だろうか。
「ダニエル、鍋をお願い出来る?」
「いいとも。ここ数日で僕も格段に自信がついた。両親の許に行ったらクリスマスプディングだって作れそうだよ」
マリアと場所を交代して胸を張ったダニエルに笑いが零れた。
「そういえばもうすぐでそんな時期になるのね」
今年は弟妹に何を贈ろうか、財布の中身と睨めっこをしながら考え込む事もないかもしれない。
農場に使う事もなくなったのでこんな事になっていなければ今年は今までよりずっといい物を贈るつもりでいた。
クリスティアンには彼が欲しがっていた革表紙の本を、キャサリンには彼女が好きそうな流行の型の服を。
一緒に過ごせる事はなかったかもしれないが、それでも二人が贈り物を手にして喜ぶ顔は想像出来た。
けれど今は贈り物一つ出来ない。
顔を見せに戻りもしない、贈り物一つ寄越さない、そんな姉をいつしか二人は忘れ去ってしまうのではないか。
マリアは指先が冷たくなったのを感じてぎゅっと握り締めた。
「マリア?」
「あ――、ねえ、息子さんにもクリスマスプレゼントは贈るんでしょう?何にするか考えている?」
「うん。でも、まだ彼女が許可をくれた訳じゃないよ」
突然大きく肩を落としたダニエルの腕に触れてマリアは微笑む。
「一度で諦める事はないのよ、何度でも手紙を出せばいつかきっとわかってくれるわ。それにクリスマスの贈り物は考えるだけでもとても楽しいわよ。今年はご両親にも贈らなくちゃいけないでしょう?」
「そうだね。うん、長い事忘れていた、贈る宛てもなかったから。両親には膝掛けを贈ろうと思うんだ、母には赤で父には緑」
「とってもいいと思うわ」
マリアも笑顔で頷くと、ダニエルは少し赤くなって息をついた。
「年甲斐もなく楽しみにしているんだ。こんな気持ちは何年ぶりだろう」
「これからまだまだ楽しい事があるわよ」
「そうだといいな。君も弟と妹に何か贈らないのかい?」
そう出来るとも思えなかったが、以前考えていたプレゼントの事を話した。
それから二人で少しの間クリスマスについての事を話し、マリアは奥の部屋へ歩きながら堪え切れない溜息をつく。
考える余裕もなかった事だ、しかし改めて思うと今年は一層寂しくてつまらないクリスマスになりそうだと思う。
両親が生きていた頃はダグラスや彼の両親も時折一緒になってクリスマスを過ごした。
それまでのようにとはいかなかったが、以降も弟妹とは出来る限り楽しく過ごして来た。
器用なクリスティアンが飾りを作るのに不器用なキャサリンが癇癪を起こし、けれどそれも楽しい日々だった。
年々二人が友人のパーティーに行く時間が増えても、夜は家族三人で本を読んだりゲームをしたりした。
その日だけは普段反抗的になりつつあった二人にとっても特別なものだったのだ。
当日はただいつも通りに祈りを捧げるだけなのだからと言い聞かせてみても募る寂しさは隠せない。
また無性に二人に会いたくなるのを堪え、行き先を変えてダグラスがいる部屋のドアをノックした。
数秒待った後ドアを開くと、体を起こしていたダグラスがマリアを見てほっと表情を和らげたのに苦笑が零れる。
「ダグラス、あまり彼に失礼な事はしないで頂戴。ダニエルがいなかったら本当に私どうしていいかもわからなかったんだから」
ところが彼は拗ねた子供のように視線を外して拒否を表す。
もしかしたら一度目に目を覚ました時の事を憶えていて、その気まずさからだろうかとマリアは思う。
大よそ彼が今のように誰かに対して拒否を表した事などは見た事がなかった。
マリアはテーブルの上の薬が減っているのを確認して、そこから雨戸の方へと視線を移す。
本当に少しずつだが確かに雨戸を揺るがす風も治まりを見せつつあった。
迎えが来たらすぐ彼を連れ出せるようにしなくてはならない。
そして彼の上着にブラシをかけようとしていた事を思い出し、マリアが部屋から出ようとするとコンと何かを叩く音に振り返る。
ダグラスがベッドの脇の壁を叩いて、物言いたげにこちらを見ていた。
水が欲しいのかとマリアが尋ねるとダグラスはゆっくりと首を振って手招きをし、再び歩み寄ったマリアの手を取りその手の平に己の指を当てる。
動き出した指が文字を象っていくのを見てマリアは慌ててそれを目で追った。
紙に書く筆談が無理だったのならこうすればよかったと感心して口を挟もうとしたが、手の平に書き出されたその言葉に息が止まる。
――君は、今、幸せか?
ダグラスの指はそう描いた。
「どうして……そんな風に聞くの?」
震えそうになる声を出来るだけ抑えて尋ねる、しかし彼は手を取ったままじっとマリアを見詰めた。
やけに自分の鼓動が大きく聞こえ始めて、それが手を伝わって彼に知られませんようにと願いながら彼の目を逸らさず見返す。
「貴方が言う幸せが何を意味しているかわからないけど、少なくとも私は不幸じゃない。私、家を出てあの子達とも離れて、一人になってみて凄く実感した。私は今までとっても幸せだったんだなあって。村や農場の人達に恵まれていたし、大変だったけど食べるのにも困らなかった」
故郷の村から比べればここはそれよりももっとずっと小さい。
子供達がきちんとした学校に行って教育を受ける事は稀で、今まではマリアのように多少なり知識のある者が時折交代で教師の真似事していた程度だ。
それに比べて自分のなんと平和だった事か。
「勝手に私が一人で大変だ大変だって、そういう風に考え込んでたみたい。ここの人達も皆とてもいい人よ。それにダニエルもね。ねえ、彼に世話になった事を恥しいなんて思わないでね?私も……貴方も、一人であれこれ背負う前に誰かに支えてもらっている事に感謝するべきなのよ。私も貴方にとても感謝してる。それに一緒に来てくれたエドウィンだって、貴方をずっと支えてくれている人じゃない」
何故か泣きそうに彼の表情が歪んだのにマリアの胸が痛む。
どうあっても、彼の苦しみは自分の苦しみに等しかった。
だからずっと彼の傍にいて、彼を笑顔にさせたくて、随分必死になっていた。
「そんな顔しないで。貴方もそういう意味では凄く幸福なのよ。それにこれからだって、もっと沢山の幸せを手に入れられる」
伸ばされた腕にマリアも腕を伸ばし、隙間なく抱き締め合う。
この腕がこのまま自分から離れなければいいと思ってしまう、マリアはそんな自分を認めた。
しかし愛は難しい。
自分だけのものにしたい欲求と彼の幸せを願う思いが複雑に絡み合っている。
けれど例えこの腕が一生このままだったとして、彼が己の愛に応えられず曇ったままだったのなら、そこにはただ自分の「欲求が満たされた虚しさ」しか残らないのだ。
「私、幸せだと思う。皆を大事だって思えるから、それが嬉しいから、幸せなんだと思う」
ぽんと一つダグラスの背を叩くように撫でて、マリアは自分から彼の腕を放した。
どうして自分の一部が引き千切られた思いがするのかと、苦笑いを押し殺しながら。
「近々雨は止むから、後は家に戻ってゆっくり休んで。こっちに来ても仕事をしていたんじゃない?疲れているのよ。貴方も私と一緒で、こうと決めた事には寝食を忘れがちになるから」
一瞬躊躇ったがマリアは上体を伸ばして彼の頬にキスを落とすとゆっくりと背を向けて部屋を出る。
閉めたドアに暫く寄りかかり、溜息が出そうになるのを唇を噛んで堪えた。
愛されている、必要とされている、大事だと思われている、そうした事もまた幸福には欠かせないものだと言えずにいた自分の弱さを叱咤する。
それを口に出して願えていた自分は、一体今どこにいるのだろう。
ドキドキと不自然なほど脈打つ胸をそっと押さえて深呼吸を繰り返した。
「さあ、まだまだやる事は沢山あるのよ」
胸を張るとふとキッチンの方からいい香りが漂って来て頬が緩む。
ここで得たかの友にも、いつか「許される」という幸福が降りて来ればいいと願った。
玄関から一番遠い部屋へ行って奥の正面にある雨戸と窓を少し開けると、部屋の中の湿った匂いが雨の匂いに掻き混ぜられる。
体をマメに拭く事で洗濯物は多くならないようにしているが、それでも部屋に吊るしてある服に手を触れてみればまだ湿っていた。
暫くじっとその場に佇んで吹き込んで来る風に目を閉じる。
何故だか無性に寂しさを覚えて、真っ暗な世界に一人取り残されたような感覚に陥った。
自分で言った事も嘘ではない、誰かを思う心は先に光を見出し歩み行く力をくれる。
けれど時折、己を必要としてくれる手に、手を引かれたいと思う事がある。
己を愛してくれる手に、背中を押されたい時がある。
マリアは目を開けて自分で考える以上に疲れているのだと首を振った。
そして棚からブラシを取り出して掛けてあったダグラスの上着の埃を払う。
袖が少し綻びていたのを見付け、マリアは他の場所も繕うところがないかあちこちを触って確かめた。
すると胸の辺りの内側に何か違和感を覚えて手を止め、そっとポケットに手を入れると中には手紙が入っていた。
すぐに戻そうと手に取ったそれをポケットに戻そうとした時、マリアの目に書かれた文字が飛び込んで来る。
――マリアへ、表にはそう書かれていた。
「私、宛て?」
どうしてか手が細かに震え始め、暫くマリアはその文字をじっと見詰め続ける。
ダグラスの文字ではないようだった、しかし他に自分宛てに手紙を書いてくれるような誰かは思いつかない。
もう片方の手を添えて、ゆっくりとマリアは封筒を裏返した。
封をされている少し下に書かれた名前を目にし、大きく鼓動が跳ねる。
また暫くじっとその名を見続けた、手の震えも止まらない。
片手で手紙を胸に押し付け、マリアは真っ白になった頭で棚を探り古びたペーパーナイフを取り出した。
手が震えている所為か封は綺麗には切れなかったが、波模様を描いた切れ目にそっと指を差し入れて中の紙を手にする。
震えが酷くなる両手で折り畳まれた紙を眺めた。
胸が痛いほどに高鳴って深呼吸を何度も繰り返す。
そしてとうとう、畳まれた紙を広げた。
マリアへ
元気ですか?寒くなっているけど、体は大丈夫ですか?
僕達は元気です。寮の生活は大変だけど、とても楽しいです。感謝しています。
書きたい事も聞きたい事も山ほどあって、今では何も思いつきません。
マリアの言葉はちゃんと守ってます。クリスティアンは一度風邪を引いたけど、私は元気です。
最近クッキーの作り方を覚えました。マリアにも食べて欲しいです。
今までごめんなさい。早く帰ってきて下さい。
もし僕達を今でも嫌いになっていないのなら、本当に早く帰ってきて下さい。
家もなくていいです、お小遣いも送ってくれなくてもいいです。
学校に通えなくてもいいです。勉強はちゃんとします。
これからは沢山手伝います。クリスティアンには不評だけど、少しずつ他の料理を覚えています。
私達はいい妹と弟ではありませんでした。でもこれからは違うと誓えます。
仕事は大変ですか?マリアは無茶をするので、心配です。
もし僕達に出来る仕事があるのなら、僕達も行って働きます。
今はダグラスのご両親と一緒にいます。良くして貰っています。
でもマリアに会いたい。
会いたいです。マリアに会いたい。
また三人で一緒に暮らしたいです。僕達を許して下さい。
寂しい、寂しいです、姉さん。ごめんなさい。ごめんなさい。
僕達はマリアを愛しています。だからどうか、いなくならないで。
絶対に帰ってきて下さい。皆心配しています。私が一番心配しています。
僕が一番心配しています。
私の方が絶対に心配しています。手紙を下さい。でもそれより早く帰ってきて下さい。
いつの間にかマリアは手紙を抱き締め床に蹲っていた。
クリスティアンとキャサリンの文字が交互に綴られたそれは徐々に震え、最後は愛していますという言葉で埋め尽くされている。
顔を上げて涙で歪んだ視界のまま何度も何度も読み返した。
クリスティアンの少し右下がりの字、キャサリンの丸い文字があまりにも懐かしい。
一体どんな言葉が綴られているのかという不安はもう微塵もなかった。
二人の声が耳に届くかのようだ。
今こそ自分の幸福を実感出来た、何の躊躇いもなく言えるだろう。
クリスティアンもキャサリンも他の誰でもなく、自分だけをこんなにも求めてくれている。
細めた目から零れた涙がぽつりと一つ手紙の上に落ちたのに慌ててマリアはそれを小指で擦り再び抱き締めた。
「ぅ、ぅう、あ、ああ、ああ、うあ」
堪えようとしても、涙もそれに喘ぐ声も止まらない。
目と喉と胸が焼け付くように痛んで苦しいのに、それが不思議と心地いいと感じた。
吹き込む風が如何に冷たいかを火照った体で感じながら、マリアはただ蹲って泣き続ける。
ある頃から嫌そうな顔しか見せなくなった弟妹の顔が浮かんだ、そして自分に背を向けて去って行く姿も。
けれど次々に膨大な量の楽しい思い出が押し寄せて来る。
幼い頃いつもマリアの後を追いかけて来た二人、両親が亡くなった晩ぴったりと寄り添って傍から離れなかった二人。
そして二人が生まれた日の事をふと思い出す。
二人共何もかもが瓜二つだった、それが羨ましくてどうして自分は二人と違う色をしているのかと父に尋ねた事もある。
自分の憧れでもあった髪と瞳の色の持った二人の天使にあっという間に虜になった。
「クリスティアン、キャサリン……ありがとう、ありがとう」
恐らく両親を亡くしてからの自分こそ二人にとっていい姉ではなくなっていただろう。
自分でも嫌になるほど小言を繰り返してばかりいたし、口にするのは家の事ばかりで二人が何を考えているかも昔のように尋ねる事も少なくなった。
マリアは両手で火を噴いたように熱くなった顔を覆う。
謝るのは自分の方だった、嫌いにならないでもともいなくならないでとも言いたいのはマリアの方だった。
二人が自分から距離を置き始めているのに気付いても、それを縮める事も口に出す事も出来ずにいた。
二人に対して何も出来なかった自分を、彼らは許してくれたのだ。
「私も愛してる、愛してる、愛してる」
床を這って棚からペンとインクを取り出し、何度もインクをあちこちに零しながら手紙の裏にそう綴る。
落ちる涙に所々が滲んでもマリアはただそれだけを紙に埋め尽くした。
「必ず、帰るから」
涙も漸く尽き、枯れた声でマリアは呟く。
どくどくと脈打つ体から、何か奇妙なものがせり上がって来るのを感じた。
そして唐突に、これが幸福かと理解する。
両親が生きていた頃、当たり前のようにあった幸福が、今確かに蘇った。
否、消えていた訳ではない、ただ見失って忘れていただけなのだ。
乱暴に目元を腕で拭って、マリアは大きく息を吐き出し立ち上がる。
帰りたい――莫大なほどの気持ちが襲う。
そして同時に、大事なものを何ものにも傷付けさせたくないとも。
マリアは開いていた窓を閉めて弱まりつつある雨をじっと見詰めた。
一刻も早くダグラスを国に帰さなくてはならない。
彼に必要とされる特別な人が、きっと彼の帰りを今か今かと待っているだろう。
片手で抱き締めたままだった手紙を封筒に戻し、それをダグラスの内ポケットに再び入れる。
マリアの指先は手紙の入ったその部分を愛しげに撫でた。