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20.むかし、むかし

 お母様はよくわからない、優しいけど時々顔を見せてすぐ行ってしまうから。


お父様はもっとわからない、お会い出来るのは私が重たいドレスを着る時だけ。


だから私は「シィ」が好き、いつも一緒にいてくれる優しいシィが大好き。


 私がそう言うとシィは少し悲しそうな顔で、お母様もお父様も私の事がとても好きだと言ってくれる。


じゃあどうして一緒にいてくれないのって言うと、お二人共お忙しいからって。


お父様はこの国で一番偉い人で、お母様にも沢山のお仕事があるから。


だったらお仕事なんて止めてしまえばいいのにって言うと、やっぱりシィは悲しそうな顔をするから私はもう言わなくなった。


悲しいけど寂しいけど、でもシィはいつも一緒だからいいの。


 それにこの間は友達も出来た、森でかくれんぼをしていた時に会った男の子。


この頃シィは難しい顔ばかりしているから、一緒に面白い事をしようと思って森の奥まで一人で隠れた。 


そうしたら白い壁の向こうから来たって言った男の子と会って、皆が集まる所で会う子達とは全然違って一緒に遊んで楽しかった。


皆が捜しに来てその子とはバイバイしたけどまた会えるといいな。


でも男の子とはそれから会えなくなった、怖い顔をしたシィがそれから私を連れてお城の外に出たから。


 お出かけは時々するけどいつも馬車の中ばかりでつまらなかったから、私はずっと嬉しくてドキドキしていた。


それなのにシィはずっと怖くて悲しそうな顔をして、私の手を痛いくらいに握り締めるから、いつの間にかドキドキはなくなって私も悲しくなる。


あちこち歩いたりまた馬車に乗ったり船にも乗ったりしたのに、ちっとも楽しくなかった。


いつもお出かけする時はお父様とお母様にもちょっと会える、でもいつまで経っても二人共出て来ない。


お気に入りの人形も持って来れなくて、私はずっとシィの手ばかり握っていた。





 怖くないですよ大丈夫ですよってシィの言葉を沢山聞いて、もうシィはそれしか言わないのかなってもっと悲しくなってたら、最後に馬車に乗った後でにこにこした男の人が歩いて来た。


シィの方を見たらやっといつもみたいににこにこしていた、だからこの男の人は優しい人なんだなってわかったの。


だってシィと同じに目の端が少し垂れるから、きっとシィみたいに優しいんだって考える事が出来た。


男の人はジェシーって言って、シィの「旦那様」だって言われて凄く嬉しかった。


でもそれよりもっと嬉しかったのは、シィとジェシーが私のお母様とお父様になると言われた事。


ジェシーは新しい家より少し先にお仕事をする所があって、「お父様」みたいに時々じゃなくて毎日一緒にいてくれる。


シィともこれでずっと一緒なんだって、嬉しかった。


お城にいる「お父様」と「お母様」にもまた時々は会えるだろうし、私は新しい「お父様」と「お母様」に夢中になった。


 新しい家は前にいたお城にあるお馬さんが住んでいた小屋くらいの大きさでビックリしたけど、お馬さんはとてもいい所に住んでいたんだなと思う。


だって家の端にいても私が呼べばお父様もお母様もすぐに「なあに?」って言ってくれるから。


怖い夢を見た時にベルを鳴らして長い時間誰かが来るのを待つ事もない。


私はお城よりずっとこの家が好きになった。


 でも嫌な事もあった、お勉強だ。


ここは「外国」で、私の為に少しお勉強をしてくれたお父様とはお話が出来るけど、村の人達は全然違う。


家ではずっとシィがこの国の言葉を教えてくれた、そうでないとお友達が出来ないって言うから。


やっと少し覚えて村の人達とも少しはお話が出来るようなった、でも前の言葉は使っちゃいけなくて全然思う通りにお話が出来ない。


間違って前の言葉を話しちゃう時は皆不思議そうな顔をして私を見てる。


同じ年の男の子からは「変」って言われて笑われたし、大人の人も少し目を細めて私を見るから、なんだか凄く嫌だった。


だから一生懸命言葉を覚えようとしたけど、でも前の言葉を使わないのはやっぱりなんだか嫌だった。


 シィの名前が変わった、私の名前も変わった。


シィはもう前の名前で私を呼ばない、私がこの国に来たからきっと「外国人」になってしまったんだ。


ううん、今はもう前の私の方がそうなんだ。


私は今この国の言葉を話す「この国の人」になったんだから。


シィはもう前の私より今の私の方が好きなんだと思う。


だから今は「外国語」を使うと悲しそうな顔をして、「今の国の言葉を使いなさい」って言うの。


 新しいお母様が言うんだから、前の言葉も前の私も忘れないといけない。


でも前の名前の私は、どこに行っちゃうんだろう。





 それからお父様のお友達の家に行った時、年上の男の子に会った。


前に見た本の表紙に描いてあった優しい茶色の目の王子様にそっくりだと思ったのに、男の子はちっともその王子様みたいに笑わない。


それになんだか寂しそうで、どうしてなのか聞きたいのにその言葉がわからない。


ダグラスと言ったその子の後を付いて歩きながら、「どうして寂しそうなのですか?」はなんていう言葉だっけと考えていた。


そうしていたらなんだか悲しくなる。


新しいお父様もお母様も家も、お父様のお仕事場にいる馬も牛も皆素敵なのに、私だけが「変」だった。


言いたいのに出て来ない言葉が喉の奥に詰まって、ダグラスにも「変」って笑われたらどうしようかと悲しくなる。


急にお城に戻りたくなった。


 でも歩いた先にお城の近くにあったお花畑とそっくりな場所を見つけて嬉しくなる。


そこはあちこちにぽつぽつと小さい花が咲いているだけだったけど、そこだけ私と「同じ」場所に戻れたみたいだった。


あんまり嬉しくて「とても綺麗ね」って、前の言葉でダグラス言ったのにも気付かなかったくらい。


傍にやって来たダグラスに前に住んでいた所はどこにあるのかって聞かれて私は答えられなかった。


でもこれは知らなかったの、だってずっと馬車に乗ったり建物ばかりの細い道を歩いたりしたから。


そうしたらダグラスが笑った、初めて笑った。


一瞬また「変」って思われて笑われたのかと思ったけど、でもダグラスは嬉しそうに笑ってた。


それが凄く素敵だなって、私もいつの間にか笑ってた。


新しいお父様とお母様がにこにこして笑うのも凄く好き、お城のお父様とお母様はあまり笑ってくれなかったから。


でもダグラスが笑うと綺麗な茶色の目がつやつやしてなんだかドキドキする。


夜にホットミルクを飲んだみたいに体が温かくなって笑いが止まらなかった。


 もっとダグラスを笑わせたくて、でも何を話したらいいのかもわからなくて、目の前の花で冠を作ったらどうかなと思った。


でも茎が短くてちっとも上手くいかない、諦めて顔を上げたらダグラスはまた寂しそうで悲しそうな顔をしてた。


さっきよりずっと苦しそうで、私も悲しくなって来る。


あんなに素敵な笑顔がまたなくなってしまうのは嫌だった、もう見れないのかと思うとどんどん悲しくなって来る。


私が悲しい時はシィがミルクやビスケットを持って来て楽しい本を読んでくれるけど、ここにはない。


どうしようどうしよう、私みたいにダグラスが泣き出したらどうしよう、私は必死で辺りを見回して丘の向こうの木の下に小さな花を見つけた。


いつか絵本で見た事がある、病気のお母さんを治す為に子供達が不思議な赤い花を探しに行く話と同じ花。


きっとあの花だと思って私は急いでそれを摘みに行った。


近くで見たらちょっと花びらの形が違ったけど、でも同じくらい真っ赤なんだから大丈夫なはず。


太陽の不思議な力が赤色になるんだって書いてあったもの、だから風邪をひいた時私はいつもリンゴを食べて元気になるんだから。


 あの絵本みたいに摘んだ花をダグラスの痛そうなところに当てた。


ダグラスって、名前も上手く呼べなくてまた泣きそうになったけど、早く元気になって欲しかった。


それなのにダグラスは泣いてしまって、私はまたどしていいのかわからなくなって、シィがいつもしてくれていたようにダグラスの背中をぽんぽんって叩いてみる。


早く泣き止んで欲しかった、早くあの笑顔を見せて欲しいと思った、それだけだった。


私を抱き締める腕の震えが止まって、ダグラスが涙を拭いてまた笑ってくれた時、ものすごく嬉しくなった。


そしてもっとダグラスと話したいと思うようになる、もっともっと色んな事を話して笑顔を見たいと思う。


近くで見たダグラスの笑顔はもう絵本の王子様とは全然似てないと思ったけど、でもダグラスの方がずっと素敵だった。





 相変わらず私は時折「変」なままだった。


友達が出来ても、昔の記憶が薄れていっても、ふとした時に「変」が顔を覗かせる。


それまでの「私」は「変」になって、新しい「私」が「私」になっても。


「変」は私の中のどこかに刻まれたように残っていて、それを感じる度に世界はまるで本の中の出来事に感じた。


 隔離した「変」を少しずつ融合させていったのはダグラスだった。


彼は大抵私と一緒にいて「変」な私の言葉にも耳を傾けてくれた、笑ったりも悲しんだりも哀れんだりもしない、追求もしなかった。


そして彼の前で無理矢理片隅にやる事もなくなったそれは、少しずつ私の中に浸透して消えて行ったのがわかる。


新しい言葉を使う事に慣れ、新しい暮らしに慣れ、新しい私に慣れた。


もう私の何が「変」だったのか思い出せなくなって行く。


昔私がどんな名前でどんな言葉を話していたのか、どこに住んで誰が本当の両親だったのかさえも。


 けれどそれは逆に言えばダグラスが傍にいてこそのものだった。


彼が私を受け入れてくれる安心感は、彼の存在がなければ不安に変わる。


後ろを振り返って彼が笑ってくれないと不安になる、そうしていつも彼を捜してしまう。


「変」も「私」と認めてくれる彼でなければ、「私」は――……。















 はっと顔を上げたマリアは自分が寝ていた事を知った。


頭が軽く揺れているような感覚に目を閉じると、一瞬脳裏を過ぎった母の姿に夢でも見ていたのだろうと溜息をつく。


伏せていた顔に掛かった髪を払おうと手を上げ、しかしその手が何かに封じられているのを感じる。


緩く頭を振って髪を払い視線を動かすと、そこにはマリアの手を握ったダグラスが静かに寝息を立てていた。


軽く混乱しながらもマリアは彼の看病をしていた事を思い出し細く息を吐いた。


もう片方の手を伸ばしそっとダグラスの額や頬に触れると粗方熱は下がったようだと感じて安堵する。


休んだ方がいいと言うダニエルにどうしてもと言い張って付き添ったが、彼の寝顔を見ながら結局自分が出来る事など微々たるものだと肩を落としてしまう。


 ふと脳裏に昔のダグラスの顔が浮かんでマリアは目を細めた。


記憶にある幼いダグラスの顔は年々苦痛のようなものを重ねていた。


もっと幼かったマリアにはあまり理解出来た事ではなかったが、思えばダグラスは随分と幼い頃からプレッシャーと戦っていたのだろう。


疲れたようなダグラスの顔を見ていたくなくて、時に彼に無茶を言って連れ回したり無言で寄り添ったものだった。


今考えると一体何が不安だったのか、彼の傍にいなければとにかく落ち着かなかったのをマリアは憶えている。


ただ今はダグラスとどうやって出会ったのかさえ思い出せなかった。


記憶にある限り、彼はマリアにとっていつの間にか呼吸をする如く傍にいたのだ。


 恐ろしく静かなダグラスの呼吸を確かめるべく何度も手を鼻先に翳す。


彼の額に掛かる一筋の髪を払おうとその手を伸ばしかけて躊躇った末に止めた。


宙に浮かした手を見れば指先が細かに震えている、それが恐怖からだとマリアはわかっていた。


自分からダグラスに触れるのが怖い、拒絶されるという恐れではなく。


「ダグラス……」


 そっと呼びかけたがダグラスの瞼はぴくりともしなかった。


視線を下ろせば彼の手は未だに逃すまいとマリアの手を握り締めている。


こうした事が以前にもあったと不意に思い出した、ただそれは逆の立場の事だったが。


ダグラスは今と同じようにマリアの手をしっかりと握ってくれていた。


もうあの頃のような触れ合いをする事はないと思っていたのにこうしている今が不思議に思える。


自分を蝕むしつこい愛情が彼の中にも流れ込んでしまうのではないかと、いつしか触れる事さえも怖くなったのだ。


 宙に浮かせたままの手を強く握り、やがてマリアはそっとダグラスの額にかかる髪を払い、ゆっくりと指先から少しずつ彼の頬に触れた。


ぴたりと手の平を当てた頬は見た目よりずっと痩せこけていてマリアの喉がぐっと掴まれたかの如く痛む。


「どう、して?」


 もうマリアの手は震えもせず、そして恐怖も感じなかった。


一度触れてしまえばこの胸を巣食う想いと同じく、愛と言う名の貪欲な悪魔が顔を出すだろうと思っていたのに。


己の体温より少し高いぬくもりが伝わって来るのにほっとしてしまう。


ずっと昔に失くしたぬいぐるみを捜し当てたかのような、あの懐かしい家に帰ったかのような、そんな温かさを感じた。


 目に痛いほどの痺れが走り涙が出そうだと悟ったマリアはそっと頬から手を離す。


そんなものは今更感じたくなかったと、恨みがましい思いを認めた。


いっそこのまま離れていられたのならいつしか胸に未だこびり付く愛情は風化する如く形を変えたかもしれないが、こうして彼が自分を家族同様に思ってくれている限り可能な事ではないだろう。


「どうして?……どうして来たの?放っておけばよかったのよ、あれほどお父様の仕事を継ぐんだって、ボルジャー家の息子として恥じないようにって……頑張っていたじゃない。どうして家の事情を知らせてくれなかったの?そうしてくれていたら貴方が避けなくとも私があの子達を連れてどこへでも行ったのに」


 マリアは低く呻いて顔を片手で覆った。


またしても同じ事の繰り返しだ、彼はただ自分を思ってくれてここまで捜しに来てくれただけなのに――それすらも不満を覚えて出来もしない事を言う。


一体もう自分が何を欲しているかもわからなくなる。


この愛情が消えてしまわないのなら、いっそさっき感じた親愛を消し去ってしまえたらいい。


そうすればこんな触れ合いにはただ虚しさしか覚えなくなるだろうに。


 また、出来もしない事を、考える。


「ダグラス、私は貴方の家族にはなれないのよ。多分……いずれどちらの思いが薄れてしまってもね」


 聞けばきっと彼は傷付くだろうと思えた。


しかしそれが必要なのかもしれない、例え二度と振り返らないダグラスの姿を見て己がそれ以上に傷付くのだとしても。


「貴方はあのお嬢様と婚約するんでしょう?ねえ、きっと貴方にこそ幸せな未来が待っているわ。貴方は幼馴染みの妹じゃなく、また新しい本当の家族を築くのよ。私は不幸せになんてならないわ、貴方が心配する事は何もないの」


 ゆっくりと目を伏せたマリアは再びダグラスを見詰め、かたく握られている彼の手にもう片方の手を重ねる。


今は遠い昔、明日を疑わなかった懐かしい過去が蘇る。


そう、今となっては過去なのだ。


これからの彼の未来に恐らくどんな形であっても自分が隣に並ぶ事はない。


ダニエルはダグラスを完璧な人間ではないと言ったが、彼が父親の偉業を継ごうと必死で努力していたのをマリアは知っている。


そしてそんな人に、己の事もわからなくなる幼稚な自分が相応しくないのは確かだった。


「でも嬉しかったの、本当よ」


 マリアは身を乗り出し一瞬躊躇った後、ダグラスの額にそっと口付ける。


例え自分の望む形でなくともダグラスもマリアと同じようにあの懐かしい過去を大事にしてくれていた。


――それでもう、充分だ。


昔当たり前にあった家族のような親愛を、マリアとて未だ持っているのだから。


「マリア……まだ起きているのかい?」


「ええ、ごめんなさい、明かりが漏れていた?」


 トンと一つドアをノックしてマリアの返答の後ドアから顔を覗かせたダニエルはふと微笑む。


「いや、水を飲もうと思って、それで様子を見に来たんだ。マリア、君もそろそろ寝た方がいい」


「心配掛けてごめんなさい。でも、もう少しだけ……」


 嵐が落ち着きを見せればすぐにでも町のホテルへ連絡をしてダグラスの滞在先を探さなければならない。


彼が仕事で来ているかどうかは怪しいところだったが、まさかたった一人で海を越えて来るとも思えないから身の回りの世話をする人が一緒に来ているはずだ。


そして一刻でも早くダグラスを然るべき場所で養生させなければ。


それから――あの決別の言葉も告げなければならない。


こうして彼の姿を見ていられる時間は限られている。


「マリア?」


 未練がましさにふと苦笑したマリアへダニエルが歩み寄る。


「彼が滞在しそうなホテルを知っている?一緒に来ている人がいるはずだから、嵐が少しでも治まったら連絡を取ろうと思うの」


「ああ、元々数は少ないしすぐにわかると思うよ。君も彼と一緒に故郷へ帰るんだろう?」


 数度目を瞬いたマリアは緩く首を振り、それを見たダニエルが眉を上げた。


しかし彼が口を開く前にマリアが手を上げる。


「言いたい事はわかっているわ。でも……無理なの。とにかく、彼を巻き込む事は出来ない」


 言ってしまってからはっとしたが、ダニエルは考え込むように胸の前で腕を組む。


しかしマリアが思っていたのとは裏腹に彼は苦笑した。


「君達は似た者同士みたいだ。きっと彼もそんな風に君を遠ざけたんだね」


「ダニエル」


「おっと、言いたい事はわかっているよ。でもその前に君達は話し合わなければならない。するべき時にしておいた方がいいんだ、後になってどんなに望んでも機会には恵まれなくなる時もある――わかるだろう?」


「そう、ね」


 恐らくその話し合いは堂々巡りになるだろうと予感させたが、ダニエルの言う通りに違いはなかった。


ダグラスが納得するにしてもしないにしても、マリア自身の意思を伝えておかなければまた彼が無茶をしかねない。


ただ気が重かった。


マリアはダグラスに告げる事が心底自分の望みではないと知っているし、それを彼に悟られないように出来るかも怪しいものだ。


「休む間も惜しい気持ちはわかる。せめて僕がこれから淹れるお茶を飲んでくれると嬉しいんだけど」


「勿論頂くわ、ありがとう」


「ビスケットは要る?」


「ええ。少しお腹が空いてきたわ」


「いい事だね」


 満足げに頷いたダニエルにマリアが微笑んだ瞬間、ぐらりと体が傾いた。


正面にあったダニエルは視界から消え、未だギシギシと鳴り続ける天井がマリアの目に入る。


軽いパニックに襲われながら手足をばたつかせ視線を動かすと、自分がこんな訳のわからない状況に陥っているというのに肩を揺らして笑いを噛み殺すダニエルが見えて、マリアは思わず怒鳴りそうになった。


「凄いな、寝ていても君に男が近付くと察知出来るみたいだ」


「何を言って――……えっ」


 マリアが首を捻って下を見ると頬のすぐ傍にダグラスの顔があって思わず固まる。


咄嗟に跳ね起きようとした体にはマリアの手を取ったままのダグラスの腕が巻き付いていて、まるで彼が幼子を抱えているかのような格好だと気付いた。


「なっ、ちょっと放して……っ」


「無理だよマリア、彼は寝ている」


「そんな――」


 そんな馬鹿なと抗議をしかけて実際ダグラスの寝息がすぐ耳元に聞こえて来たのには、羞恥やら呆れやらで全身の力が抜けた。


「君の意志が固いなら、何とかして彼を納得させなきゃならないな。そうでなければきっと地獄の果てだろうと君を追いかけて来そうだよ彼は。何せ夢の中でも君を放そうとしないんだからね」


 くすくすと笑いながら部屋を出て行ったダニエルを睨んで、マリアはそのまま視線をダグラスに流す。


これだけの羞恥を感じたのは一体いつぶりだろうと考えて益々視線が鋭くなった。


――全く、彼にはいつも羞恥を感じさせられる!









 お茶とビスケットを手渡しながら何度も無理はしないようにと繰り返したダニエルが部屋を出るのを見送って、マリアはカップに向かって大きく息を吐いた。


どうにかしてダグラスを引き剥がしたものの、彼の手は今度はマリアのスカートを握り締めている。


これではまるで昔と立場が逆だと、再び溜息が出て来た。


 体調が悪いダグラスに対し、どう短時間で自分の気持ちを納得させたものかと途方に暮れる。


まず彼がホテルに移す時までこのまま目覚めない可能性もあるのだ。


ダニエルの置いていったタオルで彼の額を拭こうと手を伸ばした時、マリアは痛いほど目を見開く。


「ダグラス?」


 うっすらと目を開けたダグラスはそのまま浅く何度か瞬きをした。





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