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19.激情の最中

 嵐が来てから一日が経ち昼間雨戸を少しばかり開けて確認しても外は昼なのか夜なのかわからないほど黒ずんでいる。 


空を少し見上げて再び雨戸を閉めたマリアはまるで自分の心のようだと溜息をついた。


ダグラスは落ち着きを見せたが翌朝には再び熱を出し目を覚ますような気配もない。


熱に気付いた時にはパニックに陥って、医者の元へ走り出そうとするのを何度もダニエルに宥められた。


再び顔を見るまではあれほど躊躇いがあったというのに今では彼の眠るベッドから足が動かない。


何度も手を伸ばし彼の頬が冷たく強張っていないかを確かめた。


 蘇るのは両親の硬くなった冷たい頬だった。


全身を激しく打ち付けた両親は目立った外傷はなく遺体は今にも起き出しそうなほどだったが、マリアは両親のあの生気のない姿を今でも鮮明に憶えている。


貼り付けられたように手足を伸ばしたまま硬直する両親の体、もう二度と笑顔を作る事の出来ない白い顔。


 ぶるりと幾度となく頭を振るも、次から次へと不安がマリアを襲う。


殊更気分が重いのはこの雨の所為に違いないと、ドドッドドッと風によって叩き付けられる雨音に眉を寄せた。


「マリア、お茶を淹れたよ。さあ少し休むんだ、君がそうしていては彼が起き出した時に何も出来ないからね」


 すでに溜息を隠そうともせず、マリアはダニエルに引き剥がされるようにして椅子から立ち上がる。


昨夜は様々な不安が悪夢となって現れたからかあまりよく眠れていなかった。


確かにそうだと自分を叱咤してキッチンに行き、ダニエルの差し出すカップを受け取って口を付ける。


保存食用に使った酒が少し入っているのか、カップを傾ける度にほのかな匂いが漂って気持ちを和ませた。


「君が不安になるのもわかる。でも少なくとも僕がここにいる間は頼って欲しいんだ。こうしてお茶を淹れる事も出来る」


「頼る……。でも、私はいつも頼ってばかりで」


 繰り返し呟いたマリアは苦笑した、弟妹を抱え農場を切り盛りしていた時でさえそうだった。


「本当に難しいわ、自分の弱さを認めるって」


 未だに認められないから、素直に助けてと友人にでさえ弱い心を曝け出せない。


ああして欲しいこうして欲しいと思い付かない事もあるかもしれないが、無駄にプライドが高いのかもしれないとマリアは肩を落とす。


持ち直したと思っても折れてしまうのは、大人になり切れていないからなのか、それともただ自分が弱い所為なのか。


いつまで経ってもこの堂々巡りから抜け出せるような気がしなかった。


「僕もそう思う。様々に事態が変わってその後で気付いてもなかなか自分は変えられない。でも僕は君に歩むべき道を教わった、本当は自分でもそうしたかったんだと気付かされた。僕は同じようには出来ないけど、君の役に立てるなら嬉しいよ」


「ありがとう。心強く思っているの、本当よ。私一人でいたら、泣いているだけだったかもしれない」


「それでもいいんだ、特に今は一人じゃないんだから。ただ食べる時はしっかり食べて、体力は残しておかないとね」


 再び礼を言って頷くとダニエルも微笑んで頷く。


「貴方も荷造りがあったでしょうに、足止めする事になってしまってごめんなさい」


「大して物を持ち歩いている訳じゃないから構わないよ」


 旅をするには身軽な方がいいと言ったダニエルは、それまでの暮らしが如何に無駄な物に溢れていたかも語った。


マリアが見た事もなく想像もつかないような物まであれこれと説明を受け、結論としては二人共実用的な物が一番いいという事に落ち着いた。


そしてダニエルは自分の分のお茶を口にしてゆっくりと息を吸い込む。


「クローイに、手紙を書こうかと思っているんだ」


 その告白にはマリアも驚かされたが、詳しく聞く内に笑顔で賛同せざるを得なくなった。


ダニエルは痛々しいほど自分の罪を認めている、ただそうだからといって彼女に許しを請う事自体も許されるとは限らないとマリアも理解していた。


彼の子供を生み育てているかもしれなくとも、すでに彼女には幸せな家庭がある。


そして彼の息子にもすでに愛する父親が他にいるのだ。


ダニエルもそれは痛感していた、だからこそ謝罪はしても彼女にも息子にも許しを請う事はしないと言う。


ただ遠縁という名目で息子に誕生日プレゼントを贈りたいと彼女宛てに手紙を送りたいのだと彼はマリアを窺うように話した。


「とてもいい案だと思うわ。勿論、貴方が血の繋がりのある父親だと言えるのが一番だけど……」


「勿論、それは無理だけどね。でもいいんだ、僕は彼に贈り物を考える楽しみが出来るし、彼が喜んでくれると思うだけで嬉しい。後は……クローイや彼女の夫が気を悪くしなければいいけれど」


 それはマリアにもわからなかった、自分に置き換えて想像してみる事も難しい。


過去にマリア自身もダグラスに裏切りを受けたと感じた事もあったが、恋人同士でもなかった自分がそれを感じるには少々筋違いという気もする。


彼女の夫だとて血の繋がった父親からのプレゼントに喜ぶ息子の顔を見るのは複雑かもしれない。


彼らの息子がそれを知っていなくとも、そう割り切れる事でもないだろう。


ダニエルが彼女を傷つけた過去を知っているのなら尚更、夫にとってダニエルは敵視してもいい存在であるには違いない。


 しかしマリアは努めて笑顔を作り友人を励ました。


今しがた彼がそうしてくれたように。


罪を背負い続ける覚悟をした彼を、今は自分だけでも応援したかった。


「大丈夫、貴方はこれまでとは違って新しい道を歩もうとしているんだから、そういう時に悪い事は起きないものよ」


 まさに自分はそうではなかったのをマリアは言葉にしなかった。


「ありがとう、マリア。君みたいな人に出会えた事が最初の幸運だ。何と言うか、あれ以来僕は女性に対して偏見を抱いていたから」


 最近では村でとれた野菜を多く口にするようになったお蔭か、ダニエルは最初に会った時より随分と見違えた。


輝くようなハンサムではないかもしれないが、しかし落ち着きのある素晴らしい紳士に見える。


若い頃はさぞかし近寄る女性が多かっただろう、恐らく彼がそんな彼女達に偏見を抱くようになったのも過去の過ち以来女性に対して見方が――彼自身が変わった所為だと考えられた。


マリアが思わず笑みを零すとダニエルは苦笑して肩を竦める。


「私もそうだったから気にしないで。さあ、今の内にスープを仕込んでおくわ」


 立ち上がったマリアにダニエルが歩み寄って来たのを見て視線を上げると神妙な顔と出会う。


「何?」


「君を抱き締めてもいいかな?許可を貰えると嬉しい」


 それに思わず噴き出しそうになってマリアはダニエルの腕を取った。


「友人と抱擁するのに許可は求めないものよ」


 それに笑顔になって伸ばして来た彼の腕にマリアは身を委ね、そして自らも腕を巻き付けて抱き締めた。


こうした心からの抱擁はいつ以来だったかと思う。


最後に抱き締めたホレーショーとは違った感触がして、しかしマリアはそれに安堵を覚えた。


「君は僕の大事な人だ、僕の暗い人生にも道がある事を示してくれた。避け続けるよりもずっと大変な道から僕は逃げていただけだった、そこにある僅かな光にも気付こうとしなかった」


「私もよ。でもそれは貴方自身の希望だと忘れないで、それに貴方はそれを掴める人だと思う」


 友人達はそうしてお互いを慰めるように励ますように、暫くの間何も言わず固く抱き合う。


やがて沈黙が破られた時、二人は同時に顔を上げた。


 突然鳴り響いた音はドアが大きく開かれ過ぎた所為で手前にあった棚に当たったものだと気付いたが、咄嗟に庇ったダニエルの背から顔を出したマリアは痛いほど息を飲み込んだ。


肩を大きく上下させたダグラスが開いたドアに手をかけたまま充血した目でこちらを睨むように見詰めている。


中腰のまま荒い呼吸を繰り返す彼はそのまま崩れ落ちそうで、マリアは慌てて駆け寄った。


「ダグラス!寝ていないと――きゃっ」


「マリア!」


 強く腕が引かれたと思った瞬間には熱の中に引き込まれ、マリアはダニエルの声で漸く顔を上げ自分がダグラスの腕の中にいる事を知る。


状況の意味を理解するより早く自分を抱き締める熱の高さに気付いて、腕の中でもがくがマリアを抱き締める腕は何故か更に強くなった。


そうこうしている内にもいつダグラスが倒れてしまうのではないかと気が気ではないマリアを他所にダグラスは真っ直ぐ前を見据えている。


その異様な雰囲気にマリアもとうとう動きを止めて唖然と彼の顔を見上げた。


「一体マリアに何をしていた!?」


 大きく叫んだダグラスの熱い息が頬にかかったのと同時にマリアはぎょっとして体を強張らせる。


彼の言う事こそ一体何を意味しているかわからなかった。


マリアはダニエルに乱暴をはたらかれていた訳でも意思を無視して触れられたのでもない、昔ダグラスともよく交わした抱擁をしていただけの事だ。


それなのにこれではまるでダニエルが暴漢扱いとも等しい物言いだった。


あまりの事に二の句が継げなかったマリアは漸くはっとして首を振る。


「ち、違うわダグラス、彼は――」


「彼女を騙して近付こうとしても無駄だぞ、そんな事は俺が、おれ、が」


「ダグラス!」


 がくりとダグラスの膝が折れ一身に体重を受けたマリアは懸命に支えながら悲鳴を上げる。


だが途中持ち直した彼は何を思ったか支えるマリアの手から逃れ、唖然としているダニエルにふらふらと歩み寄るとその胸倉を掴み上げた。


その行動に息を飲んだマリアに目を走らせ、ダニエルが両手を上げて抵抗はしないと示す。


少しでも熱に浮かされたような彼が正気に戻ればと思っての行動だったが、ダグラスにとってはそうは見えなかったらしい。


顔を高潮させたダグラスが拳を振り上げた時、マリアが駆け付けダニエルがその拳を押さえるよりも早く、彼の体は今度こそ力をなくしずるずると床に崩れていった。


マリアはとたんぎゅっと強く心臓が掴まれたような痛みを覚え、声を上げて駆け寄り顔を覗き込むと、高潮していた肌はすでに青白く冷めつつある。


「マリア、僕が運ぶから。君は彼の着替えを取って来てくれ。しっかりするんだよ、いいね?」


 ダニエルが彼の腕を取って肩に担ぐ様子を見守って、マリアは震える手を握り締めて何度も頷きキッチンを飛び出した。


訳がわからなくなったままダニエルが使っている部屋から手当たり次第に引き出しを漁って、マリアはどうしようと心の中で繰り返す。


 ――どうしよう、もしこのまま彼が……もし、何だと言うの?


マリアは両手で強く頬を叩いて漸く探り当てた着替えを持ち、向かいの部屋へと飛び込む。


すでにダグラスをベッドに横たわらせたダニエルはマリアに気を失う隙を与えず次々に指示を出し、そしてそれに従いながらマリアは着替えを済ませ薬を飲み込んでやっと落ち着いた彼の姿を前についに泣き出した。


ベッドに伏せて嗚咽を零すマリアの肩にダニエルの手がそっと触れる。


「夕食は僕が用意するから、今は彼についていてあげるといい」


 すでに自分でそれに頷いたどうかもわからなかった。









 いつの間にかうとうとしていたのだと気付いたのは、耳に届く声が夢の中ではないと知ったからだ。


はっと顔を上げると苦痛に耐えて眉根を寄せたダグラスの顔がある。


慌ててダニエルが用意したらしい枕に落ちていたタオルで彼の額に浮かぶ汗を拭くと、何やらもごもごと彼の唇が動く。


苦しいに違いない、そう思ってもっと冷やしたタオルを用意しようと立ち上がった時、マリアは自分を呼ぶ声に振り返った。


「マリー」


 ダグラスの声は酷く乾いて上擦っていたが、先程まで固く閉じていた目を開きマリアを呆然と見上げている。


「なあに?」


 体調はどうかとか食べたい物はあるかとか聞きたい事は山ほどあったが、マリアはそれらを咄嗟に無理矢理飲み込んで出来る限り穏やかに尋ねた。


また彼の体調には油断がならない、さっきのように彼を激昂させない為には慎重になるより他なかった。


改めて椅子に座り直し、ちらちらと揺れている彼の琥珀色の瞳を覗き込む。


そこにあの刺すような激情はなくてほっとした。


「マリー、ごめん……この頃あまり一緒に、遊べなくて。そんな顔を、しないで、……来週は先生がお休みだから、キャスリンにお弁当を作って、貰って、遊びに行こう……」


 熱を時折大きく吐き出しながらそう言ったダグラスにマリアは目を瞬く。


その言葉には覚えがあった、ダグラスが一層勉強に身を入れ出して家にも教師を呼ぶ事が多くなった頃だ。


マリアはそれがつまらなくていつもダグラスを困らせていた。


それを彼も憶えていたのかと思うも、「この頃」と言ったダグラスに眉を寄せる。


「ダグ、ラス?」


「本当だ、約束、する。だから、怒らないで、マリー……いつもみたいに、ダグって、呼んで」


 どういう事だろうかとマリアは不安に思いながらも、とにかく彼を動揺させない為に話を合わせる事にした。


きっと熱の所為で意識が混乱してしまっているのだと言い聞かせ、しかしマリア自身が動揺を感じる。


一体それこそ何年彼をそう呼んでいなかっただろう。


彼に相応しい大人の恋人になりたくて、マリアは自ら彼の幼い頃の呼び名を捨てていた。


そんな事は、何にもならなかったけれど。


「怒ってなんかいないわ、……ダグ。わかっているでしょう?」


 久しい呼び名を口にしてマリアは震えそうになる胸を押さえながら笑顔を作った。


昔はこうは言わなかったのを憶えている、彼を益々困らせるように唇を尖らせてそっぽを向いて見せたものだ。


そうすると彼は呆れたりも怒ったりもせず、マリアの関心を自分に向けようとしてくれた。


そしてそれが嬉しかったのだ、だから寂しいとは思っても怒った事は一度としてない。


 マリアの言葉を夢の中で聞いているようにぼんやりとしたダグラスはやがてゆっくりと小さく微笑んで頷く。


まるで心底安堵したように見えた。


「わかっている、君の事は、何でもわかっていたい。はあ……でも、僕は……」


 呟いた彼はだがとたんに目が覚めたようにはっと目を見開きマリアを見上げる。


力の抜けていた表情は見る見るうちに強張って、再び強い苦痛を感じたのかと思うほどだった。


無理矢理にでも何かを食べさせて薬を飲ませなければとマリアがまた立ち上がろうとすると、ベッドにかけていた手が痛いくらいに掴まれる。


触れられた肌が焼け爛れそうに熱かった。


「ダグラス……?」


「マリア、すまない、俺は……俺は何て事を」


 意味がわからず尋ねようとしたが、更に強く掴まれた手首に悲鳴を上げそうになってそれを必死で堪える。


ダグラスの目は焦点が合っていないようなのにも関わらず確かにマリアを認識しているようだ。


「ダグラス、落ち着いて。熱があるのよ」


「俺は君に不幸になって欲しくない、幸せになって欲しいんだ」


 起き上がろうとするダグラスを押し戻しながら、息継ぎもなくそう言われた言葉に目を瞬く。


突拍子もない事にマリアの頭は真っ白になり呆然とダグラスを見詰める。


確かに攫われたマリアを捜して来たのなら、攫った男に傷付けられているかもしれないと心配しても当然だろうが、しかしそうだとしてもこの言葉は抽象的過ぎた。


どう答えたものかとマリアが思案する間もなく、ダグラスの手が両腕に伸びて来てまた強く掴まれる。


苦痛を堪えるような彼の表情にこの状況を打破しようとするが、この切羽詰った空気に言葉が出て来なかった。


「俺にこんな事を言う資格がないのはわかっている。それでも、俺は――」


 ぎゅっと目を瞑ったダグラスは言葉を切ると大きく息を吐き出した。


明らかにさっきとは違う様子にマリアの混乱も大きくなる。


先程までは昔のような少年の口調で彼も途切れながらもそう言っていたというのに、熱に浮かされながらも力強く低い調子で話す彼は……。


「と、とにかく、横になって。ねえ、お願いだから、熱がもっと上がってしまうわ」


 混乱しながらも彼の肩を押さえてそう言うと、また視線をちらちらと彷徨わせたダグラスはぷつんと糸が切れたように目を閉じる。


やがて聞こえて来た寝息にマリアは浮かせた腰をどっと椅子に落として大きく息をついた。


寝入ってしまった様子のダグラスを確認して、ぐるぐると思考が渦巻く頭を抱えながらそっと立ち上がる。


ドアを閉める間際にダグラスの様子を慎重に窺ったが起きる気配はなかった。


 廊下を渡って左に行くとダニエルが読んでいた本から顔を上げてマリアを見る。


そしてその疲れた様子に驚いて立ち上がると歩み寄って来た。


「何かあったのかい?」


「いいえ、……その、彼が寝惚けて昔に戻ったみたいな事を言うから、ちょっと混乱してしまっただけ」


 椅子に座るとダニエルがすぐにスープ皿を差し出して来る、どうやら一人で仕上げたらしかった。


礼を言いながらそれを口にして、マリアは力ないままだったがその味を褒めた。


正面に座ったダニエルは組んだ両手をテーブルの上に置く。


「そういう症状を聞いた事がある。僕のお祖父様が熱でうなされた時、まるで子供時代に戻ったような事を言ったって。医者によると意識が混乱して記憶が退行する事があるらしい」


「そ、そういう事って、その、大丈夫なの?」


 とたんにマリアは喉がからからに渇いたような気がして急いでスープを口にした。


「ああ、一時的な事だから大丈夫だよ、頭がおかしくなっているという事じゃない」


 マリアがほっとして息をつくと、ダニエルは「でも」と続ける。


慌ててスープ皿から顔を上げたマリアはにやりと笑ったダニエルに首を傾げた。


「おかしくなっていないとも言えないんじゃないかな。僕を暴漢か何かと勘違いした彼の様子ときたら……」


「ご、ごめんなさい。きっと熱の所為で訳がわからなくなっていたんだわ。私が言うのも間違いだとは思うけど、彼が正気を取り戻すまでには時間が掛かりそうだから」


 ダニエルは笑って首を振り、肘をついたまま組んでいた両手に顎を置いた。


その様子に彼が気分を害したのではないと知って安堵したが、しかし面白そうな目で見られる理由もマリアにはわからなかった。


それとも有名だったダグラスがあんな醜態を見せてしまったのが意外だったんだろうかと思うも、ダニエルはそんな事で面白がったりはしないだろうとも感じる。


「君はちっともわかっていないんだな。彼は嫉妬したんだよ、君と抱き合っていたこの僕にね」


「まさか!」


 思うより早く口から言葉が飛び出て来て、あまりの早さにマリア自身も驚いた。


しかし彼はにこにことして首を振る。


「もう、変な事を言うのは止めて。私は子供だって相手にされてもいないし、彼には婚約をしようとしているお嬢様がいるって話したじゃない」


 全く性質の悪い冗談だとダニエルを咎めるように見たマリアは尖らせた唇にスプーンを持って行ってスープを口にする。


期待を持つ事はすまいとすでにマリアの心は決まっていた、今の自分には誰かに頼る事も必要だとわかってはいたがそれは真実を取り違える事ではない。


出口の見えないこのもう一つ想いに期待を抱く事で希望を見出せるかもしれないが、それは数年も昔にやり尽くし思い知った事だ。


今となっては滑稽なほどダグラスを追いかけて、けれど人生は意のままにならないのだと両親の死と共に痛感するには充分だった。


「言っただろう、男と言うのは単純な生き物だって。だから時として目の前の問題しか見えなくなってしまうんだよ。だから男は女性と違ってよくくよくよする、何もかも前にすら進めなくなるほど」


「私だって、本当は前に進んでいるとはとても言えないわ」


 少し視線を落としマリアは僅かに唇を噛んだ、もしそうであったのならこれほど慌てる事はなかっただろう。


両親の死を彼の姿に重ねて慌てふためくのは何も変わっていない証拠に思えた。


おまけにさっきから彼に触れられた手首が未だ熱を帯びるように疼いているのを必死に忘れようとしている滑稽さときたら――、マリアはまさしくくよくよしそうになってもう一度スープを口に運ぶ。


「けど彼だってそういう状態と言えなくはないかい?」


「……意味がわからない」


 なんだかもう自棄になって、マリアはまるで子供に戻ったようになってそう言った。


ダニエルもそれには驚いたようだったが、しかし予想に反して今まで以上に穏やか瞳で見詰められる。


比べたら年が全然違うというのに彼の目は娘を微笑ましく見詰める両親のそれによく似ていた。


「君は彼をとてつもない完璧な大人としてみているようだけど、一概にそう言えない部分も彼にはあるという事だよ。少なくとも僕はそう感じた。少し親近感すら覚えたよ、彼もやはり人並みの人間なんだってね」


「それはそうだろうけど……」


 そう言いながらもどこかそうではない事もマリアはわかっていた。


言われて初めて考えるとダグラスとて迷いもすれば間違いも犯すだろう。


自分がダグラスに頼らず大人になろうとして必死になっていた頃の姿と、無理をして夜遅くまで毎日勉強をしていた幼い頃の彼の姿が脳裏に重なる。


「君に彼の過ちを何でも許せと言っている訳じゃない。ただそういう事もある、恋は特に、昔から人の理性を奪うものだから」


 とんでもない事を聞いたような気がするが、マリアはぼんやりとしていて聞き返す事はしなかった。





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