18.嵐の日
ぐったりと横たわり眠り続ける彼には起きる気配がない。
時折額に浮かび出る汗を拭きながら、マリアはぐっと唇を噛んだ。
切羽詰ったダグラスの声とジョンの言った「過労」の言葉が蘇り、彼を今苦しめているのは自分の所為かと思うと居た堪れなくなる。
どうして、と自問しながら心のどこかではわかっていた。
ダグラスは昔のように自分を丸きり好ましく思わなくなった訳ではない、きっと心ではいつでも心配してくれていた。
ただそれを、自分が受け入れられなかっただけ。
彼とて忙しい日常を抱える身だった、それ故に昔のように出来なかった事もあっただろう。
理由がわからないまま不満を募らせ自分の非を認められない、あの頃の自分が脳裏を過ぎる。
弟妹に接する自分が昔のようにただ優しくなれなくなったのと、一体何が違うのか。
マリアはいつの間にか詰めていた息を吐き出した。
「……ダグラス?」
額からタオルを離したとたんぴくりとダグラスの唇が動いた気がして問い掛ける。
「マ、リー」
彼の罅割れ乾いた唇が掠れた声を吐き出す。
もういつからか呼ばれなくなってしまったその名にマリアは胸が締め付けられる思いがした。
そう呼ばれる度に彼が求めているのは昔の――ただ彼を兄とも慕った幼い頃の自分であると思い知らされる。
勝手なものだとマリアは思う、自分こそ昔のようにダグラスが優しく接してくれたらと願った事もあったというのに。
むしろ矛盾しているのは糸がぐちゃりと絡まったような自分の心の方だと感じた。
もう一度息を吐き出しマリアがタオルをまた冷やしに立ち上がったところで、ドアが叩かれる音に行き先を変えて表の方へ向かう。
さっきからゴロゴロと鳴り響いている雷は徐々に大きさを増し今にも雨が降るだろう。
そんな中一体誰が訪ねて来たのかと不思議に思ったが、ドアの向こうから顔を見せたその人にマリアはあらゆる意味で驚きを隠せなかった。
「ダニエル!一体どうして」
「エルマから事情を聞いたんだ、君の友人が来て病に臥せっているから男手が必要になるだろうって」
「と、とにかく入って」
開いたドアから一際大きく聞こえた雷に慌ててマリアが促すとダニエルが頷いて中に入り持っていた袋を持ち上げてみせる。
「今朝から子供達の所に行っていたんだ、そこにエルマが飛び込んで来てね。これ、雨が降るかもしれないと思って一応着替えを持って来ていたんだよ、役に立ってよかった。エルマからも貰って来たよ。ああでも、サイズが合うかな」
「大丈夫だと思うけど……ありがとう、来てくれて」
ダニエルは笑って首を振り、「僕にも役立てる事があって嬉しいよ」と言い切った。
自ら排他的に過ごして来たダニエルはそれまでを取り戻すように献身的な態度を見せている。
恐らくはこれが本来の彼の姿だろうと思い、マリアも笑顔で頷いた。
「それで、友人の様子はどうなんだい?」
「過労だから、ゆっくり休ませなさいってお医者様が」
「じゃあ君は嵐の間は足止めを食う訳だ。皆ほっとした事だろうな、尤も嵐の間は皆もそう遠くには出られない訳だけど」
皆と言うのが村人達や子供達の事だと察してマリアは複雑な笑みを返す。
確かに今ダグラスを放っておく事など出来なくなったが、それでもいつ追手がやって来るか不安が消えた訳ではない。
彼がこの場所を捜し当てる事が可能だったのなら、それはエスレムス達にも言える事だ。
むしろ迫る不安は余計に大きくなっている。
「まず彼を着替えさせないと。お湯を沸かして、タオルを用意してくれないか」
「ええ。よかった、貴方が来てくれて。着替えの事も思い付かなかったわ」
「流石エルマだろう?」
「ええ、流石エルマね」
すでに沸かしていたお湯で温めたタオルを手渡し、ダニエルの為にお茶を用意しようとマリアは新たにお湯を沸かす。
ダグラスの眠る部屋へと服とタオルを持って入って行ったダニエルは、やがて事を終えたのかマリアの元へと戻って来るなり脱力したように椅子へと深く腰を下ろした。
その様子に一体何事かとマリアがお茶を差し出しながら不安げな顔を向けると、彼は顔を上げ少し躊躇うようにして言う。
「君がダグラス=ボルジャーと友人だったとはね」
「彼を知っているの?」
驚いて声を上げたマリアはさっと奥の部屋に視線を走らせ慌てて口を噤むとダニエルの正面に腰を下ろし身を乗り出す。
息を吐き出しながら頷いたダニエルは何故か躊躇う表情をしたままだ。
「随分前の事だけれど、仕事で僕が当時に住んでいた国で、彼が父親について夜会に来ていた時に少し会った事がある」
「そうだったの……」
「少なくとも貿易品に関わった事がある人間ならボルジャー家を知らない者はいないよ」
その言葉に頷きながらも、マリアはダグラスとの距離を再び感じ視線を落とす。
幼い頃から彼は偉大な父親の後を継ぐべくひたすらとも言える姿勢で頑張っていた、その甲斐あってダグラスはこうして自分の地位を確立している。
自分の手には一体何が残っているだろうかと、マリアは両手に視線をやった。
「気付いた時には驚いたよ、社交界ではご婦人方が開いた口を扇で隠さなければならないほどのハンサムだろう?疲れていた事もあるんだろうけど、まるで別人のようだから。よほど仕事で忙しくしていると見える。確かに貴族であり実業家としても高名な父の後を継ぐには想像を絶するプレッシャーがあるだろうな」
「ええ……」
喉に何かの塊を押し込まれたような思いでマリアは漸くそれだけ言った。
それを押し流そうと自分の分のカップに口を付けてお茶を飲むが、塊は喉に根を張って流されまいとしている。
さっと脳裏に過ぎったダグラスの隣に並ぶ「王女様」を、今度は首を振って払う。
そわそわと何か落ち着かない気持ちで視線を彷徨わせ、自分を見ているダニエルの視線とかち合った時には醜態も構わず両手で顔を覆った。
「マリア、彼が君の幼馴染みなんだね?」
「ええ……ええ、そうよ」
ダニエルの長い溜息にマリアがそっと顔から手を外すと、彼はまるで叱られた子供のような顔でいる。
「すまない。どうして僕はこうなんだろう。君がいつになく取り乱している時点で、彼が特別な人なんだと察するべきだった」
今度はマリアの方が頼りない気持ちになってダニエルを見上げた。
「私、取り乱していた?」
「顔色だけ見たら君が病人だと思ったくらいだよ」
マリアは肩を落とし籠に入っているビスケットを差し出しながら言う。
「気にしないで。前にも言ったけど、彼に纏わる噂も聞いていない訳じゃないのよ」
ダニエルが言ったようにダグラスが女性の目を引くというのは今に限った話ではない。
縁遠い社交界の話であっても、ダグラスがカートライト家と親しくしていた事で村人達とも多少なり交流はあったのだから、どこからか耳にして来た村人達も当然よく彼の噂話をしていたものだ。
そしてマリアは好むとも好まざるとも、彼の話を耳にせざるを得なかった。
マリアの様子を窺うダニエルを促しつつビスケットをかじる。
そのほんのりした甘さを感じながら、ダグラスに食べさせるものは何がいいかと考え、思考を蝕もうとする何かを押しやった。
「けど……ああもう本当に自分が嫌になる」
ぐしゃぐしゃと髪を両手で掻き乱したダニエルにマリアは微笑んで首を振った。
「止めて。本当に気にする事なんかないんだから。そもそも彼とは身分も、何もかも違うわ。彼と親しくしていられたのも私達がお互いに子供だったから。そして私は彼に相応しいような王女様じゃ――」
ふと今忘れかけていた不安がどっと押し寄せて、マリアは両腕を擦る。
一体いつまで迫り来るかも知れないこの不安と対峙して行かければならないのかと途方に暮れてしまう。
今となってはどこかの村人でさえなく、あちこちの国を彷徨わなければならない浮浪者になるかもしれない。
弟妹が学校を卒業するまでにはまだ時間があるが、ただそれにも限界はある。
もしそれまでに自国に戻れないような事にでもなれば、弟妹の自立心を祈るしかなくなってしまうのだ。
大きく息をついたマリアを誤解したのか、ダニエルは同じように肩を落とす。
今まで避けて来た分一から人と接する術を学びたいと言っていた彼には慰めの言葉が思いつかないようだったが、マリアはむしろそれでいいと思った。
彼との距離が縮む事はあっても生涯隣に並ぶ事はない、それが現実だからだ。
「でも少し、僕の推測が正しい可能性が出て来たね」
「何の事?」
トンネルの出口を見つけたような顔でぱっと微笑んだダニエルにマリアは首を傾げた。
「以前に言っただろう、彼が君を避けたのは何か理由があると」
「ええ」
「もしかしたら彼が会社の事で君を巻き込むのを恐れたんじゃないかな」
「どういう事?」
とたん難しい顔をするダニエルにマリアは訳がわからなくなる。
ヘンリエットの家からエイブラハムが事業を継いだのは知っているが、正直なところマリアはその事については詳しく知らない。
幼い頃は父の後を継ごうと必死に勉強していたダグラスに強請って多少説明は聞いた気がする、しかしそれだけだ。
大体の仕事内容は知っていても、実際働き始めたダグラスがどう関わっているかなどは、聞ける機会も失ってしまった。
第一小さな村で農場を営んでいたマリアと彼の会社が結び付くとも思えない。
「D&F社にライバル社がいるのは周知の事実なんだけどね。……恐らくはそこの人間から危害を加えられた人間がいる。これは、本当に一部の人間しか知らない事なんだ」
意味がよく捉えられずマリアが眉を寄せるとダニエルは息を吐きながら両手を組んでテーブルに肘をついた。
次いで話し始めた彼の説明からマリアが理解出来た事はそう多くはない。
ダグラスの会社にはその事業を執拗に邪魔する会社が存在する事、恐らくはそのライバル会社の手によってダグラスの部下でもあり親しくしていた人間が「危害」を加えられた事、そしてそれはダニエルが当時手紙をやり取りしていた彼の従兄である事。
ダニエルは詳細を口にしなかったが、「危害」と口にした時僅かに顔の筋肉が引き攣ったのをマリアは見逃さなかった。
耳から入れた情報を頭の中で整理しようとするも、やはりダニエルの言った通り冷静ではない状態だからなのか、ごちゃごちゃと様々な物が溢れ出て来てしまう。
ざわつく気持ちを抑えようと忙しなくお茶を飲んだり視線を彷徨わせたが上手くはいかなかった。
「君の話から湧いた疑問が糸で結ばれた気がするよ」
「私にはわからないわ」
一人頷くダニエルにマリアが肩を落とすと慌ててビスケットの入った籠が差し出される。
「これを食べて落ち着くんだ、マリア。君はこれから彼の看病をしなければならないだろう?しっかり食べないと」
「そうね。つい両親の事を思い出してしまって、彼がこのまま――」
「マリア、大丈夫だ。君もさっきそう言ったよ」
マリアはそれに頷いて冷や汗をかきそうな顔を一度手で拭う。
「心配する事はないよ。きっと彼は君が思う以上に君が大切なんだから」
「どうして?」
ついには泣いてしまいそうな顔で見上げたマリアにダニエルは微笑んだ。
苦労を重ねた所為か実年齢より随分しっかりして見えるマリアが年相応に、それ以上に幼く見えて彼はほっとする。
「そう難しい話じゃないさ。彼はあれ以来近しい者を傍には置かなくなったようだから。マリア、きっと彼は君も僕の従兄みたいになるんじゃないかと危惧して距離を置いた気がするんだ」
納得したように言われてもマリアは思考が纏まらずただ頷き、ダニエルもそれを察したように口を閉ざす。
そうしていると椅子に座っていた二人を飛び上がらせるような衝撃が起きて、二人は咄嗟に顔を見合わせるなり家中の窓に駆け寄って雨戸を閉めた。
さきほどまでパラパラと屋根を叩いていた雨は今や押し潰す勢いで降り出している。
「大変!ダニエル、貴方宿に戻れなくなってしまうわ」
「こんなに降るとは思わなかった……。僕の国じゃ嵐なんて滅多に来ないから」
「暢気な事を言っている場合じゃないのよ。一度降ってしまったら最低でも三日はこの調子で降り続くってエルマが言っていたわ」
「まあ何とかなるよ、橋の反対側に宿屋があったはずだろう?」
マリアは何とも暢気なその言葉に脱力して首を振る。
この時期に村で宿は営業していないし、そもそもダニエルのように街から来ている人間自体が稀だ。
勿論掛け合えば店主は快く宿を開けてくれるだろうが、この雨では道も川と成り果てているだろう。
「もう少し雨が治まるまではここに泊まって。使っていない部屋があるし、食料も間に合うわ」
嵐が治まってから出て行く時の為に保存食は山と作ってある。
エルマが家に飛び込んで来るまではそれをエルマに使って貰おうと考えていたが、ある意味でこれ以上なく役に立った。
「けど」
「けどはなしよ。それに貴方がいてくれると助かるわ、彼がよくなるまで着替えを手伝って欲しいの」
ダニエルはあちこち視線を彷徨わせたが、やがて諦めたように頷く。
「心配しなくても大丈夫よ。ここは社交場じゃないし、貴方と私が病人を看病するのに二人で家に篭っていても誰も気にしないわ。第一、この嵐じゃ皆確かめる為に家の外には出て来ないでしょう」
「それもそうだ。少なくともエルマはそのつもりだったんだろうな。僕の着替えも入っているからって服を渡されたんだよ」
苦笑したダニエルにマリアも漸く笑い声を立てる。
「奥の右側の部屋が空いているから、好きなように使って。一番目の引き出しにシーツが入っているわ」
この家はエルマの友人や親戚が泊まりに来た時の為に使っていたらしい、マリアがここへ来た時にも全てがすっかり整えられていたところを見るとエルマは友人達の来訪をいつでも迎えられるようにしている。
ダニエルが頷いて奥に行くのを見送りながら、エルマには世話になり通しだとマリアは息をついた。
野菜籠からにんじんとたまねぎを取り出して薄切りにしながら、エルマに喜ばれる物は何かないかと思考する。
時折ダグラスが息をしているか確認したい衝動に発作の如く駆られたが、ぐっとそれを堪えて思考に集中しスープ作りを進めた。
そうしていると戻って来たダニエルが隣に立ち、マリアは驚いて見上げる。
「何か手伝わせて欲しい。それは何?僕にも作れる?両親の許に行ったら披露出来るかな」
「ご両親に作ってあげたいの?」
照れ臭そうに微笑んだダニエルにマリアは微笑んだ。
子供達が両親について語る様を見ていて、すっかり会いたくて堪らなくなったらしい。
そしてそれはマリアも同じだった、もし今すぐにでも帰ろうと思ったのなら旅費以外の余った資金を弟妹が喜ぶプレゼントの為にどう使おうかあれこれ考えた事だろう。
マリアはまだ切っていなかったにんじんをダニエルに差し出して少し眉を上げてみせる。
「私の教育は厳しいわ、知っているでしょう?」
「勿論。マリア先生は失敗に優しいが、規則破りには厳しいって子供達が震えていた」
「まあ、あの子達ったらそんな事を」
やがてくすくすとお互いに笑い出してから、キッチンに並んでスープの支度を整えていく。
保存していた以外の野菜から順に使って、どれくらいこの雨が続くかはわからないが当面は間に合う量だ。
その間にダグラスが体調を回復しないとも限らない、しかし起き出してからもスープなどの流し込める物を飲ませるだけの日々は少し続くだろう。
マリアはにんじんとたまねぎのスープを煮込んでいる間、好奇心も旺盛に挑戦意欲を見せたダニエルに次は野菜プディングの作り方を指導した。
野菜の煮汁を練り粉に加える時に二度ほど火傷をしたが、彼はまずまずいい生徒だった。
時折マリアの視線が奥の部屋の方へと注がれるのに彼の言葉はなく、それを有り難く思う。
例えばこれがジャンフランコだったらと思うと苦笑が零れた。
彼ならきっと今のこのマリアの状態をよしとはせず、もしかしたら……しなくとも、ダグラスを強引に叩き起こす事はしそうだ。
彼にって「妹」を困らせるものは全て敵なのだ。
その点で言うならダニエルは非常にいい友人だと感じ、改めて出会いに感謝する。
もしこの状況の中一人でいたらと考えると耐えられそうにはなかった。
「美味しそうだ。彼の目が覚めないのが残念だな」
マリアの様子を察してかダグラスの様子を見て戻って来たダニエルがそう肩を竦めると、マリアは落ち着かない気持ちを抑えながら頷いて持っていたスープ皿をテーブルに置いた。
風が横に吹き付けて来たのか、玄関のドアがドドッと音を立てる。
「吹き飛ばされないように何か立て掛けておこう」
「ええ、ありがとう」
ダニエルが奥の部屋からキャビネットを抱えて来たのに端を持って手伝いながら、立て掛けたキャビネットがガタガタと揺れる様子に大きく溜息をつく。
「本当に吹き飛ばされなければいいけど」
「それは神のみぞ知る、だね。さあ食べよう、彼に薬も飲ませなくちゃならないんだろう?」
部屋に戻って夕食を囲み、マリアはダニエルと談笑しながらもやはり落ち着かなかった。
この気分をどう言っていいのかもわからず、そしてどうしてこんな気持ちになるのかもわからなかった。
彼の顔を見て呼吸を確かめたいのに、彼の顔を再び見る事に何かの不安を覚えている。
しかしそうしてダニエルに彼の全てを任せる訳にはいかない。
ダグラスを恐れてでもいるようだと、マリアは嫌な気分になった。
「プディングと言えばお祖母様の家でクリスマスに出されたものしか食べた事はなかったけど、とても美味しかったな」
「上手く出来たわね。貴方は器用だから、きっと覚えれば何でも作れるようになるわ」
「そうかな。でも母の侍女が凄く煩いから、及第点を貰えるように頑張るよ」
少しの間その侍女の話を聞いて、マリアは漸く意を決して立ち上がる。
胸騒ぎが鼓動まで速くして不自然に手が震えそうになるのをじっと堪えた。
「彼に薬を飲ませて来るわ」
「ああ、ここは僕が片付けておくよ」
マリアが断ろうとする前に笑顔で請け負ったダニエルは皿を持って立ち上がる。
「じゃあ、お願いね」
「もし彼の着替えがまた必要だったら呼んでくれ。エルマから貰った着替えはまだあるから」
それに頷いてマリアはとうとうダグラスの休む部屋へと足を踏み出す。
待ち構えているのは怪物などではなく、自分を捜しに来てくれた幼馴染みだというのに何がこんなに怖いのだろう?
マリアはドアの前でゆっくりと息を吐き、ドアノブにそっと手を掛けて開く。
ベッドに歩み寄るとダグラスは随分落ち着いた呼吸で眠っていた。
ただダニエルが言った通り、目の辺りが落ち窪んでくまが出来髭が伸び始めている彼の姿は、マリアにとっても別人のように彼を豹変させている。
どっしりと胸に重たい物を乗せられたような気持ちで、マリアはサイドボードの上に置いた小瓶を取って茶色の液体をスプーンに流した。
そっとダグラスの首の後ろに手をやって持ち上げると、微かに開いた彼の唇へと薬を流し込む。
入って来た異物を確かめるように唇を擦り合わせたダグラスの喉がやがて上下に動いたのを見届けて、頭をそっと枕に戻しシーツを方まで引き上げた。
薬の隣に置いてあったタオルでもう一度彼の顔や首筋を拭くと、マリアはただじっとその顔を見詰める。
すでに轟音となった雨は止む事無く降り続いているが、耳は彼の呼吸を聞き漏らさずにいた。