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18/31

17.飛び込んで来た熱

 びしょ濡れになったエルマが体を拭くのを手伝いながら、マリアは温めていたスープを差し出した。 


「わざわざ来てくれてありがとう。でもエルマが風邪でもひいたらと思うと」


 言いかけたマリアの言葉を彼女の大きな笑い声が遮る。


未だ降り続ける雨の音も聞こえなくなってしまって、マリアは目を瞬きつられて笑った。


「生まれてこのかた、風邪なんて大層なもんになった事はありゃしないよ!子供の頃はこの雨の時期になると外で水浴びして来いって外に放り出されたもんだ」


「それでエルマはいつも元気なのね」


「そうともさ。ああそれより、屋根の方はどうだい」


「ええ、お蔭様で雨が落ちて来なくなったわ。皆さんの分も用意したかったんだけど」


「いいよいいよ、あいつらは一仕事終えた顔でさっさと酒場に直行だ」


 一通り体を拭き終えてスープを口にしたエルマにマリアが微笑む。


ここ三日ほど止む事無く降り続けている雨に傷んだ屋根から雨漏りがするようになったのだが、見回りに来た村の住人達の手によって今はすっかり直っている。


村では若い者が働きに出ていて中年以降の人達しかいなくとも、エルマのように皆若い者には負けないとばかりに元気だ。


「美味いねえ。うちにもマシな息子でもいればあんたを嫁に貰うんだけど」


「そ、そんな事……」


「でもあんた、いずれはここを出て行くんだろ?」


 それを告げた事はなかったが、確信しているエルマの目からは逃れられずマリアは頷いた。


「今じゃ皆すっかりあんたを気に入ってる。ここならあんたがやり過ごす事も出来ると思うんだけど、そうも言ってられない事情がありそうだからね。元はトム爺さんの紹介だって聞かされた日には一体何の冗談かと思ったもんだよ。あの偏屈な爺さんがこんな若い子と知り合うなんてさ」


「彼にもとても親切にして頂いたの」


「うん、まあ、悪い人じゃあないんだけどね。木に関してあの人の右に出る者はいないよ」


 無意味にスープ皿を掻き混ぜた手を止め、エルマが顔一杯に微笑む。


日に焼けた彼女のそんな表情は畑の脇に植えられている夏の花のようだった。


「どこへ行くかは決まっているのかい?」


「隣の国へ行こうと思っているの」


「ああ、隣も大抵は気候が穏やかだし、いい所だって聞くね。ただ頼むから、黙って姿を消すような真似はしないでおくれよ?」


「勿論よ、向こうからも必ず手紙を書くわ。こんなによくして貰ってお返し出来る物が何もないのが心苦しいくらいだけど」


 それにエルマは再び笑って首を振る。


「そんな事はいいんだよ。あんたにやってる分は確かにあんたがしっかり働いた報酬さ。実は少しばかり心配していたんだよ、何せあんたは細っこいからね、そんな棒切れみたいな体で畑仕事が勤まるのかって」


 マリアも声を上げて笑い、家が農場であった事をエルマに告げた。


今更ながら何の事情も告げずにやって来た見ず知らずの娘を雇ってくれたエルマにも村の人々にもマリアは深く感謝する。


不幸に見舞われたと思っていたが、幸運は確かにその中にもあった。


今振り返れば、苦しいと思っていた時期にも確かにそれはあった事がわかる。


そしてそれを感じられるほどには成長出来たのだとマリアは思いたかった。


「もう少しすれば本格的に嵐が来る。あとはこの先に向けて体を休めるといいよ、残りの収穫も少しだからね。あんたはここに来てから本当によくやってくれた。きっとあんたならどこへ行っても大丈夫だと、私は思うよ」


 大きく頷いたエルマがスープを飲み干す間、マリアは横を向いてそっと目元に滲んだ涙を払う。


「そういえば、ダニーの事はどうするんだい?彼も一緒に行くのかい?」


 彼女の言葉にぎょっとしてマリアは慌てて首を振った。


エルマがどうも勘違いをしているのはわかっていたが、それも冗談半分だと思っていただけにそんな事を言われるなどとは考えてもいなかった。


確かにダニエルも嵐の時期が過ぎたらこの国を出て行く事は話していた、まさかそれを連れ立って行くと解釈されているとは。


「違うのよエルマ、彼は両親の許へ行くの。私達は……本当にいい友達なのよ」


「そうなのかい?私達はてっきり……ヒルダはあんたとダニーがいい仲だと思って息子を紹介するのを諦めたんだ」


 そんな事態にならなくてよかったと、マリアは密かにダニエルに向かって心底感謝を捧げた。


過去に傷を負ったダニエルには話せても、この全く裏表のないエルマには話せそうにない。


別れが近付いているからこそ、自分の為にこの笑顔を一瞬でも曇らせたくはなかった。


それに同じ女性として男性不信などと聞けばエルマが黙っていられない事は目に見えている。


 マリアは立ち上がって籠に入れたパンをエルマに差し出しながら微笑む。


「私、今結婚とかは考えていないの。もっと勉強して、隣の村の子供達みたいにちゃんとした学校へ行けない子供達の為に少しでも何かを教えられたらと思う」


「あんたはいい先生だって、子供達も自慢してたしね」


 はにかんだマリアに対しそう言ったエルマは、しかしやがて神妙な顔をマリアに向けた。


「私もねえ、ただ年を食っているんじゃないから、誰かいい人を見つけて一緒になれなんて事は急かさないよ。今は女も働く時代さ」


「エルマ……」


「ただマーリィ、あんたがそういう目標を見つけているみたいでよかった。向かうところのない人生は、後で少々物足りなく感じ出すもんだからね」


 マリアはテーブルを回り込んでエルマの首に両腕を巻き付け強く抱き締める。


すぐに抱き締め返してくれたエルマの柔らかな体に包まれ、すでに懐かしい安心感を覚えた。


「そうそう、明日には雨も止むだろうから、この間言ってた籠の編み方を教えてやろう。まあ何かの役には立つだろうから」


「ありがとう、エルマの籠に入れてあるパンはいつもよりずっと美味しそうに見えるもの、この先も大いに役立つわ。でも雨は止むの?」


 とてもそうは思えないとマリアが窓の方を見ると、エルマは体を揺らして大きく笑う。


彼女によれば雲の色と風の強さ、そして風に乗せられて来る植物の匂いでわかるらしかった。


それも教えてと言ったマリアにエルマは満足そうに頷いて、様々な雲の形の事から語り始めた。









 翌日には雨の止んだ空を見上げ、マリアはエルマの語った雲の形を確かめる。


これを知っていれば農場での仕事にも役立つに違いないと考え緩く首を振った、もうカートライト農場はないのだ。


数件離れた家で牛の世話を終えすっかり慣れた道を歩きながら不思議な思いにとらわれた。


あれほど他に生きる場所はないと思っていた土地から離れ、比べてほんの少ししか過ごしていない場所に慣れている。


これから行く先、まだ見ぬ土地でもそうだろうかと思いながら、しかし脳裏に浮かぶのはいつだって今まで過ごしたあの村での事だ。


ここの村よりずっと小さくて、けれど同じように気持ちのいい人ばかりで、そして同じ空が上にある。


雨の匂いが混じる風に身を任せ、マリアは目を閉じて空気を感じた。


耳を澄ませばいつもの声が聞こえて来そうだ。


明るい妹の声とそれを追いかける弟の困ったような声、両親の笑い声、そしてダグラスが自分を呼ぶ声。


いつかそれに近いものを取り戻せる日が来るといい、この空も風も、世界がいつもと同じように。


マリアは目を開けて裾に付いていた藁を払い、しっかりとした足取りで歩き出す。


 エルマによれば嵐はもう明日にでも来ておかしくはない、この時期に一度だけ出る船に乗るべきか否か今日中に決意を固めなければならなかった。


いつまでこんな生活が続くかわからないが、ふとこのままここに潜んでいても見付からないかもしれないという考えを打ち払う。


慣れた環境に留まりたいという思いは周囲を見えなくする、また同じ事を繰り返す気かとマリアは少し足早になった。


やはり早々にここを立ち去るべきだった、どれだけここが居心地よくても。


船旅に備えて時刻などは調べてある、遠い三軒隣の一番上の息子が働いていると紹介して貰いいつでも船に乗り込む事も出来る。


今夜中に村を出る方がいいかもしれない、マリアは口実を探してこの村に留まろうとする気持ちを感じて強く心の中で言い聞かせた。


 収穫が終わりここ数日雨に打たれてすっかり下を向いてしまっている作物の間を潜り家へと戻る。


村人達がそれぞれ使わない家具を持ち込んでくれた部屋を見渡して苦笑が零れた。


帰って来てほっとしている自分がいる、昔から住んだ自分の部屋と同じようにこの部屋にはすでに安らぎがあった。


ここを去ってまた新しい場所でも同じように思えるだろうかと考え、ぐっと拳を握りマリアはジュリアから貰った小さなトランクに少ない服などを詰め込んだ。


 あっという間に済んでしまった作業に手持ち無沙汰になると、そわそわと辺りを見回して今度は村人と子供達、そしてダニエルに向けた手紙を書いておこうとテーブルに向かう。


子供達にはマリアがそう長くは村にいられない事をすでに話してあったが、やはり突然姿を消してしまえば泣かれてしまうだろうなと少し肩が落ちた。


だがここの子供達はマリアの幼い頃やクリスティアやキャサリンよりもずっと逞しいと感じる。


町に出て働きあまり家に帰らない両親でも文句らしい文句も言わず、それが当たり前のものとして皆支え合い強く生活している。


だからこそ今までの自分がどれだけ甘やかされていたのか、そして弟妹をどれだけ甘やかしていたのか痛感した。


ここには文句や反抗の甘えが許されるほどの生活はない。


今の弟妹よりずっと幼い子供達でさえ早く大人になって両親のように働きに出るのだと言う言葉には頭が下がる。


まるで大きな夢を語るような子供達の顔を思い浮かべマリアは自分を叱咤した。


弱い自分はいる、それでもそれを抱えて進まなければならない。


「私にだって、大きな夢があるわ」


 マリアはそう呟いて、それを子供達に話せなかった事を残念に思った。


けれど別れ際に子供達の泣き顔などを見る事になってしまえばきっとここを出て行けなくなるとも考えてしまう。


大きく息を吐き出し、マリアはお茶の支度をしようと立ち上がった。


何か口に入れてこの口から出てしまいそうな繰り言を腹の中に流してしまいたかった。


「マーリィ!」


 すると突然ノックと共に切羽詰った声を潜めたエルマが部屋に飛び込んで来たのに驚いて振り向く。


肩を上下させ落ち着かない様子のエルマはマリアに歩み寄ってその両肩を強く掴んだ。


ひやりとしたものが体の中心に落ちるのを感じながら、それでも努めて冷静にマリアは言う。


「エルマ、何かあったの?」


「マーリィ、さっき人を探しているという男が家に来た、誰とは言わなかったがね。私の知ってる男の名前を出して来たんだ、信用の出来る男だがあいつは少々弱いところがあってね」


 マリアは大きく震えそうになる体をぐっと堪え、細く長く詰めていた息を吐き出す。


エルマの家はここからそう遠くはない、エルマの元に先に訪ねたという事はマリアの居場所を具体的に突き止めた訳ではないだろうが、もしその人探しをしているという男がエスレムスの差し向けた誰かだとしたら見付かるのも時間の問題だ。


ここに来たエルマがつけられていたらと気付き、マリアはさっと窓の方に目を向けてからエルマの肩を引き寄せて部屋の奥へと移動する。


「どんな人だった?」


「よく顔を見ていなかった。金の髪だったよ、それに随分いい身形をしていた」


「め、目の色は?グリーンではなかった?」


「いや……この辺じゃ珍しい色だから、それなら憶えていると思うよ」


 エスレムス本人ではなさそうだとマリアは僅かにほっとしたが体が痛いほどに緊張する。


「ああ、すまない、名前だけでも聞けばよかったよ、すっかりあんたの事だと思って動転しちまって」


「エルマ、いいのよ」


「あんた、やっぱり誰かから逃げてるんだね?トム爺さんからあんたの事は他所で言い触らさないようにって言付けられているって聞いて、そうなんじゃないかって……誰もそんな事は言いやしなかったけど」


「ごめんなさい……」


 当初はこれほどまで村人達が打ち解けてくれるとは思わなかった、しかしそうでなくとも己の居場所が知れれば村人達が危険に晒されるともっと深刻に考えるべきだったのだ。


ぐっと唇を噛んで俯いたマリアにエルマが慌ててその両肩を擦る。


「責めてるんじゃないよ。私達の事は構いやしないさ、あんた一人匿ったところで誰にも文句は言わせない。町の保安官に相談はしたのかい?あの男はそういうようには見えなかったんだが」


「もしかしたら私を追っている人の知人に保安官がいるかと思って……。話せなくて本当にごめんなさい、でも信じて、私は犯罪者ではないの」


「わかってる、そんな事はわかってるよ。犯罪を犯すような人間が隣村まで走って一人暮らしの爺さんの面倒を見に行くなんて出来るもんか。それにそんな人間にそもそもトム爺さんが手を貸すような真似はしないよ」


 マリアはとうとうぶるぶると震え、目から涙が零れるのを堪え切れなくなった。


ぎゅっと自分を抱き締めて来る温かな腕の中でマリアはごしごしと腕で涙を拭い奥歯を噛み締めて顔を上げる。


「エルマはここにいて」


「マーリィ、何をするつもりだい!」


「外の様子を見て来るわ。もし私の追手なら、ここから出て村の橋を落としてくれるようにハーリーに言って」


「けど……」


 身を乗り出すエルマにマリアは強く首を振った。


「大丈夫、橋さえ落とせば町に行くのに時間は稼げるし、その間に私は何とか逃げるから。本当にごめんなさいエルマ、万が一の時にはそこのトランクに入っているドレスを売って使ってね、今まで本当にありがとう」


「マーリィ!」


 殆ど悲鳴のような声を上げたエルマを押しやり、マリアは駆け寄って震える手でドアを開ける。


そっと身を滑り込ませるように外へ出てエルマが追って来れないように後ろ手でドアを押さえ畑に囲まれた外を窺った。


ドクドクと胸を突き破りそうな鼓動があっという間に全身を打ち、張り詰めた神経は今にも途切れそうだ。


ドアのすぐ向こうに追手が潜んでいる訳ではないようだが、とにかくこの場から出来る限り遠くへ離れなくてはと視線を道へ走らせた瞬間、脳に大きな「音」が響きはっと顔を上げる。


 それが自分の名を呼ぶ「声」だったのだと理解した時には体に衝撃を受け強い力に覆われていた。


「マリア、マリア、よかった、無事で――本当に、嗚呼神よ!」


 まるで最後の糸が切れたようにマリアは真っ白になった頭でその声を聞く。


もう何年も聞いていなかったとすら感じる、懐かしい声だった。


縋り付くようなその体は焼け焦げそうなほどの熱を放っていて、自分の体に巻き付けられたのがその人の腕だと徐々に理解する。


そして何もかもがマリアを混乱の渦に叩き落した。


いるはずもない人がここにいる、聞くにも悲痛な声を上げている、どうしてとただ困惑してしまう。


自分の頭がおかしくなったのかと恐る恐る顔を上げて見るも、そこには疲れ果てた顔を強張らせたダグラスがいた。


「ダグラス……一体どうして、ここに」


 訳もわからず漸くマリアがそう口にして痛いほどの腕から距離を置こうとすると、見慣れていたはずの琥珀色の瞳が更に深みを増したようにマリアを突き刺す。


「捜したんだ、ずっと捜していたんだマリア、君を、ずっとだ!」


 強く抱き締めてくる腕の強さにも体の熱にも負けない激しさで叫んだダグラスにマリアは絶句した。


――捜していた?ずっと?


頭の中でそう反芻するも思考が纏まらず意味が理解出来ない。


 ただそうしている内に息を切らしたようなダグラスの顔色が段々と冷め始めたのを目にする。


一瞬で上気した肌は青白くくすみ、こけた頬はまるで別人のようだ。


「マリ、ア……マリー……」


 不意に体に巻き付いていた腕の力が抜けて行き、ずるずると少しずつ崩れ落ちるダグラスの体を慌てて支えるも、覗き込んだダグラスはただうっすらと目を開け苦しそうに荒い呼吸を繰り返すばかりでぐったりと地面に落ちる。


「ダグラス!ダグラスッ!」


 肩を揺さ振ってマリアが叫んでもゆっくりと目を伏せてしまったダグラスにはすでに届いていないようだった。


「マーリィ!?一体どうしたんだい!?」


 マリアが離れたドアから出て駆け付けたエルマが地面にぐったりと横たわった男を見てぎょっとした。


「こ、この男だよ、人を捜しているって言って来たのは」


「私の友人なの、お願いエルマ、手を貸して」


「友人だって?」


 エルマと共にダグラスの腕を肩に置き、その体を引き摺って何とかベッドへ寝かせる。


ぞっとするほど白い顔にマリアは慌てて薬を探そうと戸棚を掻き回した。


「待ってな、今ジョンを呼んで来るよ」


 出て行ったエルマを見送ってマリアは水に濡らしたタオルでダグラスの顔に付いた土を拭き取った。


このまま死んでしまうのではないかと、そればかりが頭の中を駆け巡る。


すでに棺の中に入った両親もこんな肌の色をしていた、それを思い出してマリアは掛けたシーツの中からダグラスの手を引き摺り出し強く握る。


固まったようなその硬い手の感触にマリアは自分の手が震えている事に気が付いた。


そして何度もダグラスの上下する胸を確認する。


「どうしてなの……?」


 マリアは喘ぐようにそう呟いて熱くなった目頭をダグラスの手の甲に押し付けた。


捜していたというダグラスの言葉が蘇り、無意識に強く唇を噛む。


 こんな事は考えもしていなかった、こんな遠い場所にまで彼自らが赴いて自分を捜しに来るなどと。


この場所を捜し当てるのにも随分時間が必要だったはずだ、彼の言った「ずっと」はそういう意味なのだろうかとマリアは思考が渦巻く頭をゆっくりと上げ再びダグラスを見やる。


時折汗が浮かぶ額や首筋を何度も拭き、マリアは乱れたダグラスの髪を後ろに撫で付けた。


少なくとも数日前から体調は悪かったはずだ、それでも確信もなく彼はマリアを捜しにここへやって来た。


それだけは疑いようもない事実だった。


 やがてすでに引退しているが周囲の村の簡単な医療を一手に引き受けるジョンを連れて戻ったエルマはまた何やら慌しく家を飛び出して行き、マリアはダグラスをジョンが診察する間息を詰めて見守った。


腰を折り曲げたままで椅子に座り処置を終えたジョンが振り返るとマリアの顔を見やって溜息をつく。


それにびくりと体を揺らしたマリアにジョンは皺だらけの顔を可笑しげに歪ませた。


「そう心配しなさんな。寝不足、食欲不振、心的ストレス」


「え?」


「見るに、過労だな。どうせ嵐が来る、その間ベッドでゆっくり休ませてやるといい。尤も、この調子じゃ動こうにも動けんと思うがね」


 頷きながら言ったジョンにマリアは腰を抜かし、朗らかなジョンの笑い声を背に部屋の隅のトランクまで這って行くと中からドレスを取り出し裾に付いた宝石の一つを引き千切った。


羞恥も感じないままジョンの元へ戻って鞄を手に立ち上がったジョンへとそれを差し出す。


ジョンは床に座った形のままのマリアが上げた手の中の宝石を見て僅かに眉を上げた。


「要らんよ。釣りはないんでね」


「でも、いいんです、受け取って下さい」


「嬢ちゃん、わしはその手の物は受け取らん事にしている。宝石は魔物を呼ぶ、聞いた事はないかね?」


「いいえ……でも私これしか今は持ち合わせがないんです。お金はいずれ船に乗る為に使ってしまっていて」


「なら要らんよ。時に、あんたはデリックからも同じように言われたはずだが、何故受け取らなかったね?」


 突然の言葉にマリアは「デリック」なる人物を頭の中で探し、それがエルマも言っていた一人暮らしの老人だったと思い出す。


妻を亡くし数年前から一人暮らしだったデリックは周辺の家の人が時折様子を見ていたが、彼が腰を痛めたと聞いてマリアは仕事を追えた足で数日間彼の元へ看病に通っていた。


ただそれは彼が子供達の為に使い古した本を贈ってくれたからこそわかった事だ、そしてその礼を伝える好機であったとも言える。


「それとこれとは違います」


「大して違わんよ、少なくとも奴はそう思っておらん。歩けるようになるまで近くもない道を何度も通ってくれたんだと、何度も自慢を聞かされた」


「でも……」


「代金は奴からすでに貰っている。何かあれば診てやってくれとな。全く、わしなんぞ役に立たないのが一番だと言うのに。まあこうして嬢ちゃんのいい人の役には立った、そうだね?」


「……ありがとうございます」


 ジョンはただ首を振って開けた鞄から小さな小瓶を二つ取り出しテーブルに並べた。


「見たところ身分が高い人だろう?落ち着いたら担当の医者がいるだろうから診せるといい。ただ医者を呼ぼうにも暫く足止めを食うだろう、……嵐が来たからね。さて、わしはもう行くよ。小さい方は食後、細長い方は寝る前に飲ませてやるといい」


 再び礼を言ってジョンを玄関先で見送ったマリアは恐ろしく長い息をつきベッドの脇の椅子に崩れるようにして腰を下ろした。


ジョンが言った通り窓の外を見れば今までとは格段に違う黒く重たそうな雲が空を覆っている。


確かにこれからダグラスの泊まっているだろうホテルを調べて医者に来て貰うのは時間が足りないようだ。


幾分落ち着きを取り戻したダグラスの呼吸に耳を澄ませ、マリアは安堵の息をつきそうになるのを奥歯を噛んで堪えた。


訳もわからず、泣き叫びそうだった。





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