16.それだけのこと
少しの間二人は何を言うでもなくグラスを傾けていたが、カウンターから少し身を乗り出して「女嫌いのダニエルが珍しい」とジュリアが目を丸くして言うと、取り繕うような彼の表情が僅かに崩れた。
そして無邪気な様子で彼女が酒を注ぎにカウンターから出て行って、ダニエルは手にしていたグラスの中へと溜息を零す。
「彼女の言った通りだ。だからさっき君にもあんな事を言ってしまった」
「気にしていないわ」
確かに彼に好意を持っていたのなら多少なり傷付いたかもしれないが、そもそもそんな事を言うような人物でなければ自分はさっさとここを出て行ったに違いないとマリアは思う。
彼の放つ独特の距離感はジャンフランコを思い出させる、一定以上は決して己の中に踏み込ませまいと硬い殻に包まれているのだ。
自分もわかる人から見たらそうなのだろうかと、マリアは少々複雑な思いに陥る。
「少し、話をしても構わないだろうか。君の気分が悪くなるようなら、僕はここを出て行くから」
唐突な言葉にマリアは少し間を置いてから頷く、まるで独り言のようなその口調に重要な意見を求められるとは思わなかった。
やがてダニエルはグラスを二三度傾けてから、とたんに重くなってしまったような口を開く。
「もう十年ほど前だろうか、その時僕には恋人がいた。クローイは燃えるような赤毛で、とてもチャーミングな人だったんだ」
カウンターの奥を見詰め彼女を思い出すように言うダニエルにマリアも視線を奥にやる。
そうして再び話し始めた彼の表情からするに悲しみがとても深く滲んでいて、その彼女との結果は言われずともわかるような気がした。
だがマリアは彼の視界に入っているかも怪しいまま頷いて先を促す。
「学生時代から付き合って彼女とは三年続いていた。けれど僕は……ずっと前から初恋の人が心にいたんだ。僕はクローイがありながら、イブリンに……義理の姉に心を奪われていた」
マリアが思わず視線をやると、ダニエルは酷く苦痛を感じたように目を伏せている。
それからぽつぽつと呟きを落とした彼の言葉はまさしく懺悔のようだった。
ずっと心に折り合いをつけたつもりでいた彼は、だが兄が他界して独りになった義姉へ思いが昂ぶるようになってしまう。
兄が亡くなった事で家のあれこれを一手に引き受ける事になってしまった彼の精神は磨り減ってしまっていた。
しかし恋人のクローイからは正論だとわかっていても耳に痛い言葉しか出ては来ない、それに比べて義姉は彼にとても優しかった。
やがて恋人への思いは愛情からの誠実さではなく、立場に対する義理立てへと変わる。
そんな彼が身も心も義姉へ傾いてしまうのも時間の問題だった。
大きく息を吐き出して胸に溜まる何かも押し出してしまおうとしているダニエルを視界の隅に収め、マリアはやがて戻って来たジュリアに酒のおかわりを頼み新しい色の液体に口を付ける。
「僕は全く何もわかっていない若造だった」
グラスに残った酒を勢いよく呷ったダニエルはそう言い捨てて首を振った。
「悪事はすぐにクローイの知れるところとなった。彼女は泣きも怒りもせず、僕の前から去って行ったよ。だがあの時の僕はそれで面倒事がなくなったとさえ思ったんだ。これでイブリンと堂々と付き合えるとね」
残酷なようだがずっと心に描いていた人が手に入るという瞬間なら他の事が見えなくなっても仕方がないのではないかという気もした。
誰も彼もの恋が上手く行かない事はマリアも身に染みてわかっている。
けれどそれだけ想う人がありながら彼が恋人を無闇に振り回した結果になったのは否めなかった。
自分を嘲って口元を歪めた彼は「けれどそれも長くは続かなかった」と酒の所為だけではないだろう掠れた声で言う。
イブリンと恋人として付き合うようになったダニエルだったが、徐々に彼は違和感に気付き始めた。
最初の頃こそ彼に優しく接してくれていたイブリンは次第にただ甘く優しいだけの生活を望み、自分の意に染まない事態になるとその全てを放り投げてしまう。
自分の弱さが悪いと嘆きながら、それでも決して彼女はただ優しく彼を慰めるばかりでこれからの事に立ち向かおうとはしなかった。
そしてのらりくらりとした生活は、彼女が何も言わず彼の元を去って行くという事で終焉を迎えた。
どうやらずっと他に男がいたらしいとダニエルがぐっと奥歯を噛んで言う。
「これは後の事だけれど、彼女が――クローイが僕の子を妊娠していたと知ったんだ」
胃を掴まれたような思いがして咄嗟にグラスから顔を上げたマリアにダニエルが深く眉間に皺を寄せる。
「でも全てがもう遅かった。イブリンと生活をしている間、暫くしてからクローイは新しい人を見つけ始めていたんだ。愚かにも僕は同情すらした。彼女が親しくし始めていたのは孤児で、小さな店のウェイターだった。貴族の僕にあんな目に遭わされて、彼女が自棄でも起こしたんじゃないかとね」
言いながら酷い顔色になって行くダニエルを、だがマリアは止めなかった。
ここでただ偶然に出会った異国の見知らぬ女相手だから吐き出せる事もあるのだろう、マリアが彼に異性の興味を持たなかった事もその一因と言えるかもしれない。
短く何度も息を吐き出して、彼は奥の方で客と談笑しているジュリアの姿を追った。
彼こそが自棄になっている表情で「援助を申し出た事もある。思い切り足を踏まれたけれどね。……今思えばそんな事じゃ足りなかった」、あちこちに視線を彷徨わせながら彼はそう言う。
やがて三年程が過ぎた頃、ダニエルの事態は全て一変した。
クローイが親しくしていた男は遠い血縁の遺産を継ぐ事になり一気に巨万の富を得たのだ、対してダニエルの家は彼の両親が病に臥すようになって以来生活が思わしくなくなる。
そんな彼にイブリンはもう優しい言葉もかけようとはせず行方を晦ました、そして彼は失意を押し殺して出たパーティーでクローイが結婚した事と子供が出来ていた事を知ったのだ。
「後悔なんてものじゃなかった……髪から目の色から、僕に似た子を、僕ではない男が笑顔であやしているんだ」
顔を両手で覆いカウンターに伏せたダニエルにマリアも言葉が見付からない。
尤も彼も何かを言って欲しくて話し出した訳ではないだろう、マリアは開きかけた唇をぎゅっと結んだ。
「男の子だった、名前はモーズだ、救いの意味がある。彼は、……僕が手放してしまった救いだ」
その名を彼女がどんな思いでつけたのか、それを思うとマリアの手が無意識に強く握られる。
そして母は一体どんな思いで「マリア」と名付けてくれたのか。
「彼女は幸せそうだった、僕といた頃よりもずっと。きっと彼女は彼を支えていたんだな、今になってそれがわかる。僕に対しても常に彼女は親身になってくれていたのに……僕はただ心に残った欲望と優しい言葉に流されて、それがどんなに尊いものか気付こうともしなかった」
「ダニエル……」
「そう、僕の名前は、神は私の裁判官と表す。全くその通りなんだ。家を売り払う事になって両親とも離れた、残った金でこうしてあちこちを浮浪している。自ら居場所を捨て去った僕に対する公正な審判だ」
すっかりカウンターにうつ伏せてしまったダニエルにマリアもそっと目を閉じた。
彼の心を全て理解は出来ないが、どこか彼の言葉に覚えもあった。
農場の事で切羽詰っていた時、自分の思う通りに慰めもしてくれなかったダグラスを恨まなかったと言えば嘘になる。
だが今になってみれば果たして昔のままそうして慰められていて、それで自分はどうなっていただろうかとも思うのだ。
きっと何一つダグラスがいなければ決断する事も行動する事も儘ならなくなったに違いない。
彼から背を向けられた傷は大きかったが、それだけ大きな存在だったという事だ。
元からそんな彼を一時でも手に入れた後で失う事にでもなったのなら、形振り構わず死を選ぶ事さえも厭わなかった気がする。
それこそ弟妹の事も農場の事も、何もかも忘れて。
マリアは無意識に寄っていた眉間に指を置いて、そしてカウンターの向こうにある瓶の列を眺める。
細く息を吐き出して、そっとダニエルの方を見た。
「辛い時はただ慰めが欲しくなるものよ。先の自分にとって何が必要であるか、わからなくなる事もあるわ」
「僕は間違ってはならなかったんだ」
「そう、取り返しのつかない事もあるわね。でも貴方は生きているし、まだこれからもあるのよ」
「僕にはこれからなんてないよ。同じ過ちは二度と繰り返さない、僕にはもう誰かの傍にいる資格はないんだ」
再び奥の瓶を眺めながらマリアは頬杖をついて不思議だなと感じる。
もしかしたら彼の姿は自分が歩んだかもしれない道だった、それをこうして偶然に出会って目にした事に言い知れないものを覚える。
「過ちを繰り返さない事と、全てを投げ捨てて生きるのは違う」
「君に――」
言いかけて口を噤んだダニエルをマリアは微笑んで見詰めた。
「私もわからないわ、でもそうしたいと思う。全て元通りには出来なくとも、私はまた歩み寄って生きたい。一人になると特にそう感じるの、やっぱり寂しいから」
それが例え途方もない時間が必要でも、そう願う事が今も確かに自分の力になっている。
今の自分では到底楽な道のりではないだろうが、全てを避けて排他的に生きるよりはずっとよかった。
もう会えないなどと自らに失望して生きては行けないとマリアはここ数ヶ月の間感じたのだ。
「君は、強いんだな」
傾けかけた空になったグラスをカウンターに置いて言うダニエルにマリアは首を振る。
「きっと弱いからそうなの。泣いたり怒ったりしているのはとてもエネルギーがいる事よ」
だからこそいつも己の弱さを認める事が出来なかったのだ。
何もかも見たくはなかった、弟妹やダグラスに笑顔を向けられなくなった自分も、一人では農場をやって行けない無力な自分も。
そうして一人で背負い幾ら頑張っているつもりになっても、自分の中にあるものに見て見ぬふりをしたツケは結局やって来てしまった。
弟妹やダグラスだけではない、ホレーショーや周囲の皆にも迷惑をかけた。
エスレムス達がマリアを諦める事があるのかはわからないが、それさえやり過ごせば、きっといつか皆に会いに行ける。
マリアは弟妹の顔を思い浮かべて少し笑った。
長く顔を見せなかった事で二人はきっとマリアの顔を見たとたんに怒り出すだろう、でも今はそれが二人の心配していた気持ちなのだと疑う事はない。
とても愛されていた、ダグラスにさえも「妹として」はとても愛されていた。
その時の自分が気に入らない事をされたからと言って、過去まで全てを否定する事はない。
マリアとてクリスティアンやキャサリンのような反抗を覚えた事もある、遊びに夢中になっている時は必要だとわかっている事が全て煩わしくなるものだ。
ただ自分が、自分だけが頑張っているのだと、それを忘れていた。
やはり子供だったのだ、自分が思うよりずっと。
新たに起こる出来事がマリアを打ちのめしながら、それを気付かせてくれる気がしていた。
まるで母親が子供に言い聞かせるように、繰り返し繰り返し。
「やっぱり……君はとても強いんだと思う」
「いいえ。まだまだだけど、大事な事を疑わないくらいにこれからもっと、少しでもそうありたい。弱い自分も認めなきゃ強くはなれないのね。……貴方は?そのままでも本当に平気なの?貴方はまだクローイを愛しているだけ。ただ、それだけの事なのよ」
願う愛を手に入れられないと逃げたくなる事もある、マリアにはそれがよくわかった。
切り離す事が出来ない想いを持て余すばかりで、果てにはそれを手に入れられなかった自分が酷く惨めで、そして二度と自分に失望と傷を与えない為に全ての対し壁を作りたくなる。
長い沈黙が降りてもマリアはただじっとカウンターの奥を見詰めている。
やがてダニエルが頷いた気配を感じ取り、奥の方にいたジュリアに酒の追加を頼む為に声を上げた。
近くの町に宿をとっていて嵐の時期が過ぎたら両親の所へ行ってみると言うダニエルとは、それから週末には酒場で酒を酌み交わす仲になった。
マリアが読み書きを教えている子供達にも紹介をして、ダニエルも彼らに今まで見て来た国の様々な事を話して聞かせる機会も設けている。
そしてマリア自身もダニエルからは異国の言葉を教わった。
時折エルマが二人の仲をひやかすような事を言うが、実際には未だ嘗てないほど二人はいい友人になったのだ。
「だいぶ足の調子がよくなったみたいだね」
「ええ、もう布を巻かなくても大丈夫」
そろそろ天候が不安定になり始めたという時、小さな教室を後にして言ったダニエルにマリアも頷く。
トムから紹介状を貰って殆どすぐに山を下りた所為で足の傷の治りが遅かったが、今ではすっかり痛みも痒みもなくなって来ていた。
傷は時間が経てば癒える、そして新しい皮膚が出来上がる。
心もそうであればいいのにとマリアは思わずにはいられなかった。
「雨が降りそうね、収穫を急いでよかったわ」
「そうだね。この前は実に貴重な体験をさせて貰ったよ」
ダニエルが収穫を手伝うと言い出した時の事を思い出してマリアは笑った。
畑に足を踏み入れるどころか、それまで調理される前の野菜も触った事がなかったらしい。
茎から野菜をもぎ取る時の恐る恐るとした手付きには一緒に畑にいた村人達も大いに笑っていた。
だがあれからエルマには叱り付けられるようにして大量に野菜を食べさせられて以来、ダニエルは見違えるような顔つきになっている。
元の暮らしを取り戻す事は出来なくとも、両親の世話を自分でも出来るようにとあれこれ懸命に覚えていた。
「言い出したら降って来たわ、ダニエル、家に寄って行って」
頷いたダニエルと共に畑に囲まれた道を走り、マリアが借りている家へと辿り着いた時には雨のカーテンがすっかり先を見えなくしていた。
少し雨に当たった体を拭きながらマリアがお湯を沸かしているとふと視線を感じて振り返る。
「何?」
「いや……以前君は男に対して困っていると言っていたけど、僕は平気なのかなって」
遠回しにマリアの異性に対する何かを感じ取ったような気遣いを見せたダニエルにマリアは苦笑する。
「有り難い事にね、自分に対してどういう目を向けられているかは多少わかるようになったのよ」
ある意味わからなかったのはダグラスだけだった。
あれだけ近くにいたのに……否その所為なのか、ただわかるのはダグラスの目が昔と同じにマリアには向けられなくなった事だけだ。
やがて音を立て始めたポットからお湯を注いでお茶を淹れ、カップを差し出しながらマリアもダニエルの向かいに座る。
言葉を紡ごうか迷っているダニエルの視線を感じ、マリアは先に口を開いた。
「ありがとう、でも心配してくれなくても大丈夫。むしろ貴方みたいな人と出会えて嬉しいの。私、幼い頃を除けば、異性の友人を持つのって初めてだから」
「そうだろうね。大抵の男は君と友人になろうなんて考えもしないだろう」
神妙な顔で頷いたダニエルにマリアは声を立てて笑った。
そう言われて顧みればダグラスを除くと他に友人と言えるのはジャンフランコだけで、近付いてくる男性と言えば他は大抵マリアを値踏みでもするような目を向ける男性だけだった。
ジャンフランコも彼自身の事を考えると、純粋な意味で友人とは少々言い難い。
こうして男性不信に陥るまでも家の事に手一杯であまり他所に目を向けた事はなかったが、今となってみればそれが功を奏しているかもしれないとさえ感じる。
ダグラスから背を向けられた喪失感を他のもので埋めようとしても、結局それは一部の男性がマリアの体だけを見て寄って来るような行為とさして変わりはないように思えた。
マリアが求めているものは、ただ一時忘れられるという時間ではない。
漸く笑いを収めて窓の外を見てみると、すでに嵐がやって来たかのような雨が激しく窓を叩いている。
もうすぐやって来る嵐の時期はそう長い事ではないと聞いているが、だがふと気を抜くと今にもこの雨の中誰かが姿を現して手を伸ばして来そうな錯覚を覚えてしまう。
頭を振り思考を振り払ってマリアはダニエルに視線を向けた。
「そうね、でもおあいこかもしれない。私も……好きな人の事をまだ純粋に友人のようには思えないから」
僅かに瞠目したダニエルに頷いてふと息が零れる。
そしてどうしてダニエルがあの時見ず知らずの自分に過去の話をしたのかがわかったような気がした。
理解して欲しいのでも言葉が欲しいのでもない、ただ自分の中の溜めておくには重た過ぎる鬱屈した思いを聞いて欲しいのだ。
自分を知らない人だからこそ。
「私の話も少し、聞いて貰える?」
その言葉にやはりダニエルは神妙な顔で頷いた。
そして少しずつ話し出す自分の言葉にマリアは様々な感情を覚える。
両親が生きていてただただ幸せだった頃、それが当たり前のものではないと知った時、そして傍にいてくれた人をどれだけ愛しているか気付いた瞬間、けれど何もかもが上手くいかなかった時期――。
自分の中の本を一ページずつ捲るように言葉を紡ぐ。
エスレムス達の事は流石に伏せたが、それでも粗方自分の気持ちをすっかり話してしまったマリアはとたん気が抜けて椅子に深く凭れかかった。
そう長い間ではないはずなのにとてつもない時間が過ぎ去った気がする。
大きく息をついているとダニエルがマリアのカップを押し出して飲むように促した。
少し温くなったカップを両手で持ち、マリアはそれを全身に行き渡らせようと目を閉じてじっとぬくもりを感じる。
「勿論、僕が言える事ではないと思うんだけれどね。考えるに、彼は君を妹だとは思っていないんじゃないかな。少なくとも君が言うような意味で」
まるで思ってもみなかった言葉を言われてマリアが顔を上げて目を瞬くと、ダニエルは自分のカップに視線を落として何やら頷く。
「どうもそんな気がする。君を本当に家族だと思っていたのなら、彼は何を置いても今までと同じように君を支えたんじゃないかな」
「それは……私が彼を愛してしまったのを知ってしまったから」
「それでもだよ。家族のように感じていたのなら、一時でも見捨てるような真似はしないだろう」
「違うわ、彼は、ダグラスは農場を買おうかと持ちかけてくれたの」
身を乗り出したマリアを片手で制して、ダニエルは頷いた後に首を振る。
「それも後になっての事だろう?……何か、彼には君と距離を置く決定的な理由があったように思えるよ。勿論、君の気持ちに応えられないなんて曖昧な事でもなく」
そしてやがて自嘲するかの如くダニエルが口元を歪めた。
「男と言うのは単純な生き物なんだ、良く言えばロマンチストなんて言葉もあるけれどね。一度愛情を向けた相手に対して、見過ごす事は出来ないんだよ。マリア、君の言葉からだけでも彼がどれだけ愛情深く君に接していたかがわかる。そんな君に対して恋人に出来ないからという理由で背を向けるとは思えないんだ。彼に恋人がいたとしても」
果たしてそうだろうかという思いがマリアの中を渦巻いたが、結局頷く事は出来なかった。
何か理由が他にもあったのかもしれなくとも、それを知るべき術が今はない。
「僕の憶測に過ぎない事はわかっているが、……例えば君の妹や弟が助けを求めていると知ったらどうだろう?」
それにびくりと体を震わせたマリアは自分の体にぎゅっと腕を巻き付ける。
――キャサリンとクリスティアンがエスレムス達に狙われるような事があったのなら?
もし少しでもエスレムスが二人に何か危害を加えるような言葉でも言っていたのなら、今自分がここにいないという事だけはわかった。
そして二人がマリアと同じように連れ去られていたらきっと全てエスレムスの言う通りに従っただろう。
ぎゅっと両手を組んで握り締め、マリアは心を落ち着けるべく何度も深呼吸を繰り返す。
慌ててはいけない、そんな風に感情的に盲目になってしまえば、それこそ彼らが広げている罠の中へ飛び込む事になる。
あんな城を所有するくらいのエスレムスだ、顔が利く保安官がいても不思議ではないからこそこうして今マリアはただ逃げている。
そしてふと弟妹に対して態度こそ昔と変わらず接していたダグラスが、しかし決してそうではなかったのを思い出した。
彼の家から帰って来た弟妹から大抵ダグラスは途中仕事に出かけたと聞いたし、彼が忙しくしていたと言ってもやはりそれには距離があるように思える。
あの頃はその行動を自分の所為であると考えていた、弟妹とずっと親しくしている事でマリアが望みを断ち切れないのではないかと彼が考えたのではないかと。
「ああ、怖がらせてすまない。でもわかるだろう?目の届くところにいたって不安はきっと尽きないものだよ。僕も両親についているような人達がいなければ、今の選択はしていられなかったと思う」
「でも……でも私も彼に助けは求めなかったし、それに……彼が私の事をそんなに重要には思っていなかったからかも……」
言いかけた言葉で身を切られるような思いがして、マリアはぎゅっと唇を結んで遮る。
しかしダニエルは首を振った。
「だとすれば尚更時間が経っているのに農場を買おうなんて言い出さないんじゃないかな。彼が君を重要に思っていないなんて事はないはずだよ。マリア、僕が言いたいのは、彼が君に距離を置いたのは他に理由があるかもしれないという事なんだ」
ぼんやりとしてしまった頭を縦に振るのが精一杯になりマリアは視線を泳がてカップに縋りつく。
「すまない、君を混乱させるつもりじゃなかった。僕はいつも言い方が悪い」
「い、いいえ、いいの。彼がどんな気持ちでいたかはわからないけど、……何か理由があった可能性もあるのね。確かに彼は仕事で忙しく飛び回っていたから」
すまなそうに眉尻を下げながらダニエルが頷くと、マリアは頬に力を入れて微笑みかける。
そして立ち上がってから彼を振り返った。
「夕食を食べて行くでしょう?この間貴方が収穫した野菜でパスティを作ったの」
「喜んで頂くよ。ところで、その名前は何かの暗号?」
マリアは笑って首を振りながら、ダニエルとそして自身も張り詰めたような空気が緩和しほっとしたのがわかった。
「細長い形のパイよ。ポケットに入れやすいようにね」
「ポケットの形をしたパイか。うん、俄然興味が湧いた、そんな形のものもあるんだな。僕は本当に知らない事が多いと気付かされたよ。何か手伝う事はある?」
「いいえ。ああ、雨戸を閉めてくれる?」
「了解」
大袈裟に礼をとって見せたダニエルにマリアは再び笑ってそっと窓の外へと目をやった。
すっかり暗くなった窓には次々と新しい水滴だけが浮かんでは消えて行く。
「マリア?」
「え?あ、ごめんなさい。何?」
「いや……、その、……君もまだ、彼の事を愛しているんだね?」
ぼんやりしていた思考から突然放り出されたようになって、マリアは呆然とした表情のままダニエルを見上げる。
やがて躊躇いながらも頷く、思った以上にはっきりと。
「そう、ただそれだけの事よ」
気遣わしげな目をする友人を前に、マリアはまだそう言うしか術はなかった。
ダグラスの昔の微笑みと一時期の苛立ったような表情が何度も頭を渦巻いてマリアを混乱させる。