15.御伽噺にはなれない
考えるよりも先に小さな手に引かれたままひたすらに走って木々の間を駆け抜けて行く。
喉は熱く潰れるように痛み最早呼吸とも呼べない息継ぎを繰り返す。
どれくらいかそうして先を走っていた足が止まると、マリアは近くの木に倒れ込むようにして短く呼吸を繰り返した。
はあはあと自分の息遣いが大きく響き、胸を突き破るかの大きな鼓動が全身をも強く打つ。
まるで炎を吐き出しているようだとマリアは身を屈め何とか呼吸を整えながら思った。
漸くまだ荒い呼吸を繰り返しながら顔を上げれば、小さな手の持ち主が心配そうに見詰めている。
濃い茶色の髪と瞳でそばかすだらけの少年に向かって、マリアは力を入れて口角を上げ微笑んだ。
「どうもありがとう。……あの穴は君の抜け道なの?」
マリアの手を引いて走り出す前に少年が素早く直してしまった壁の穴を思い出して尋ねる。
すると少年は少し視線を彷徨わせてから首を振った。
「パパが教えてくれた場所なんだ。中に入った事はないよ、爺ちゃんにも怒られるんだ。でも凄いや!本当にパパの言う通りだった!」
はしゃいだ少年にマリアが首を傾げると、少年はマリアを再び先へ促し歩きながら言った。
「妖精の抜け道だって聞いたんだよ。パパは小さい時にあの場所で妖精に会って、一緒に遊んだんだって。妖精が壁を叩いて合図をしたら、あの石を退けるんだ。そうすると、中から金色の妖精が出て来るって」
「私は、妖精じゃないわよ?」
少し躊躇ったマリアが首を振ると、うーんと唸った少年が更に首を振る。
「でもパパから聞いた通りだよ。その髪もその目の色も。それにあの穴から合図をして出て来た」
どうやら少年は何かしら事情でも知っているのかと思ったがそうではなかったらしい。
はしゃいだまま話す少年の言葉を聞くに単に妖精がまた穴に戻って消えてしまわないように急いで連れ出したようだ。
少し力の抜ける思いで少年の話を聞いていたマリアは、ちらりと後ろを見やって追っ手がないかを確かめる。
すでに声も聞こえては来なかったが、しかしまだ油断は出来ないだろう。
「私はマリアよ、貴方の名前は?」
「僕はコーディ」
「コーディ、ここがどこか知っている?」
「ここはヴェルコールの山だよ。あっちの壁の向こうはワーシュタイン侯爵の物なんだって。爺ちゃんは凄く嫌ってるんだ」
その名にマリアの全身が一気に凍り付く、知りたくもない中たった一つ耳に入れられた名だ。
ぞっとするようなエスレムスの視線を思い出してマリアが表情を歪める。
あの青年はここを旧帝国の領地だと言った事があったが今はどうやらあの男の持ち物らしい、少なくともあの壁の向こうはそうなのだろう。
そして今更ながら少年と言葉が通じる事にほっとする。
更に尋ねればマリアも聞いた事のある国名である事に心底安堵したくなった。
あの訳もわからぬ場所に閉じ込められているよりは、ただ聞き覚えのあるだけの国に一人でいる方がずっとマシだ。
「ねえ、どこへ行くの?」
「爺ちゃんとこだよ。だってマリア、君、傷だらけだもの」
「……本当だわ」
「変な妖精だなあ」
そう言って笑ったコーディにマリアも思わず笑みが零れて、そして同時に目から熱いものが一筋流れ出る。
泥に塗れあちこち傷付いた自分の姿を見下ろしていた視界があっという間にぼやけた。
そして再びマリアの手を引いて歩き始めるコーディの後をついて行く。
徐々にじくじくとした痛みを覚え始めた体に苦笑し、マリアはこの溢れ出る言い知れない感情をなんとか治めた。
片手で拭った視界で改めて見てみれば、あの広大な「庭」とは明らかに違った景色が目につく。
壁一つを隔てた同じ山だというのにこうも木々の印象が違って見えるのが不思議だった。
あの動物すら足を踏み入れた事もないような鬱蒼とした雰囲気の木々とは違い、進む中見るこちら側は時折小動物の影さえも見える。
「コーディ、貴方のお爺様はここに住んでいるの?」
コーディは「おじいさまだって!」と声を上げて笑いながらも頷いた。
この山で木こりをし管理を任されているらしいと聞き、マリアはまたしても首を捻る羽目になる。
確かにあの壁で囲まれた中だけがエスレムスの領地だと考えられなくもないが、あんな危険な思考を抱いているような人達のすぐ傍に「通常」の世界があるのがどこか不思議だった。
マリアに向けたあの調子では周辺に住む者も皆あの悪巧みに加担させていそうだ。
そこまで考えてふと湧いた疑惑にマリアの足取りが少し重くなる。
全てを疑ってかかっても自分の状況が改善しないのはわかっているが、だがどうしてもあの場所に戻る事だけは耐えられそうにない。
しかしこの少年に真正面から聞くような勇気も持てず、マリアは己の愚かさを実感した。
それでも聞けないと行動したからにはこの突然現れた少年を信じる事だ、先程彼が言った「爺ちゃんは凄く嫌ってるんだ」という言葉を今は疑わずにいよう――そう言い聞かせて落ちた足の速度を速める。
ただ用心はしなければならない、それが何か悲しいと感じても。
「あ、見えたよ。あそこだ!」
そう言って走り出してしまったコーディの先にある山小屋を見て、マリアは止めかけた足を動かした。
まるで木々が自ら避けたように存在している山小屋の煙突からは白い煙が立ち昇り、徐々にマリアの鼻にも温かい匂いが届き始める。
勢いよく山小屋の中に入って行ったコーディの元気な声が聞こえてまたふと笑みが零れた。
恐る恐るとマリアが丸太を積み重ねたようなドアの前に立つと、再びコーディが勢いよくドアを開いてマリアの手を引く。
「見てよ爺ちゃん、本当にパパの言った通りだろう?」
明るい声を上げたコーディの先に顔を白い髭で覆われた老人が椅子に座ってこちらを見詰めている。
温かい茶色の瞳がじっとこちらを見るのにマリアは思わず警戒するのも忘れてそれに見入った。
現役を退いてしまったが、マリアが幼い頃から慕っていた村の保安官に似ている。
厳密に言えば親しいとは言えない間柄だ、しかし彼はよくマリアの姿を見かけては優しく声をかけてくれたものだった。
祖父を知らないまま育ったマリアは彼にその姿を重ねた事もある。
「お座りなさい、お嬢さん。コーディ、薬箱を持っておいで」
「はあい。マリア、ここに座ってよ」
にこにことマリアを老人の斜め前にあった椅子に促し、コーディは戸棚から取り出した箱をテーブルの上に置くと「パティにも教えて来る!」とまた元気よく小屋を飛び出して行った。
それを見送って視線を戻すと、老人は黙々と膝上に置いてある木をナイフで削いでいる。
じっとそれを見守っていたマリアにやがて顔を上げ、木屑を払った手で髭を撫でてから老人が言った。
「中の物を好きに使いなさい。それからそこのポットのお茶も飲みなさい、カップはそちらだ」
「――ありがとうございます」
マリアは頭を下げ言われたまま箱の中の薬を使って思った以上に傷だらけのあちこちを手当てし、暖炉にかけてあったポットからカップにお茶を注ぎ再び椅子に戻る。
じわじわと痛みと熱を持つ手足を持て余しながら暖炉の火の暖かさに身を委ね、黙って老人が削る木の音を聞いた。
「さてお嬢さん、私はこれから食事にするが、腹は空いているかね?」
「あの、私――」
「ああ私は何も聞きたくはないよ。特にあの忌々しい屋敷の主の事となるならね。君がそこへ戻りたいのでなければ、開く口に食べ物を入れるといい」
立ち上がった老人にマリアは即座に頷いていた、口調は穏やかであるがやはりコーディの言葉通りにこの老人がエスレムスに嫌悪を抱いているというのは理解出来た。
するとその様子に満足したのか老人は優しげにその目を細めて頷くと、戸棚からパンを取り出し一緒に出した肉をナイフで削ぐと串に刺して暖炉の火にかける。
そして一層立ち込めた香ばしい匂いにマリアは眠るようにして目を閉じた。
「それで、お嬢さんはこれからどこへ行く?」
促されるまま出された食事を食べ終えて、マリアがお茶を淹れ直しているとそう言った老人に振り向く。
するとマリアの顔を見て老人は少し声を立てて笑った。
「まさか私もコーディの言う事を信じていると思った訳じゃないだろう。まあ確かに特徴がよく似ている。あれが言ったのは私の息子が昔遊んでいたお嬢さんの事らしくてね。遠くへ行ってしまったらしいその子が突然姿を見せなくなって消えたのは妖精だったからだと考え出したんだよ」
「息子さんもここに?」
「いや、結婚してから下の町に行ったよ。時折ああして孫が遊びに来る」
「……息子さんが見た女の子というのは……」
「恐らくは、以前あの屋敷に住んでいた子だろう。私も当時はここにいた訳ではなかったから、詳しくは知らないがね。しかし数年前にあそこを買ったあの男ときたら……山の事を何もわかっちゃいない」
ふんと鼻を鳴らした老人の言葉がマリアの耳を右から左へ抜けて行った。
そう、「恐らく」は、――その突然姿を見せなくなった少女というのは、マリアの事だ。
ふと大きな木の前で突如景色が頭に浮かんだ事を思い出し、何かやるせない気分になっていく。
逃れようにも目に見えない鎖が追いかけて来るようだ。
マリアは緩く首を振って老人を真っ直ぐに見詰める。
「お金がないので、仕事を探したいんです。町には仕事はありますか?どんなものでも構いません。そうだわ、これを助けて頂いたお礼に――」
ドレスに付いている宝石を引き千切ろうとすると、老人は慌ててそれを止めた。
「やれやれ……どうも事情があるようだな。お嬢さんは「助け」を必要としていた、そこへコーディが通りかかった、そんなところかな?」
躊躇いながらも頷いたマリアに老人は息をついて脇から木製のパイプを取り出し火を点けると、大きくその先端を吸い込んで横へと長く煙を吐き出す。
やがて大きく頷いた老人はゆっくりとした動作で立ち上がり、戸棚から取り出した紙とペンを手に椅子に戻って何やらを書き始めた。
そしてそれをマリアに差し出しまた深くパイプを吸って煙を吹く。
「そこに私の妹がいる、仕事を探してくれるだろう」
紙に書かれた地図とサインにマリアは何度も目をやってそして老人に目を向ける。
間を置いて漸く理解した頭を勢いよく下げた。
「ありがとうございます……っ!」
「構わないよ。しかし行く所がないのかな?何だか知らないが、その宝石を売ってはどうかね」
「……旅費がかかりそうなんです。自国へ帰るには船旅をしなければなりませんし、これは万が一の為に一つでも取っておきたくて」
すると老人が目を瞠り呆れたように表情を崩す。
「そんなものを私に寄越そうとしたのか。どうもお嬢さんは国を出た事がないと見える」
「国どころか、数ヶ月前生まれ育った村を漸く出たばかりだったんです」
「ふむ。まあ、確かに女性の一人旅には何が起こるかわからない、それを取っておくと言うのは私も賛成だよ。それならば下の町でなくても大丈夫だね?妹にはしっかり伝えておく事にしよう」
「本当に……なんて感謝をしていいのか」
老人はその目を細めて髭に覆われた口をにっこりとさせた。
「構わないとも。侯爵の敵は、私の味方さ」
そしてマリアは老人――トムの妹がやっている店まで行き、そこからは離れているが小さな村の収穫の手伝いの仕事を紹介して貰った。
丁度娘夫婦が出たばかりだと言う家まであてがってもらう事になり、マリアはその村の恰幅のいい女性に何度も頭を下げた。
マリアが僅かに知るこの国は殆どが海に面していて漁業が盛んだ、しかし山の方は気候が穏やかで様々な作物が育っている。
すっかり涼しくなっている風に身を預け、マリアは手伝いを申し出た家畜の世話を終えてからふと息をついた。
それまでは何が何でも一刻も早く弟妹の無事を確かめなければと考えていたが、冷静になるにつれその考えが果たして正しいものかと思えていた。
当然エスレムスはまたマリアを捜しているだろう、弟妹の所へ行く事も予想しているはずだ。
だが弟妹が有無を言わされず一緒に攫われて来たのでないのなら、いなくなったマリアに言う事を聞かせる為に今更手を出すとは考え難い。
このままマリアが行方を晦ましていた方が下手に弟妹と顔を合わせて巻き込む可能性を高めるより安全ではないのかと思うのだ。
これも憶測でしかない、ただ相手には弟妹の事が知られている以上向こうで待ち構えられている確率は高いだろう。
弟妹にまで手を出せない理由が何かしらあるとしても、マリアが事情を知ってしまった以上は近くにいればその限りではないかもしれない。
会いたい会いたい会いたい、今すぐ飛んで行って無事を確かめて二人をこの腕に抱き締めたい。
けれどマリアはぐっとその感情を堪えた、そして強く頭を振って思考を払う。
今までだったらそうしていただろう、大事なものしか目に見えず周囲を見ようとしなかったばかりに今がある。
罠に嵌ってはいけない、自分の感情のまま動いて弟妹を危険な目に晒すのだけは避けなければ。
きっと弟妹は無事でいるのだから、そう、学校できっと楽しくやっている。
マリアの事も思い出す暇がないほど楽しい毎日を送っているに違いないのだ、それを自分が壊す事など出来ない。
今にも飛び出しそうになる感情を、マリアはそんな言葉で蓋をする。
「……あら、ごめんなさい。そろそろ戻りましょうね」
先程までのんびりと辺りを歩いていた馬がマリアの腕に鼻先を擦り付けて来たのに苦笑して柵を外し小屋へと家畜を入れる事にした。
小さな村では若い働き手があまりいない事からも給金はそれなりにいいし、何より家も食事もある事が有り難い。
ここで数日を過ごしながら、マリアはこの先どうしたものかとどこか途方に暮れる。
暫くをここで過ごした後、ほとぼりが冷めたような頃に自国へ戻るのがいいだろうか。
遠くから弟妹の姿を見るだけに留めれば「彼ら」にも見付からずに済むかもしれない。
夕方までの仕事を終えて家に戻ろうとしたマリアは道行く隣村の子供達が手を振るのに笑顔で手を振り返した。
仕事には事欠かず、隣村では時折子供達に読み書きを教えている。
マリアがわかる分の異国の言葉や文化など、子供達が興味深げに耳を傾ける様子が嬉しかった。
思えばホテルで働いていた時にも同じ事を思ったものだ、今は僅かな知識しかない自分だが誰かに知識を分け共有するのはとても楽しいと。
ぼんやりと、そうして暮らせて行けたらと思う。
今まで趣味らしい趣味も持たずただひたすら農場の事で手一杯だったが、本来外に出て家畜の相手をするよりも本を読みそれを誰かに伝え共に知識を成長させる方が性に合っているのではないかと思い始めている。
勿論農場の仕事も嫌いではなかったが、今までやって来れたのは両親の遺したものを潰えない為の気力のみだった。
「私が、教師になれるかしら」
子供達の飽くなき探究心に答える為にはもっと己の知識も必要だ。
もっともっと、マリアは自分が世界を知らなければならないのだと思う。
「でも目標を持つのはいい事だわ」
言い聞かせるようにそう呟いて、マリアが家の中に戻ろうとした時だ。
「マーリィ、すまないけどちょっと頼まれてくれないかい」
「ええ、私でよければ」
マリアに家をあてがってくれたエルマがふくよかな体を揺らして歩み寄って来るのに足を止める。
この村の住人はマリアの事を「マーリィ」と独特な訛りで呼んだ。
「これをね、ジュリアに届けて欲しいんだよ。あんたも前に会っただろう」
この村へ来た時エルマの元へ来ていた初老の女性を思い出しマリアは頷いた。
夫婦で酒場をやっていて、その酒場も隣村へ行く時に通る道の途中にある。
差し出された籠を受け取ってマリアは笑って頷いた。
「大丈夫よ、任せて」
「ああ。あんたが来てくれて本当に助かってるよ。ルシールが紹介してくれたんだから、いい子じゃないとは私は思わなかったがね」
「そう言ってくれて嬉しいわ」
仕事の後だったのだろうエルマは赤い顔のまま豪快に笑い声を上げ去って行き、マリアはその後ろ姿を見送ってから酒場へ向けて歩き出す。
トムの妹であるルシールの口利きでマリアはひっそりとこの小さな村に隠れるようにやって来たが、当初は異国人のマリアを受け入れられないと反発する村人も当然いた。
しかし数日とマリアが仕事する内に数少ない村人とも次第に打ち解けて、今ではこうして何かと頼ってくれるようにさえなった。
だからこそここにもあまり長居は出来そうにない。
もしエスレムス達がマリアの居場所を突き止めたとなれば村人相手に手段は選ばない可能性が高い上、村人達がマリアを庇ってくれる事も考えられる。
マリア自身あまり考えたくはなかったが、ジャックの二の舞という事もない訳ではない。
そんな迷惑をかける事になってしまう前に、ある程度の資金を貯めたらまずは隣国へと行ってみようかとも思っていた。
隣国はやはりそう大きな国ではないが、今は戦争も起きてはいないようだし何より学問が盛んな国だ。
そこでまた仕事を見つけていつかの為に勉強出来ればとマリアは願った。
ふとそんな自分を顧みて思い出したコーディの言葉に苦笑が零れる。
あれから殆どすぐに山を下りてコーディの顔を見る事はなくなってしまったが、もしかしたらまた彼の父と同じく「妖精だから消えてしまった」などと言うのかもしれない。
コーディの父と遊んだ記憶はない、それが少し残念にも思えた。
とても妖精などという不思議な存在ではないが、けれど何故か今会ってもいい友人になれそうな気がする。
きっとコーディと似ているに違いないと思いながら。
今のマリアはどこかの王女でも妖精でも何でもない。
ぼんやりとした遠い夢を描き始めた、とても小さな人間だった。
愛する人達の面影に時折叫びたくなるような胸の痛みを覚え、そして襲い来る寂しさに膝を抱える――とても小さな。
「おや、マーリィ!よく来たねえ」
やがて辿り着いた酒場の前で客を見送っていたジュリアが顔の皺を深くさせ笑顔で言う。
マリアもそれに笑顔で応えながら、年季の入った造りの酒場の方へ歩み寄った。
「エルマからこれを預かって来たの」
「ああ、これを酢漬けにするんだ。夕飯はまだかい?遠慮なく食べて言っておくれよ、さあさあ」
にこにこと背を押すジュリアに促されるままマリアは酒場に入り奥のカウンター席へと座った。
中にはちらほらと仕事帰りの男達がいるだけで、時折一角から笑い声が聞こえて来る。
カウンターの中へ入ったジュリアが一番に出して来た酒をちびちびと飲みながら少しぼんやりと過ごした。
港町で取れたばかりだという魚のパイを振舞われていると、やがていつの間にか二つ席の向こうに男性が一人グラスを傾けているのが見える。
ふいに男の方もマリアの視線に気付き振り向いたかと思うと険しい視線を刺された。
じっと見てしまったのが不躾だったかとマリアが謝ろうとした瞬間、その細身の男はまるで痩せた狼のような警戒心も露わにして言う。
「男漁りなら他所でやってくれないか」
その言葉をマリアが理解するのに少し時間が掛かった。
まるで「空は紫色なんだ」と言われたような気持ちで暫くぽかんとしていたが、徐々にその意味を理解して思わずマリアは噴き出して笑った。
――愛した人から受け入れられず、仮にも求婚をされている男からは逃げ回っているこの自分が男漁り!
「頭がおかしくなったのか?」
次いで聞こえた男の言葉に益々マリアは笑い出す。
やがて男が呆れたような顔をして再び正面を向いて酒を飲み出し、それでも笑いの収まらなかったマリアが漸く落ち着いた頃には男の酒は二杯目に突入していた。
「ごめんなさい、あまり可笑しい事を言うものだからつい」
「……どうやらこちらが失礼な事を言ったみたいだ。すまない」
突然生真面目な顔になった男にマリアは慌てて首を振る。
「いいのよ。相当女性にお困りみたいね」
改めて見れば男はどう見てもこの付近の村の出身ではなさそうで、或いは痩せこけていなければ貴族の気品も思わせる顔立ちの良さだった。
年は三十の中頃だろうが、その痩せた頬とくすんだ金の髪色の所為か老けて見える。
男はその顔を僅かに歪めて間を置いてから頷く。
「この台詞を言って笑われたのは初めてだ。大抵怒り出すか冷たくそっぽを向かれて終わりだから」
「そうかもしれないわね。でも私も少し安心したわ」
苦笑したマリアに男の方も肩を竦める。
「確かに君も男には困りそうだ。いや、困らせそう、かな」
「あら、困っているのはこっちよ」
つんと顎を上げて言った自分が可笑しくてマリアがまた笑うと、男の方も漸く笑顔を見せた。
「僕はダニエル」
「マリアよ」
二人はお互い手にしていたグラスを少し上に上げた。