14.暗中模索
※ダグラス視点第一弾ラスト
辿り着いた先、海の近くのホテルの一室でダグラスは数日船に揺られた体を休める羽目になった。
父に付いていた間もあちこち飛び回ってはいたが、このところは精神的な負担も大きい。
会社の方はヴィーンラットが姿を消した事でまた落ち着きを取り戻していると報告を受けたが、ただ嵐の前の静けささえ予感させて不気味だった。
船にいる間もヴィーンラットが不在の内にと出来る限りの仕事を進め、降り立ったこの土地でもすでに交渉相手は確保している。
けれど一向にダグラスの心は晴れ間のない鉛色の雲が覆い尽くしていた。
着いてすぐ土地の事情に明るい保安官に連絡をつけたが、主の顔色を見て一歩も譲らなかったエドウィンに阻まれて会うのは明日になっている。
むしろじっとしている方が体が何かに蝕まれて行くようでぞっとするものだとダグラスはベッドに腰を下ろしながら息をつく。
そして母の言葉が当たらずとも遠からずだと気付いた。
確かに自分は実母と似ているのかもしれない、床から動けなくなった実母が如何にもどかしい思いで愛する人の姿を請うたかがよくわかった。
元から己が自信のないコンプレックスの塊である事はわかっていた、しかしコンプレックスとプレッシャーに打ち勝とうと仕事の面においてはこれまで一切甘えなくやって来たつもりだ。
七光りだと言わせない為に父から離れて一から下で経験を積んだ時期もある。
しかし知らず内にだからと驕っていた部分もあったのではないかと気付いた、これほど自分が無力であると感じた事もないからだ。
もっと精神的に自分がしっかりしていられたのなら、今こうして手を拱く事もなかっただろう。
「クソ……ッ!」
それなりに上質なベッドは拳を叩き付けてもギシリとも鳴らなかった。
表情を歪めたまま視線を窓の外へ向ければ港を行き交う人々が見える。
さして大きな国ではないが、人々の様子から漁業は盛んなのだと見て取れた。
時折声が聞こえて来る中で無意識にマリアの姿はないものかと、金色の髪を捜してしまう。
そしてわかっていて絶望する自身が酷く滑稽だった。
ぐっと掴むように手で覆った顔を、ダグラスはノックの音から少しして上げる。
「ダグラス様、お客様がお見えなのですが如何致しましょう?」
「客?」
入って来たエドウィンが頷いて言ったその名にダグラスは瞠目する。
ここで聞くとは思わなかった名ではあるが、ダグラスはすぐにエドウィンに向かって通すように告げ、一瞬強く目を閉じてから乱れを整えるようにして立ち上がった。
寝室から出ると少ししてドアが開かれ懐かしい顔が現れる。
「ヘラルド、久しぶりだな」
「ああ、かなりな」
ダグラスの同窓であったヘラルド=カソルラは当時の印象のまま、髪も目も肌も黒かった。
促した椅子に座ったヘラルドは使用人が持って来たティーカップに口を付け、やはり昔と変わらないシニカルな笑みを浮かべてみせる。
「仕事でこっちに来ていたんだ、港でお前の姿を見かけてね。変わらないなダグラス」
「お前こそ相変わらず真っ黒だろ」
「ハハ、確かにな。――しかし一体何用なんだ?もしかして噂は真実か?」
その言葉にダグラスは密かに溜息を吐き出す。
「噂」の事は勿論把握してはいる、ヴィーンラットの会社からの妨害を受け今エイブラハムの会社が大なり小なり危ないというものだ。
直接会社に関わった人間は現状維持を保っている事を知ってはいるが、しかし憶測は憶測を呼んで全面的な信用には至っていないだろう。
最近といえば交渉相手にはまずその信用の回復から行わなくてはならない。
今後の事も考えてダグラスは二年ほど前から多角経営に乗り出している、しかしこんな所にまで自ら事業拡大に来たとは誰も思うまい。
「いや、向こうの尻尾は掴みつつある」
「じゃあここには?」
「もう少し違う方向にも手を出してみようと思ってね」
「お前は相変わらず野心家だな」
そう言って笑うヘラルドにダグラスは苦笑を返すに留まった、確かに周囲にはそう見えていただろうがその野心の根拠を聞いたらこの男はどんな顔をするだろうかと思う。
ヘラルドはある意味ダグラスとは真逆の男だった、家柄は正直あまりよくない、しかし恐ろしいほどの頭脳と人柄で程よく馴染んでいた。
いつでも飄々としていて執着など微塵も見せない、誰かが風のような男だと言った。
彼とは学生時代こうして時折他愛もない話をするだけで、特に親しかった友人という訳ではない。
それも彼とは逆の理由で、お互い真の友は持っていなかっただろう。
しかしただ、彼の何にも気に留めないこの態度がダグラスは気に入っていた。
「お前は今何をしているんだ?お前ならもっと上を目指せただろうに、どうして……」
そこでダグラスは言葉を止める、彼が途中で学校を辞めたのは理由がある事はわかっているがそれを問える立場にはない。
ヘラルドはやはり気にも留めていないように笑う。
「親父が死んだ、お袋は後を追った、それだけの事さ。そして俺は好きに生きてる、あちこち飛び回ってね」
「そうか……まあ、お前らしいな」
「そうだろう。ああダグラス、まだこっちにはいるんだろう?よければ週末にでも出て来ないか、美味い店があるんだ」
「夜なら構わないが」と頷いたダグラスに「じゃあ決まりだな」と店の場所を告げてあっさりとヘラルドは立ち去った。
閉じたドアを見詰めながら、ふとダグラスは忘れていた劣等感を思い出す。
学生時代には彼と話をしているとほっとしながらもどこか羨望を抱き、己の劣等感を刺激された。
なりたいと思いながらもなれなかった、彼の姿に理想の姿を重ねていたのだ。
もしも彼が自分の立場に生まれていたのならもっと上手くやれたのではないか、そんな風に。
下らないと自嘲する、例えば父親が誰であっても自分の立場は恐らく変わらない。
自分は自分でしかなく、彼にはなれないし似る事も出来ないだろう。
わかっていても今も変わっていない彼の姿に決して揺るがない芯を垣間見て、そしてまた酷く自分が小さく感じた。
しかし今自分の事はどうでもいい、この国へは遊びに来た訳でも感傷に浸りに来た訳でもない。
緩く頭を振って、ダグラスはもう一度仕事の確認を行う事にした。
そして週末にダグラスは受け取った伝言の通り、指定された場所へと向かう。
馬車の中で溜息をつきそうになっては噛み殺しの連続だった、進もうと思うと足に草の根が絡み付いているような錯覚を覚えて仕方がない。
あまり期待もしていなかったが、予想通りここでの仕事は捗っていない。
売買するはずだったワインは他国に受け入れられるとはあまり思えない代物だった。
小さく保守的な国相手にありがちな事ではある、確かに自国の環境や生活には馴染みがあり誇れるものでも他国ではそうではないというのがわからない。
微妙な反応を返したダグラスを訝しげに見た仕事相手の顔を思い出して、また奥歯を噛み締めた。
まるで自分を鏡で見ているようだなと思えてしまったのが悪かった。
自身に合わせ整えられた環境ではそれなりの価値があるかもしれなくとも、全く違った環境に置けば泥とも同じで。
幼い頃から何度も頭の隅に追いやっては見て見ぬふりをして来たものが今尚更に存在を主張する。
要は己に柔軟性も視野の広さもない事を今の状況が示していた。
夜道を走る馬車で揺られ、やがて着いた目的地で降りたダグラスは違和感に顔を上げる。
マリアが育った村以上に何もない田舎の夜はただの闇で、目の前にある店の明かりも分厚い闇に覆われた道の先を少しばかり照らすだけだ
こんな中手元の明かり一つででよく来たと御者を労い、ダグラスは店というよりただの家のような佇まいである建物の中へと足を踏み入れる。
中はそう広くなく、カウンターに一人酒を飲んでいる男がいるだけだ。
「こっちだ、ダグラス」
奥の方から顔を出して見せたヘラルドに歩み寄って、無理矢理作られたような場所にある奥のテーブルに向かい合わせて座る。
店員らしき男に向かって適当に注文をしてしまったヘラルドにダグラスも口を挟まなかった。
間もなく目の前に置かれた酒をお互い口にし、暫くは何も話さずにいた。
恐らくヘラルドは持ち前の勘のよさでダグラスの空気を感じ取ったのだろう。
それが有り難いとも、しかし複雑だともダグラスは思う。
「お前さえよければ、いい品を紹介する」
やがてそう言ったヘラルドをダグラスは意外に思い、ついその顔を凝視した。
「そう意外そうな顔をするなよ。別に俺がどうにかなった訳じゃない。強いて言うならお前がどうにかなったんだ」
苦笑するヘラルドに口を開こうとして、だがダグラスは小さな吐息と共に頷く。
深く知っている訳ではなくとも確かにヘラルドは変わっていないように見える、そうであるならそのヘラルドに「意外」な言葉を言わせたのはダグラス自身であるより他なかった。
学生時代にはおくびにも出した事のなかった表情を隠そうともせずダグラスが頷く。
「そうだろうな、でもこれが俺だ」
「ボルジャー家の息子」を取り除き、「マリア」を失った後に残っているのは、酷く小さな自分だった。
「お前がここまで来るには何か理由があるんだろう、この国はあまり貿易には向いていない。良く言えば愛国心が強過ぎるんだ」
その後呟くようにヘラルドの言った住所をダグラスは記憶してから頷いて礼を言う。
そんな行為すらヘラルドにも意外に映ったに違いなかったが、もう取り繕う真似はしなかった。
「俺は明日ここを出る。もっと早くに出ていたんだがな、これも何かの知らせってやつだ」
「感謝するよ。……俺にもその知らせが届けばいいんだがな」
情けない呟きはワインを飲み干す事で流した。
今のところマリアの姿を目撃した者は見付かっていない、同じくマリアを連れ去った男達も。
その男達がヴィーンラットの甥であるとの調べはついたが、言ってしまえばそれだけだ。
小さな国の中でぷっつりとマリアの行方の糸が切れてしまっている。
「ここから離れた小さな村だが、だからこそ扱い易いし品も悪くない。目にしておいても損はないだろう」
そう言ったヘラルドはそれ以上の言葉を止め、二人は黙って酒と次いで持って来られた肴を口にし続けた。
やがてダグラスは沈黙を破り、決意して顔を上げる。
「実はここで人を探している。俺の……幼馴染みなんだ」
「……マリア=カートライトか?」
学生時代の「友人」にも知人にもその存在を話した事のなかったダグラスはヘラルドがすぐ言い当てた事に瞠目したが彼の方は当然とばかりに頷く。
「知ってる奴は知っている、というやつだな。プライベートで人を寄せ付けないお前が宝物の如く大事にしてる女の子だろう。俺もお前と一緒にいるのを見た事があるよ」
ヘラルドの言葉に苦笑しながら頷いてダグラスは言う。
少し前の自分であるならこの言葉を口に出す事は出来なかっただろう、何もかも自分の手で成功を収めようと躍起になっていたはずだ。
だが今はそうしている暇すら惜しい、そしてそうあるべきではない自分を知っている。
マリアがクリスティアンとキャサリンの許へ帰れるのなら、跪いてでも何かに縋らねばならない。
最初からそうするべきだった、否義務ではなく本来そうしたかった――こんな風に道を誤ったりなどせずに。
とてもエイブラハムのようなやり方は出来ないと、それを早く学ばなければならなかったのだ。
「マリアがこの国に連れ去られたらしい、それから行方がわからないんだ」
「そうか……それでお前ここに」
項垂れるまま頷いてダグラスは持っていたグラスを手の中で転がす。
「いや、残念だが俺は見ていない。ただどこかに潜んでいないとも限らないだろう。もし連れ去った奴がここの住人と懇意にしていたのなら、隠しておくには充分だ。……そうだな、さっき言った所の職人に俺の名前を出すといい、少なくともそこの村での情報は分けてくれるだろう」
「――重ね重ねありがとう、ヘラルド」
「構わないさ。お前のそんな姿を見られただけでも充分対価はある。それにやはり俺の予感が当たった事に対してもな」
「予感?」
「ああ、時に俺があの遠い昔、お前を羨ましく思った原因だよ」
意図を掴みかねているダグラスにヘラルドが珍しく自嘲した。
「お前にはどこに走って行っても常に傍にあって迎え入れてくれる場所があった。俺にはそれが羨ましかったんだ」
彼のその言葉を正しく理解する事は出来ないだろうとダグラスは思ったが強く頷き肯定を示す。
マリアはその通りの存在だった、ダグラスが父の後を継ぐのだと躍起になっていても彼女だけは気が付くと傍にいてくれた。
根無し草のようなヘラルドもそれを欲した時期があったのかもしれない。
「そうか、お互い様だな。……今、お前のようになりたいとも思わないが」
「そうだろう!」
声を上げて頷いたヘラルドにダグラスも久しぶりに笑う事が出来た。
記憶にしっかりと留めた住所が「宝物」への道を拓いてくれると、一筋の希望を信じながら。
だが時間は無常にもただ過ぎ行くばかりだ、あっという間に一月以上が過ぎ滞在期間は後数日に迫っている。
何の進展もないまま半分以上が過ぎてしまったのはダグラスにも焦燥感というダメージを与え続けた。
精々ヘラルドの紹介で知り合った銀細工職人のレスターとは程なく打ち解け、内密に村での情報を流して貰う事には成功しているくらいだ。
それもあまり期待が持てるとは言えない、レスターは腕のいい職人ではあるが彼の元に出入りする情報は殆ど村の住人の事だけで隣の村の事まではわからない。
しかしレスターのいる村の情報だけでも確かであればいいとダグラスは気を持ち直し、あと一月はそこを拠点にして周辺の村々を探ってみる事にした。
ヘラルドが暗に言った通りここの国民は小さな村であればあるほどに保守的で、あまり異国を受け入れないようだった。
保安官からの情報でも、彼らが言いながら苦い顔を作った訳がわかる。
しかしだからこそ僅かにでも不審があれば目立つとも言えるのだ、そしてそれがわかりさえすれば。
最早癖になった溜息を吐き出し、ダグラスは明日はもっと細かな場所にまで足を伸ばそうと決意してぐったりとベッドに身を沈めた。
ここ数日体調が思わしくない、食事が合わない訳ではなかったが精神的な疲労が確実に体を蝕んでいる。
だが後数日しか今は時間が残されていないのだ、ここが嵐の来る時期になれば船を使う事は適わなくなってしまう。
手掛かりを掴めないままであれば闇雲に滞在期間を延ばしている訳にもいかない。
実体のない物を手で掴み取ろうとするやり切れなさと酷く中途半端な自分を感じた。
いっそ何もかもを投げ出してマリアを追いかけたい、しかし自分を育ててくれた両親を支えたい。
きっとマリアもこんな思いの狭間にいたのではないかとダグラスは思う。
家や弟妹の事に必死になるマリアをどうして理解してやろうとしなかったのか。
何度も何度も、襲い来る後悔は尽きない。
「ダグラス様、薬をお持ちしました」
「そこに置いてくれ。……ちゃんと呑むよ」
納得のいかないような顔をしたエドウィンに少し苦笑して、ダグラスは起き上がり手渡された薬と水を呑み込む。
不意にそんな自分の行動が心底情けなくなってダグラスは口元を歪めた。
マリアはこんな事をしていられる状況にはないかもしれないのだ、それなのに自分は何を悠長に――。
口から何かが飛び出しそうになってダグラスは慌てて奥歯を噛んだ。
そんな事を思っても今は意味がない、マリアがどんな状況にあっても自分が想像で今同じ事をするのは無意味だ。
「明日も早く出る。何か報告はあるか?」
首を振ったエドウィンが退室して行くのを見送り、ダグラスは数日前届いた母からの言葉を思い出した。
ただ一言、「自分の思う通りに行動しなさい」とそれだけの言葉だ。
父のサインも入っていた事から、両親に心配をかけているのは痛感している。
思えば両親はいつでもダグラスの好きなようにと意思を尊重して貰った、ダグラスが下で一から働きたいと言った時も……そして今もだ。
それが今までは真の意味でわからなかった、もっと若い頃は何も言われないのが信頼に値しないのかとすら疑って自分を追い詰めもした。
ぐっと拳を握ると爪が手の平に食い込みぴりっと痛みが脳へ走る。
迷っている暇などない、これ以上失いたくなければ大切なものは把握して行動しなければならなかった。
翌日も早くから近場の宿を出たダグラスはその隣の村へと向かう。
レスターの情報はともすれば些細なものであったが、今はその僅かな可能性にでも縋った。
馬車を進めるほどに建物が少なくなっていく景色を窓から見やり、ふと胸元で音を立てたポケットに手を当てる。
マリアのブローチと、クリスティアンとキャサリンからの手紙は常に持ち歩いていた。
まるでそれが自分の気休めのようだったが、その存在を胸に感じると気力が底から湧き上がって来る。
体も重く頭痛は酷くなるばかりだ、しかしその気力がダグラスを動かす。
やがて馬車はあちこちに広がる畑の前で止まり、降りたダグラスは一つの畑の前にある横長の家の中へと入って行った。
薄そうなドアをノックすると暫くしてドアが開かれ、そこから顔を出した恰幅のいい中年の女性がダグラスを見るなり眉根を寄せる。
特徴から見るにこの女性が教えられた「エルマ」に間違いはなさそうだった。
「何用だい?ここはあんたみたいな男が泊まる宿じゃないよ」
「エドモンドから言われて来た。人を探しているんだ、聞きたい事がある」
ダグラスの言葉に女性は少し間を置いたが、やがて振り切るように首を振る。
「いいや、私に心当たりはないよ。見ての通り何もない辺鄙な村さ。悪い事は言わない、町にでも出て他を当たるんだね」
「しかし」
「いいから帰っとくれよ。こっちは収穫で忙しいんだ」
ダグラスの肩を押し退けて再び家の中へと入ってしまった女性に大きく溜息をつき、ダグラスは馬車の中へ戻ると素早く反対側のドアから出て畑の中の背の高い植物の陰に隠れる。
手筈通り御者は馬を走らせ、そしてダグラスは畑の中からじっと身を潜めて家の様子を窺った。
あの態度からしてレスターがエドモンドという得意先から仕入れた情報――この村の一部の住人の様子がおかしいというのは間違いがないようだ。
この女性と親しいはずのエドモンドの名前を出しても首を振ったところを見れば、相当警戒されている。
どれくらいかしてもう馬車の姿形も見えなくなった頃、そっと裏の方から出て行くあの女性が見える。
植物の長い茎からじっとそれを見守り、ダグラスは畑の中に身を潜めながらその後を追った。
畑が多かったのが幸いして見付からないまま女性がある家に素早く入って行くところまで見届け、出て来る気配がないのを確認してふと詰めていた息を吐き出す。
何か後ろめたい事でもあり役人に間違われている可能性もない訳ではない、もしくは彼女が囮としてここに留まっている事も考えられる。
思考しながらダグラスはそれでもじっと小さな家の様子を見守り続けた。
時折冷たいくらいの風が吹きつけて畑の植物を揺らしダグラスの頬を叩くと、もう遠い記憶にある懐かしい草と土の匂いがした。
幼い頃マリアと共に常に傍にあった匂いだ、香水や葉巻の咽返るような社交場の匂いでも長い時間噛り付いていた本の匂いでもなく。
マリアと駆けた懐かしい草木の香りだった。
ぼんやりとマリアの姿が脳裏に浮かんだダグラスは、次の瞬間大きく瞠目し声を張り上げ畑の中から飛び出していた。
「マリアッ!」
ダグラスの視界には、家から出て来てはっと顔を上げたマリアの驚く顔だけが映る。
ほんの僅かな距離が恐ろしく長く感じ、ダグラスは恐怖に急き立てられる如く尚更がむしゃらに足を動かす。
そして固まったまま動かないでいるマリアを伸ばした腕に収めた時には、それまでダグラスの心にあった他のものは全て消えた。
安堵すら心に追いつかず、ただ腕の中の存在を確かめ強く抱き締める。
「マリア、マリア、よかった、無事で――本当に、嗚呼神よ!」
それまで己の目で見た事もないものに乞うた事は一度もない、憎んだ事すらも。
だが今ダグラスは何かに感謝せずにはいられなかった、それが例え何に対してでも構わなかった。
震えるほどの歓喜が体中に満ち溢れ、遠い昔に落としてしまった体の一部を取り戻したような気分にさえ陥る。
それほどマリアの温かさはただダグラスに懐かしさと愛しさだけを感じさせた。
「ダグラス……一体どうして、ここに」
「捜したんだ、ずっと捜していたんだマリア、君を、ずっとだ!」
顔上げて距離を置こうとするマリアを尚更強く抱き締めて喘ぐように叫ぶ。
どくどくと強く高鳴った鼓動は全身に血を駆け巡らせ熱が一気に放出される。
「マリ、ア……マリー……」
そして一気に上った熱がガンガンとダグラスの頭を叩き始めた。
ずるずると体の力が抜けて行き、霞んでぼんやりとした視界に映ったマリアの表情は今にも泣きそうだ。
そんな顔をするなと、ダグラスはそう言いたかった。
またそんな顔をさせてしまったのが自分かと思うとどろりとした失意を感じる。
再び遠くなり始める彼女の姿に懸命に手を伸ばし、ダグラスは決して彼女を離すまいとした。