11.幼き日々の君
※ダグラス視点です
ホテルに戻りソファの背凭れに体を押し付けたダグラスは押し出されるように短く息を吐き出す。
しかし幾らそうしてみたところで胸に痞えたものは一向に取れはしない。
見えない何かに押さえ付けられ気分が悪いまま結局仕事は捗ったとは言えない、そんな状況ではないにも関わらず。
額から髪に指を差し込みぐしゃぐしゃと頭を掻き回すが、霧がかったような脳はちっとも晴れない。
何もかもが鉛色に燻って行く中、ただ一つ今も鮮やかに蘇るのは幼き日の思い出だった。
あれから何年が過ぎた事だろう、すっかりあの頃とは何もかもが変わってしまった。
そうマリアの両親――カートライト夫妻が亡くなった日から。
否、恐らくはそれより少し前からだろうか。
ダグラスはいつの間にか髪を握り締めていた手を解き、ずるりとそのまま顔へ滑らせる。
ダグラスの父――エイブラハムは昔から何をやらせても器用な子供だったらしい。
勉強も運動も行儀の良さも周囲の子供は太刀打ちすら出来なかったそうだとダグラスは聞いている。
そんな父が幾ら貴族階級とはいえ事業に乗り出して成功しない訳もなかった――或いは、成功し過ぎた。
思い返せばエイブラハムへの執拗とも言える様々な「攻撃」はあの時期から始まっている。
対抗企業の誰かの仕業か、それとも単に成功者として妬みを買ったのか、今でもそれは明らかになってはいない。
だが漸く最近になってその尻尾を掴みつつはあった、それもまた黒幕付きの手駒に過ぎないのかもしれないが。
恐らくその黒幕は莫大な資産を持つ貴族であろう事は推測されるが、どの機関を調べても痕跡すら掴めてはいなかった。
そして複数いるであろう手駒の一人に「ゴルレッツ=ヴィーンラット男爵」の名が挙がっている。
だが五十代であるこの男もあの時期から事業に手を付けている割にそれ以前の経歴が空白に近い。
大きな損害を負うほどではなく、企業の一定以上の拡大を阻止するかの如く、彼らの攻撃は執拗でありながら波があった。
ただ現状維持にエイブラハムだけなくヘンリエットも、そしてダグラスも走り回る羽目になったのだけは確かだ。
そうしている時期にカートライト夫妻が亡くなった。
ダグラスは深くソファに沈み込み、肘当てに頬杖をついてまた頭を掻き毟る。
今もあの頃と同様、そう余裕が出来た訳ではない。
しかしそれが何の言い訳にもならない事をダグラスも重々承知してはいた。
両親を失ったばかりのマリアやキャサリンやクリスティアンに手を貸すのは、葬式が一通り済むまでしか仕事から離れる隙もなかった自分の両親の代わりでもある。
しかし全てはマリアの願う通りに整えてやりながらも、彼女から距離を置いた。
そうするべきだと思ったのだ、幼い頃からマリアを妹として見守って来た男としては。
マリアはただ一番近しい男である自分に対し、限りなく恋情に近いものを抱いているだけなのだと。
もしそれが本当に恋情だとしても、ダグラスにとってマリアはずっと幼い頃のマリアのままだった。
両親を失い弟妹を抱えて農場を切り盛りする姿は、まさに負けず嫌いな彼女そのものではあったが、マリアは決してその事をダグラスに頼ろうとはしなかった。
けれどその透き通るような薄いブルーの瞳を恋に輝かせて自分に走り寄って来る、憂いは全てその瞳の奥に隠して。
他にどうにも出来なかった、あの頃はどうしても。
いつか変わるのだとは思っていた、マリアも自分の本当の気持ちに気が付き、そしてまた自分を兄と慕ってくれる日が来ると。
だが彼女より年上でありながら自分がした事といえば子供のような意固地になる事だけだった。
仕事の合間に一時の憩いばかりの恋人を隣に並ばせてはマリアに見せ付けた、彼女が傷付いていると知りながらも……卑劣な事に彼女の中でそれほどまだ自分の存在の大きさに安堵した。
だから早くあの頃のようにまた――それだけを願っていた。
「ク……ッ」
口を覆ったダグラスの自嘲は潰れ歪む。
再びあの頃の少女を手にしたかったくせに、親愛と恋情を勘違いしていてはマリアの為にならない、彼女を仕事の厄介事に巻き込む訳にはいかないと偽善ぶって。
裏ではあらゆる事をした、不穏な噂のある男が彼女を狙っていると聞けば脅しさえした。
農場を強引に買い取ろうとしたり横槍を入れて来る輩がいると耳に入れては人脈を使ってでも潰した。
マリアが望むならと表立ってこそしなかったが、農場の危機は排除して来た。
だがそれが何になると、ダグラスの表情はただ苦痛に沈んで行く。
確かに変わってしまったではないか、マリアはもう歩き出してしまった。
自分の下種な望みを遥かに超えて、家や農場や弟妹にしがみ付くばかりでない、大人の女性として歩き出した。
――妹のような存在に縋る、この自分を置いて。
「ダグラス様、何かお召し上がりになられては……」
「……軽い物を頼む」
「承知致しました」
やって来た執事が密かに眉を寄せたのに取り繕う余裕もない。
ダグラスは再び独りになった部屋で大きく息を吐き出す。
そう、余裕などどこにもなかった。
近頃またしても攻撃を始めたヴィーンラットに対し、決定的に打つ手がないのに焦りを感じる。
その最もたるところがマリアに話してしまった「婚約」だろう。
ダグラスは苦々しい思いで自嘲して手元にあったグラスを辺りに投げ付けたい衝動に駆られた。
父や母を助けたい、しかし自分の何と無力な事か。
マリアに対してすらそうだ、どれだけ自分が裏で農場の維持に手を貸そうとも、肝心なところで役に立ってはいない。
カートライト農場が台風の被害に遭いマリアが寝る間も惜しんで修理代を稼いでいたと知ったのは、ダグラスが「攻撃」の為にあちこち駆け回り漸く落ち着きを少し取り戻した一ヶ月も後の事だった。
――何故かダグラスが「知ってさえいたら」と思う事が起きる時に限って「攻撃」は始まり足止めを食らう。
久しく感じていなかった劣等感に苛まれた。
けれど当時から自分を支え救った存在はもう傍にはいない。
肘掛を音が鳴るほど強く握り、ダグラスは自分の体から力が抜けて行くのに耐えた。
目を瞑れば、陽だまりのような暖かい存在の事ばかりが思い出される。
マリアと出会ったのは、恐らくダグラスが最も自分の存在意義に疑問を感じていた頃だった。
あの頃エイブラハムとヘンリエットさえもダグラスにとってどこか遠い存在で。
何かの焦燥感と孤独感を抱えては独り影で苛立っていた。
あれはそろそろ冬が終わるかという時期だ、両親に呼ばれて部屋から階下へと下りたダグラスを待っていたのは、人が好さそうな笑顔のジェシーとキャスリンで――そしてその間に金色の髪をした小さな女の子がいた。
近くに越して来たのだと両親から紹介され、そしてカートライト夫妻と挨拶をした後ダグラスは戸惑った。
町では同年代の子供が多かったお蔭であまり年下の子と接する機会はなく、どう声をかけていいかもわからない。
ただじっと自分を見上げて来る大きな薄いブルーの瞳が綺麗だなと思った。
何も言葉を交わさない二人を促して、両親達が「外で遊んでおいで」と言うのに従い、ダグラスは半ば渋々ながら少女を連れ出して庭へ出る。
陽の下で少女の髪は益々黄金色に輝いて見えた。
「僕はダグラス。君の名前は?」
「……マ、リ、ア」
ぎこちないその発音にダグラスはただ頷く、うんと小さな女の子だからまだ言葉がよくわからないのかもしれないと思ったのだ。
その通り、それから幾つか言葉をかけてもマリアは首を傾げるか頷くか首を振るかであまり言葉を発しようとはしない。
そうして二人は暫くその辺を歩き景色を眺めた。
「あっ、……マリア?」
突然駆け出して行ったマリアにぎょっとして後を追うと、丘の上にしゃがんだマリアはじっと膝を抱えて何かを覗き込んでいる。
その様子が可笑しくて思わずダグラスは覗き込みながら小さく笑った。
「ああ、メリアの花だ。リンゴの花を知ってる?これに似てるんだ」
「×××××!」
そっと目の前の小さな花に触れたマリアは舌がもつれたような発音で何かを短く叫ぶ。
意味はわからなかったが、ダグラスはマリアの笑顔を見て彼女が喜んでいるのだと理解した。
「君はどこから来たの?外国?」
「ハー、サリェルスト」
「……聞いた事ないな、どこにあるの?」
するとマリアは薔薇色の唇を尖らせて首を振る、その仕草が可愛らしくてダグラスは思わず声を立てて笑ってしまった。
きょとんとダグラスを見上げたマリアが釣られたように笑い出すのに笑いが収められなくなり、二人は少しの間そうして笑い合った。
やがて丘の上に二人で座り込み、ダグラスはマリアがあちこちの花を弄るのを見守る。
近くなら一人で遊んで来てもいいよと言っても、その言葉は通じているだろうにマリアはただ首を振ってダグラスの隣から離れない。
酷く不思議な気分を味わった。
ダグラスには友人も多くいたが、けれど誰かと長く一緒にいるのは苦痛だった。
二年前くらいだろうか、今はもう顔も憶えてはいないお節介な親戚の誰かが漏らした一言から、ダグラスの心は鎖に絡まったままずっと息苦しかった。
――自分はエイブラハムとヘンリエットの子供ではなく、ヘンリエットの妹が行きずりの男との間に作った子供なのだと知らされて以来。
それを問い質したダグラスに勿論両親は否定した、……行きずりの男などという怪しげな人間ではなかったとだけ。
ダグラスの母は叔母と教えられていた、すでに他界しているユーニスだった。
ユーニスはこちらに仕事で来ていた男と恋に落ちダグラスを産んだが、その男は仕事に出た先で事故に遭い亡くなったのだという。
そして帰りを待ち侘びていたユーニスは失意のままに体調を崩し病死した。
まだ結婚をしていなかった二人の間に残された子供を、同時期死産を経験したヘンリエットが自分の子として育てると訴えたのにエイブラハムも強く同意したという訳だ。
両親が実親でないとわかってもその愛情は確かであったし、ダグラスは幼いながらも事実を受け入れ三人の関係は今までと変わらなかった。
だがそれ以来恐ろしく優秀なエイブラハムの息子としてのプレッシャーがダグラスに重く圧し掛かるようになる。
今まで気にもしなかった事が酷く気にかかるようになり、勝手な劣等感に苛まれるようになった。
父のようになりたいと、自分を育ててくれた両親に恩返し返しがしたいと、そう思って努力をしても心のどこかで「血の繋がっていない自分は父のようにはなれない」と考えてしまうのだ。
またどこかで誰かが真実を知ってしまうのではないかと、それが恐ろしくて友人達にも心を全て許す事が出来なくなった。
流石優秀な父の息子だと周囲に言わせる為に前にも増して、取り憑かれたように勉強した。
幸いな事に当時出産の為にユーニスと共に別荘で過ごしていたヘンリエットに似た髪と瞳を持ったダグラスを誰も養子だと疑わなかったし、関係者も口を噤んだ事で事実は外へと漏れはしなかったが。
ただあの誰だったか思い出せもしない親戚はすっかり顔を見せなくなったらしく、結局ダグラスも両親もその人物がどこで事実を知ったのかはわからないままだった。
だが真実を知る数少ない者達の間からいつ周囲に漏れてしまうかと怯え、その時例え父の家から放り出される事になっても独りで生きて行けるようにと、ダグラスは常に緊張を強いられた。
ヘンリエットとユーニスがよく似ていた事で助かったが、ダグラスは一度自分が父のように上手くやれなければ全てが崩れてしまう妄想に支配される。
死産だったヘンリエットの子供はユーニスの子供だと届けを出され、証明さえもダグラスはエイブラハムとヘンリエットの子供だとされているが、たった一人でも事実を知っている人間がいるというのが恐ろしかった。
二人はダグラスの手前言わなかったのだろう、しかしダグラスにはあの親戚の言った一言がまさに的を射ていたと確信するようになる。
何故ならユーニスは恋に溺れ、相手の男の事は姉にさえも名前しか告げていなかったのだ。
「ハルボルト」――その名前だけで、住んでいる場所もどんな容姿かもわからないままだった。
今は仕事に出ている彼が戻って来たら結婚をする、そう約束している、金も送られて来ている、そんな妹の言葉を鵜呑みにしてしまったヘンリエットが悔やんでいる姿をダグラスがこっそり目にした事もあった。
二人の共通の友人が相手の男をよく知っていたという事であまり疑いを持たなかったのだろう。
後になってダグラスが調べたところ、その共通の友人は自分が生まれた時期に仕事先で行方知れずになっている。
「ハルボルト」も事故に遭った先で親族と名乗る者が遺体を引き取ってしまったようで、そちらは両親と共に探してはみたが親族の名前さえもわからなかった。
――全てが後の祭りだったのだ。
「ダ、グ」
ダグラスはその声にはっと顔を上げると、マリアが泣きそうな顔で覗き込んでいた。
そしてどこかから取って来たらしい赤い花をぽんぽんとダグラスの眉間に当てる。
「かなしい、これ、なおる」
いつの間にか眉間に皺を寄せていたのだろう、そこにマリアは花を押し当てるのだ。
自分こそがぎゅっと眉を寄せて泣きそうな顔をしながら。
ふとダグラスの全身から力が抜けた、そして底からせり上がって来たものが目頭を熱くする。
気が付けば少女を胸に抱いて涙を堪え切れずにいた。
少なからず気の合う友人でさえ、ダグラスを「同じ貴族の仲間」として扱う。
もし自分がボルジャー家とは何の関わりもないと知ったら、体のいい言葉で距離を置かれるのはわかっていた。
両親にさえ相応しい息子であるようにと気を遣い続け、自分の心がすでに悲鳴を上げていた事を知る。
何の肩書きも持たない自分を必要とされたかった、しかし愛情ある両親から離れる事も出来ず。
どうしていいか途方に暮れていた、自分はただの子供だと今漸く認められたのだ。
ぽんぽんと背中を叩く小さな手が酷く大きく自分を包むように感じられて、あれからヘンリエットにさえ出来なかった甘えを自分に許してしまう。
そしてそんな自分をもう取り繕うとは思わなかった。
何故かなどという事はわからない、ただ自分の事を何も知らないこの少女が自分の傍にいて、「ただの」自分を心配してくれている――それに心が震える。
「ありがとう。マリアのお蔭で治ったよ」
「うん」
涙を拭いマリアを腕から放すと、彼女はぱっと顔を綻ばせて笑う。
立ち上がり手を差し出せば、何の躊躇いもなく小さな手が自分の指を握った。
触れているそのぬくもりが、そして躊躇いもないその様が、大事だと感じる。
少なくとも、この少女の前で「エイブラハムと同じ優秀な息子」である必要はないのだ。
そうでなくともこの少女は自分にこうも寄り添ってくれる、笑顔を向けてくれる。
くすぐったいような喜びがダグラスの全身を駆け巡った。
嬉しくて再び泣きそうになるのを堪え、ダグラスはマリアの笑顔のままその手を放さず引き続けた。
執事が持って来たサンドイッチが乾いて行くのを目にしながら、ダグラスは零れる溜息を抑える事はしなかった。
日々遠くなっても、あの時の事は昨日のように思い出せる。
あれからダグラスを支えたのは彼女の存在だった。
試験が上手く行かなかった日、女生徒に囲まれた事から同級生に妬みをぶつけられた日、下らない話で自分の気を引こうとする少女達が鬱陶しくなった日、訳もわからず苛付いた日――どれだけ邪険に扱おうともマリアはダグラスの後を追って来た。
雛鳥が親鳥を追うようにダグラスしか頼るものがないかの如く。
そしてそれに救われて来た、いつの間にかなくてはならない存在になっていたのだ。
マリアが大事にするものを自分も守りたかった、そしてマリア自身も。
カートライト農場を自分が買い取る事で五年もの溝を埋める事が出来ると信じていた、もう待ってばかりいないで今度こそ自分から手を伸ばそうとしたあの日。
しかしマリアは一切自分に頼らず農場を手放す事を決めてしまった。
疲れ果てたようなマリアの顔を思い出してはキリキリと胸が突き刺されたように痛む。
わかっていないと思っていた、実際マリアはそうだった。
どれだけ自分一人で頑張っているつもりでも、農場をやって行くには若過ぎそして何もかもに経験不足だ。
経営に関しても素直な性格が災いして、寸でのところで農場が買収されそうだった事も一度や二度ではない。
頼って欲しかった、ただ一言昔のように心を明け渡し相談して欲しかった――ただその願いだけが何度も何度もダグラスの全身を巡る。
言われる事を願ってダグラス自身も何も言えなくなったまま、裏で手を出し続けて五年も過ぎた。
そうして自分は今独りきりに戻ってしまった。
年を重ねる度に自分で作り上げた「エイブラハムの息子」は強固になったが、それだけ孤独感も増えた。
家の為に良家の娘と知り合い、他者からの攻撃に揺るがない事業を展開させようとしていたのだ。
結婚などに夢見た事は一度もない、昔からダグラスはただ両親に報いるべく両家の納得する伴侶を得られればよかっただけだった。
貴族の娘が好むような浮名を流し、相手には紳士に努め信頼を得た。
だがそれだけだ。
付き合う娘達は相変わらず女学生のような自分だけが楽しい実のない話しかしない、もしくはダグラスの言葉にただ従順なだけ。
界隈で一番の権力を持つキャンピアン家に一人娘と縁を持てたはいいが、ラモーナも他の女性と同じく自分の人生に何の疑問を抱いた事もないような「お人形」だ。
結婚を考えて貴族の女性達と関わりを持つようになってからというもの、会う度に酷く詰まらない思いをさせられる。
まだ学生時代に付き合っていた女性達の方が話題に富んでいた。
ダグラスがそうだったように、彼女達もまた他の貴族や金持ちの男を見つけてはさっさと去って行く、その繰り返し。
ラモーナとて爵位のある根っからの貴族を紹介されたのならすぐさまそちらに飛び付くだろう、彼女の両親が悪い顔をしていないから従っているだけで内心は仕事に忙しく飛び回る男などは御免被りたいはずだ。
会う度に社交界で出会ったどの男性がどうだったのと聞かされ、彼女に対し婚約を告げる事すらうんざりとする。
こんな気分の時はいつもマリアが傍にいてくれた、ボルジャー家の息子であろうとする自分から解き放たれて心穏やかにいられた。
そう、例え付き合う相手が誰でも同じ事だとダグラスは自嘲する。
仕事から帰って来て今度こそマリアを説得しようと農場へ乗り込んで行った日、ダグラスが見たものはマリアのいない農場や家であった。
慌ててホレーショーに詰め寄れば、クリスティアンとキャサリンを寮学校に入れて働きに出てしまったのだと言う。
――あの時の絶望感は思い出したくもない。
苛立ったまま仕事の合間に人を使ってマリアを探させ、漸く見付けたその姿にそのまま苛立ちをぶつけてしまった。
どうして昔のように接してくれないのだと叫びそうにさえなった。
両親を亡くしてからのマリアは人が変わったようにさえも見える、農場や弟妹の事で必死で自分にそれを吐露しようともしない。
自分に恋などはして欲しくなかった、ボルジャー家の嫁に相応しいといわれるのは同じ貴族で、ただでさえエイブラハムは周囲の反対を押し切ってヘンリエットと結婚したのだ――それも父が並外れた成果を上げたから周囲の声が低くなっただけの事。
そして今ボルジャー家に深く関われば「攻撃」がマリアに及ぶかもしれない……そんな男に。
だからこそ両親とてマリア達からは極力距離を置き「関わりのない」ポーズを見せたのだ、ダグラスも忙しくなってからは定期的にホレーショーやバーバラにその様子を逐一聞いて両親に報告をしたが。
以前攻撃が激しくなった時には両親が懇意にしていた人達が襲われかかった事もある、人気のある所で親しくしている様子を「誰か」に見られマリア達が同じ目に遭ったらと警戒は今でも解けないままで。
しかしそうして残ったものは最早恐怖とも呼べるような焦燥感だった。
あの頃のマリアを取り戻そうとしてみたところで、マリアはその恋情すら瞳の奥に隠し笑うようになってしまった。
「おめでとう」とその祝福が、「さようなら」と別離の言葉に聞こえた。
ならば自分の思うがまま行動すればよかったのかと自問してみても、マリアの疲れた顔が浮かんでしまう。
本来のマリアはああではない事をダグラスが一番よく知っている。
好奇心が旺盛で素直で何に対しても前向きで、少々頑固で意地っ張りで負けず嫌い……そして悲しいほどに一途だ。
だからこそ弟妹や両親の遺した農場を守ろうとあまりにも必死になり過ぎたのだろう、ダグラスに恋をしてしまったとはっきり自覚したからこそ自分には頼れなかったのだとも頭ではわかる。
そうきっと、例えばマリアの感情が親愛に近くとも、マリアはダグラス自身の心を望んでくれていた。
妹のような存在として助けられるのでも、同情されるのでもなく。
そんな彼女を自分の欲望のまま押さえ付けてしまえば、結局は同じ事になったのではないか、否それよりももっと最悪な事態に陥ってしまったのではないかと思う。
今まで無意識に彼女が縛られていた事から離れ、マリアは本来の意味で大人になりつつある。
幼さの残る面影は消え、もうダグラスの目から視線を逸らしもしない。
――自分が願っているのは、それとは真逆の事。
いつまでも自分を頼り自分の手だけを必要とし、自分がいなければ立てる事も出来なくなればいいと……そう、願っているのだ。
そういう意味ではダグラスが見えるところで手を貸さなかったのはマリアの成長の為になったのかもしれない。
しかし体から心臓を抜き取られたかのような虚脱感がダグラスを襲う。
わかっている、ダグラスはそう呟いた。
必要としていたのはむしろマリアではなくダグラス自身だ。
何故か両親にさえ心の内を全て話せないでいたマリアが自分だけを頼る事に、自分自身の存在意義を見出した。
ボルジャー家の息子としてでなく、ましてどこの男の子供かもわからない者でなく、ダグラスという一人の人間としての。
今更だとダグラスは力任せに肘掛を拳で殴り付けた。
マリアをこの手に留めておけるのなら、恋人としての立場でさえも受け入れればよかったと――後悔しているのは自分の方だ。
いっそ何度忘れてしまおうとしたか知れない、子供の頃からのこの恐ろしいまでの執着を。
もうマリアは昔の少女ではないのだと何度自分に言い聞かせても、マリアが傍にいると思うだけで心が唸る。
そのままどこかへ閉じ込めて、自分の為にだけに息をさせる事を望まなかった事があっただろうか。
何度も考えた、そして何度も実行に移そうとした。
けれどマリアの笑顔が浮かんで、辛うじて手は止められただけだ。
そうでなかったのなら、まるでそれこそ「お人形」のようなマリアを見る羽目になっただろう。
どれだけ自分がそうではないと言っても、実行すればただ愛人として囲い監禁するという事になるのだから。
そうしてしまえばマリアの心は今度こそ消耗し過ぎて死んでしまうだろう。
あの子は愛されるべくして生まれたとダグラスでさえも思うのだ。
マリアはあまり好きではないようだが金糸のような髪はただただ美しく透き通るその目は見る者を惹き込み、愛らしい姿は日々美しくなり気品すら窺わせる時があった。
素直で真っ直ぐ目標に向かって行く様は凛としていながら、見る者に手を貸さずにはいられない衝動を与える。
今こそ多少丸くなったが、当時かなり気難しかったホレーショーを声を上げて笑わせたのは後にも先にもマリア以外ダグラスは知らない。
幼い頃に時折生まれた国のものだろう言葉を話すマリアを訝しげに見る者でさえ、マリアを邪険に扱いはしなかった。
学生時代にも狙う男は山のようにいたようだが、彼女自身がダグラスを追わなくなってからでさえ農場や弟妹の事に頭が一杯で誰一人付き合いのあった男はいなかったらしい。
不穏な噂のある男にはダグラスが人を使い遮って来たが、誰にも首を縦に振ろうとしないマリアに自分勝手にもダグラスは安堵していた……まだマリアは誰のものにもならないと。
そんな「妹のような」マリアへの親愛が辛うじてダグラスの理性を動かした。
――けれどマリアは、妹としても、そして自分を想う女性としても、もう戻っては来ない。
一時期自分を避けていたようにでなく、ただダグラスに向かって足を止めたのだ。
その事実がダグラスの理性を再び激しく揺さぶる。
取り戻したい、もう何でもいいからマリアの存在をまたこの手に取り戻したい。
妹でも恋人でも何でも構わない、マリアの存在がこのまま本当に自分から離れて行く事に耐えられそうになかった。
もう一度、笑って欲しい。
何も隠さずにその感情のまま、昔のように喜びも悲しみも怒りも見せて欲しい。
マリアが望むのなら女性として愛する事に努める、もし火の粉が飛んで来たらこの身を盾にしてもいい。
じわじわと自分の内が黒い何かに浸食されて行くのがわかった。
こんな風に結局マリアの全てを失う羽目になるのなら、思うままに行動してもよかったのではないか?
マリアの望む恋人にはなれそうもないからと、そしてマリアが他者に傷付けられるのを恐れていただけではなかったのか?――内の誰かがそう囁く。
ダグラスの口元が奇妙に歪んだ。
失えない、どうしても。
このまま自分から真に離れて行くと言うのなら、もうこちらから手を伸ばし捕まえる。
例えもうマリアがそれを望んでいなくとも、躊躇などしない。
この感情を何と言ったらいいかわからない、だが少なくともマリアが望むような綺麗な「愛」ではないだろう。
だからそう、ただ「妹」という距離にいて欲しかった。
自分が都合のいいように縛り付けてしまう前に。
――そうだ、自分こそが自身にとって優しい確かな存在を欲しがって駄々をこねる子供だったのだ。
「ダグラス様、宜しいでしょうか」
ノックと共に少し焦った執事の声にダグラスは返答し、その表情を見て訝しげに眉を寄せる。
下がある程度育つまで父の執事を譲り受けて以来の付き合いだが、この男のこんな表情を見たのは初めての事だった。
「マリア様の事で――」
そう言った執事の言葉にダグラスの顔色も変わった。