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10.幸せへの逃亡

 数日後マリアは以前の部屋の十倍はあろうかという部屋に移された。 


足枷がされているのは相変わらずで、窓にはご丁寧に鉄格子が嵌めてあったが、ベッドは格段に柔らかい。


しかしそれこそ「王女」扱いされているようでマリアには気味が悪かった。


大体再び多少鎖は延長されたものの、広過ぎる部屋のお蔭で端から端まで行ける訳でもないのだ。


エスレムスが言い出したのだろう、再びやって来た中年の男が彼に感謝しろとばかりに言ったのには大分腹が立った。


無駄に高価そうな家具の中、足枷の所為でベッド近くの陶製のタイルが貼られたキャビネットにしか届かない。


 身の沈みそうなベッドの腰掛けて、マリアは鉄格子の嵌められた物々しい大きな窓を見やる。


手の届く範囲にあるそれを引いたり押したりしてみたがびくともしなかった。


逃げ出す事など彼らにも想定内なのだろう。


 今朝は使用人らしき女性が来て身支度の手伝いや食事の用意をして行ったが、マリアが何を話しかけようとも無言で眉一つ動かさない始末だった。


何もかもが異常だと、思い出しては眉を寄せる。


 駄目で元々とマリアが立ち上がってもう一度鉄格子に手を掛けようとした瞬間、ドアがノックされ返答すると一番頭の痛い男が顔を見せた。


「部屋の使い心地は如何です?貴女がここに来てから家具を取り寄せて作らせました」


「ご立派な飾りね」


 ちらりと鉄格子を見て言うと、エスレムスは意に介さず中央に置かれた椅子に腰を下ろす。


彼は後から入って来た例の女性に用意されたティーカップを指に掛け、女性が出て行くのを確認してから苦笑した。


「脱走されては困りますからね。とはいえ、我が婚約者があんな所にいたなんて聞いていなかったんですよ」


 全くと息をついてエスレムスは肩を竦める。


「彼らは実に帝国の再建に熱心ではあるが、貴女への持て成しがなっていない」


 そう言われるとこの待遇の方がずっと嫌に感じるから不思議だとマリアは思った。


例え「シャーニア」が「キャスリン」であると半ば認めてしまっても、自分を「王女」とは考えたくない。


贅沢な品にただ囲まれているのは、酷く居心地が悪かった。


勿論それに憧れた時期もあったが、この五年間でとっくにそんな意識は彼方へ飛んでいた。


「貴方の持て成しも相当みたいね」


 マリアはそう言って足をぶらつかせジャラジャラと鎖で音を立てる。


だがその様子をエスレムスは酷く楽しげにさえ見守った。


どうやら例に漏れず妻は文字通り鎖ででも繋いでおきたいタイプらしい。


短く息を吐き、マリアはエスレムスからそっぽを向いた。


 窓の外は森のような木々ばかりで建物一つ見えない、丁度こちら側に面しているのが森なだけなのか実際森の中にでも建っている屋敷なのかわからなかった。


ただ森だとて外に出られるのならそれ以上の場所はないと思えるだろう。


「今日は何の御用?」


「婚約者に会いに来るのに理由が必要ですか?」


「少なくとも婚約に同意していない私には必要ね」


「貴女にお会いしたかったんですよ、マリア。散歩でも如何です?外の空気も吸いたいでしょう」


「鎖に繋がれながらお散歩とはとってもいいアイディアだわ」


 苛々と答えながらもマリアは立ち上がった。


このチャンスを逃す訳にはいかない。


「行きましょう」


 エスレムスはにこりと笑って頷き、マリアの様子を窺いながら歩み寄って、ベッドに繋がれた鎖をあっという間に自分がしていた特殊らしい腕輪に繋いでしまう。


鎖に繋がれて婚約者と名乗る男と歩くなんて、素敵過ぎるエスコートだ。


忌々しいったらないわ、とマリアはそれを見ながら毒づいた。


 エスレムスの後について部屋を出て、注意深く廊下を歩く。


全く長い廊下を右に曲がり左に曲がり出口などないのではないかと思われた時、最後に曲がった角の窓の前で彼は足を止め、大きな扉に付けられた幾つもの鍵を開けて行く。


一体何用で作られた屋敷なのかは知らないが、その物々しさには相変わらず辟易とした。


 だがすぐに開かれた扉の向こうに視線が釘付けになる。


あの部屋から見えたものとは全く違う印象で、明るい陽射しは泣きたくなるほど眩しかった。


外の世界がこれほど恋しくも美しいと、初めて感じた瞬間だった。


「歩き疲れたでしょう、あちらに座りましょうか」


 促すように言ったエスレムスにマリアも言葉なく後をついて行く。


外から見上げれば城かと思うほど大きな建物の脇には小さな庭が作られテーブルと椅子もある。


そこにはすでにお茶の支度が済んでいた。


呆れ混じりにマリアは溜息をついて椅子に座り再び森を眺める。


 間近で見ると果てが見えない深そうな森だった、しかしそれに慄いてこの場に留まる方がマリアにとっては愚かだ。


無謀でもここに居続けていると血の色まで変えられそうな予感がしてならない。


「ご気分は如何です?」


「お蔭様で最悪ね」


「欲しい物があれば何なりと申して下さい」


「疾うにご存知かと思っていたわ。長い間見張りを付けてくれていたようだから」


 エスレムスの差し金かはわからないが、彼らの言う事が正しければ少なくとも十年は見張られている。


その間マリアの行動は筒抜けだったに違いがない。


両親がどうやって他界したかも、その後弟妹を抱えたマリアがどう生活していたかも、きっと何もかもが。


「例えば……貴女が望まれる通り帰った、として。一体貴女に何が残っているというのですか?」


 微笑んだエムスレスの目は最初に見た時のようにじっとマリアの上を這い笑ってなどいなかった。


ぎゅっと眉根を寄せてマリアは彼を痛いほど睨み付ける。


確かに知られている訳だった、最早独りきりの状態になっている事などは。


 無意識に強張った体から努めて力を抜き、一瞬目を伏せたマリアは息を深く吸い込んで言う。


「それでもいいわ」


 ダグラスとエスレムスが言った通り「頑なな子供」からどうしても抜け切れない自分がいる。


両親が亡くなってからある意味酷くなったのは自覚していた。


ダグラスに振り向いて欲しくて必死になったり、そしてそれでいて農場の事を出来る限り独りで抱え込みホレーショーにさえ泣き付かなかった。


大人になろうと、なりたいと思ってやって来た事だ。


しかしあれもこれもと両手に抱えて結局転ぶ様は、足元の見えていない子供そのものだろう。


 今も同じだ、手元に確かなものが何一つないから不安で足掻いているだけ。


何度障害に当たって前を向いているつもりでも、心と体がちぐはぐだ。


正面から構える余裕というものがないから、様々な事に上手く対処が出来ない。


いつもいつもいつも、同じ事の繰り返し。


 けれど――。


「何も残らなくてもいいのよ」


 マリアは自然に力を抜き、じっと自分を見詰めるエスレムスを見やる。


「一生手にしておけるものじゃなくても。私は、一瞬でも私の望む幸せに触れられればそれでいい」


「寂しい事を仰る。貴女は私の傍にありさえすれば何なりとも手に入れられるのですよ。貴女の弟妹を呼び寄せたっていい」


 言い募るようにした彼の言葉で、弟妹が一緒に連れ去られたのではないと知りマリアは僅かにほっとする。


やはりあの二人をマリアのように強引に連れ去れない何かはあるようだった。


「貴方に寂しく思って貰わなくても構わないわ。私の人生なんだもの」


「やはり貴女は頑なだ」


 マリアはそれに苦笑して肩を竦めた。


「そうでしょうね。自分でも愚かな事だと思わないでもないわ。けれど私は、『マリア』として生きたいの」


 せめて父と母に恥たくはないのだ、それがどんなにささやかな人生であったとしても。


胸を張っては言えなくとも……それに向かって全力で日々を歩んでいたと微笑む事が出来ればいい。


自分自身で選び取りそしてその道を歩む、それも今となっては幸福だと言えるだろう。


過去がどうだからと敷かれた道に引き摺られてしまうのとは比べ物にならない。


「それが私の幸せだわ」


 愛する人達の幸せを願う、どんなに遠くに離れても。


掴んだはずの何かが離れてしまっても、そればかりを欲しがって追いかけ続けるのは疲れてしまう。


そうして足を止めたが最後もう一瞬たりとも触れられないほど遠くまで離れて行ってしまうのだ。


だから嘆くばかりでなく、気を張って足掻くばかりでなく、もっと自然に当たり前のように。


 ――そう、キャスリンは嘆く事はしなかった、いつも自分の選んだ道での幸せを真っ直ぐ見据えていた。


どっしりと構えたその姿が、今も鮮やかに脳裏に浮かぶ。


彼女も決して平穏な人生ではなかった、結婚してからでさえも。


それでも確かに娘の「今」に幸せを見出してくれていたのだ。


だからきっと母の人生は常に満たされていたとマリアは今信じる事が出来る、夫と三人の子供に囲まれ……幸せであったと。


「どうあっても、私を受け入れる気はないと?」


「そうよ」


「あの男が忘れられないのでは?」


 一瞬誰の事かと思案したが、頭に浮かんだその人にマリアは息をついて首を振った。


「確かに、彼も私の幸せの一つだわ。でも……そう、彼に寄り掛かっていても、私の人生はきっと幸せじゃない。彼にとってもね」


 全てから切り離されて、自分の足で歩きたいと今尚更にそう思う。


何かを成し遂げるのではなく、ただ一歩一歩確実に。


 マリアは項垂れるようにして上体を少し屈めると、そっと足首の輪に触れた。


「今まで彼に頼り過ぎていた、心の拠り所だったの。彼がいれば大丈夫、傍にいてくれれば私は大丈夫って、まるで呪文みたいに」


 指を這わせ、慎重に鎖の中に指を通す。


「でもそんな事を思いながら頑張ったって、彼がいなくなったらただ倒れるだけだわ。私は……王女にも王妃にもなれない。体も心も縛られずに、誇りだって持たなくていい。ただ私が思う喜びを感じて生きたいのよ。それだけはどうしても譲れない、もう自分自身でも首を絞めるのは嫌だわ」


「マリア……貴女はわかっていない」


 ゆっくりと鎖を輪から外し、それを踵で引っ掛けるようにして強く踏み付けた。


とたん確かめるようにして僅かに鎖が引かれ、マリアはエスレムスを見上げる。


「同じ事を彼も言ったわ。きっと私達は相容れないのね、彼と同じように」


 違う意味で言われた言葉をわざとエスレムスに投げた。


微かに彼の眉が寄せられたのを見て、久しぶりに胸がすっとすく思いがする。


思えば初めてエスレムスの表情らしい表情を見たとマリアは思った。


「何かを残す事に生きている意味がある。結果なくして人生半ばで倒れるなんてそれこそ何にもならない。貴女が無くすものなど一つもない、貴女はこれから大きな物を作り上げて行くのです、私と一緒に」


 それをマリアは否定しなかった、どこに人が意義を見出すかはコインの表と裏も同じ事だ。


それをただのコインだと一蹴してしまう人間とているだろう。


「それが出来る人と一緒に人生を歩めばいいと思うわ」


「貴女にしか出来ない事だ」


「平行線ね」


 肩を竦めたマリアはカップに注がれていたお茶を捨て、ポットからカップへとまだ熱い温度のそれを注ぐ。


そして彼が一瞬カップへとマリアから目を逸らした隙を見逃さなかった。


「っ――!?」


 カップを投げ付けるようにしてお茶をエスレムスに浴びせると、マリアは椅子を弾き飛ばして立ち上がり駆け出した。


「待ちなさい!」


「待ったはナシ、よっ!」


 だがすぐに駆け付けマリアの腕を掴んだ彼の向こう脛を蹴り飛ばす。


そして掴まれた腕を振り切り靴を投げ出してマリアは再び森の中へと勢いよく駆けた。















 あちこちと方向を変えながら走り、とうとう息切れしてマリアは茂みの中へとドレスの裾を掻き集めて身を寄せる。


長居はしていられないが、どれだけ森が深いかわからない以上休める場所も必要になる。


どれだけ掛かったとして泥水を啜って木の根を食べても、出るのを諦めるのだけはしてはならない。


 じんと痛んだ足を擦りながらマリアは苦笑した。


やはり自分の頑固さだけはどうも直りそうにはない。


しかし誰かに口に出来た所為か、驚くほど気持ちが軽かった。


自分自身でさえ知らず蜘蛛の巣のように張っていた「願い」から、どこか解放されたようだ。


 気負うのではない、ただ当たり前にある自分の中の望みに向かって歩けばいい。


逃げるのではないかと、なくすのではないかと、焦って走る事は自分に必要ない。


漸く心と体がぴったりと合わさった思いだった。


 今はまだああしなければこうしなければと頭で考えていても、いつかは自分自身で感じる事が出来るだろう。


その時こそ自分の幸せへの本当の一歩だと薄暗くなっていた胸に希望が射す。


「…………」


 マリアは身を屈めたままでじっと辺りに耳を澄まし、物音がないのを何度も確かめる。


ヒールが邪魔で靴を投げ出し裸足で歩くには些か酷い場所だったが、逆にそれだけ森に入る者がいないという事だ。


屋敷にいる人間がどれだけいるかわからない上に外部から集められた大量の人間が捜索する事も考えられる、しかし中の荒れ具合を見るとそうそうすぐには見付かるまい。


すでに鬱蒼と茂る枝の間から見える空は青黒く染まり始めている。


 明日の為に体力を温存するかどうかを思案して、マリアは出来る限り音を立てないよう下にあった葉っぱを掻き集めて自分に被せた。


その隙間から再び空を見上げ星と植物で方角を確かめる。


弟妹が病気に罹った時薬代として薬草摘みを手伝った事があった、その時学者風の薬師から植物の事を少し教わったのだ。


何でも聞いておくものだわとマリアは肩を竦め体を小さく丸めて目を閉じた。


朝食の残りをドレスに隠し持って来たがそれはこの先の為に取っておこうと、少し空腹を訴え始めた腹を無視する。


 疲れの所為かすぐにうとうととし始めた。


遠くに鳥の鳴き声が聞こえる、時折吹く風が葉っぱを擦る音も。


眠れる自分に苦笑しながらもほっとする、こんな事でも母に近付けたようでマリアは嬉しかった。


母のようには……「母」にもなれなくとも、自分にキャスリンの面影を見出せると安堵する。


いつか自分も母や父と同じ所へ逝く日が来たら沢山の土産話を持って行きたいと思った。


 クリスティアンとキャサリンは今どうしているだろう、ホレーショー、バーバラ、村の皆、ジャンフランコ、ホルブルック夫妻、ワンダ、……ジャック、それにダグラス。


それぞれの顔を思い浮かべ、じわりと胸が熱くなる。


もっと打ち解けたいと思った、それには自分の中にあった硬い何かを壊したいと。


そうして弱いところも曝け出せば、きっともっと歩み寄れる。


これまでのように甘え切るのではない、頼り過ぎるのでもない、ただもう少し自分の荷物に潰れかけた心も見せるだけ。


そういうようにこれからは接したい、接せられたい。


 自分が少しずつでも変わる事が出来れば、きっと状況だってもっとよくなる。


帰ったらホレーショーやバーバラにはきっと怒られるだろう、クリスとキャットはその大人びて来た心で理解しようとしてくれるはずだ。


ジャンフランコは心配し過ぎているだろうから、マリアが窘めなければならないかもしれない。


ダグラスにも心配を掛けてしまっている、お詫びと感謝の気持ちに何か婚約祝いを考えよう、それがいい。


例え胸の痛みが忘れられなくとも、彼の幸福を祝福したい。


家族同様近しい人で、愛しい人だからこそ。


裁縫の上手なワンダならきっとぷりぷり怒って喋りながら相談に乗ってくれる事だろう。


 ……ジャックは今心穏やかであるだろうか、自分を売ってしまった事に良心の呵責を感じ過ぎてなどいやしないだろうか。


彼の母親の手術が上手くいってさえいればいいが、速く彼にも無事な姿を見せたい。


マリアは僅かにだが自然に口角を上げていた。


 眠りの底に落ちる寸前、マリアの意識にまた子供の声が聞こえる。


どこか聞き覚えのある、溌剌とした少女の声だ。


何の憂いもなく誰かに向かって笑っている声に何故かマリアは全身が温かいものに包まれているような気分を味わう。


硬い地面だというのにとっぷりと体が沈み込む柔らかさを覚え、被せた葉っぱは上等な毛布のように優しい感触だ。


 今まさに自分自身の心がそんな風であるとマリアは今度はしっかり笑みを浮かべた。


そうだ、いい気分の時は大抵の事が素晴らしく感じられる。


ささくれた気持ちの時は反対に何もかもが気に障る。


 思う事の出来る人がいるこの心地よさにマリアは頬擦りするように身を寄せた。









 空が白んでいる内に起き上がったマリアは急いでパンを一口齧り葉に付いていた朝露を集めて啜ってから、目を閉じて注意深く耳を澄ませる。


まだ何も聞こえてはいないが、近くに潜んでいた場合自分の物音に気付いてしまわれる。


マリアは地面に這ってその場から急いで離れた。


ふと見下ろした豪華なドレスが所々破れ土だらけになっていて、思わず口角を上げる。


随分と自分に相応しいドレスになったものだ、と。


 方角を確かめながら一点の方向を目指した。


女のものとはいえ最近はホテルの雑用で鍛えた足だ、まだまだ足取りはしっかりしている。


それに納屋の修復費の為に自分の食費さえもつぎ込んでいた時期があった所為か空腹にも多少は慣れていた。


本当に深い森か山でない事を祈るばかりだが、あの城のような屋敷を見てからは少々自信がない。


それに人の気配を全く感じない事にも、恐らくはっきりとした出口があるにしろこちら側ではないと思わせられる。


それでもマリアは不思議と不安にならなかった。


足取りだけならむしろ軽く、羽が生えたようにさえ感じられる。


 げんきんなものだなと思いながらマリアは所々の木の下に石を置き、ドレスに付いていた宝石で傷を付けて行く。


宝石も案外役に立つとマリアが感心しながら先を進んで行くと、奥の方に一際大きな木が見えた。


両手足を大の字に広げるようにどっしりとそびえ立っている大木は、幾多にも枝分かれしている幹の部分が少し平たくなっている。


あまりにも枝分かれし過ぎてそこで幹がなくなってしまったかのように見えた。


子供なら数人はそこに登って遊べそうだなと思い、マリアはくすりと笑う。


 昔童話か何かを読んで木の上に住みたいと、大きくもない木に登って落ちかけた事があったのを思い出した。


土の部分を踏んでなるべく音を立てないように歩きながら大木に近付く。


何の本だったかは覚えていないが、やたら木の上の生活に憧れた事は何となく覚えている。


そもそも子供とはそういうものなのか、クリスティアンとキャサリンも同じような事をして散々叱られていた。


「……ぁ」


 不意にマリアの脳裏に絵が過ぎる。


一瞬で消えそうになったものを慌てて手繰り寄せ、じっと頭に留めた。


もっとずっと大きな巨木の根元にいて上を見上げている記憶――そう、これは記憶だ。


 次の絵は平たいところまで縄梯子のような物を使って登るところ。


それからそこで見渡す景色……広い森、沢山の木々、しかしそれを横切るように白い何かが木々の隙間から見える。


何度頭から引きずり出そうとしても、出て来たのはそれだけだった。


 恐らく、幼い自分はここに来たのだろう。


イメージとしては今よりも随分大きな木として残っているが、子供から見れば大人以上に巨木には違いない。


マリアは記憶を元に白い何かが見えた方向をじっと見詰めて歩き出した。


流石にここで無謀に木登りをしている余裕はない、登った時に誰かが来ればそれまでだ。


 再び日が落ちかけるまで歩いた時、とうとうそれは遠くの方で微かに聞こえる。


風に乗って確かに複数の足音と声がした。


憚らないのはどうせマリアをすぐに捕まえられると高を括っている所為だろう。


 むっと唇を尖らせて、マリアは慎重にだがしっかりと足を速める。


寝ないでもあの場所へ辿り着くのだと、何故か心が急いて来た。


一体記憶に残った白いものが何であるかさえもわからない、そしてその記憶が果たして正しいのかもわからない。


しかしマリアの足は止まらず、素足で大きな石を踏むのも構わず一直線にその場所を目指す。


 徐々に迫り来る足音は大きくマリアの耳に届き始め、それと同様に自分の鼓動もバクンバクンと一度ずつが異常に大きく高鳴り胸全体が鼓動しているようだ。


半ば早足になりながらやがてすっかり日が落ち辺りが再び闇に閉ざされ掛けて、漸くそこへとマリアは辿り着く。


しかしそれを目前としたマリアに安堵はなく、一層の焦りが襲い始める。


 目の前に広がる一面の高く蔦に覆われた白い壁を見上げ、訳もわからずマリアは壁が埋め込んである根元を手で探り始めた。


一体自分が何をしているかはわからない、しかしマリアの手は懸命にあちこちの壁の根元に動き、そして耳はわざとらしく立てたような足音を捉え続ける。


はっはっと整わないままの呼吸を短く繰り返し、マリアは爪が欠け指先が血と泥に滲むのも構わず石造りの壁を掻き毟り続けた。


 ――お願い!お願い!お願い!


最早何を願うのかも理解しないまま心で繰り返し続けたマリアの耳に突如ボコッという奇妙な音が聞こえる。


「こっちだよ」


 そんな声と共にマリアが手を掛けていた手前の石の一つがまたボコッと音を立てながら奥へと抜けて行く。


子供一人が余裕で入れるほどの穴にマリアは考えるよりも先に飛び付き体を捻じ込ませた。





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