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09.嘗ての婚約者

 あれから数日が過ぎた、一番陽の高い時にうっすら小窓が明るくなるのが確かならだが。


青年は変わらずマリアに食事を届け、そして浴場へと連れて行く。


マリアが部屋の外に出れるのは毎日その往復だけだ。


この屋敷のような場所にあとどれくらい人がいるのかはわからない、しかしマリアが浴場に出ている間少なくともベッドのシーツを変えたりする人間もいるようだった。 


 むすりとしたマリアに青年は事もなげに新しいドレスを手渡して来る。


この数日間様々な色のドレスを渡されて来たが、これはまたしてもあの「王女」と同じブルーのドレスで特に質がいい。


最初に渡されたドレス以上のふんだんにあしらわれた宝石にフリルにレース、それでいて上品で派手にも見えない。


だが悪趣味だとマリアは思った。


「香水はその中から選んで。アクセサリーはこっちから」


 まだマクドネルの方が愛想がいいのではないかと思ってしまうほどの淡々とした口調で青年が言う。


マリアがちらりと横に視線をやった先には、棚の上にこれでもかと香水瓶と宝石箱が並んでいた。


 むすりとしたままマリアが青年に視線を戻すと漸く苦笑が返る。


「今日は特に念入りに。もしどれも選べないようなら強制的に身に着けて貰うから、そのつもりで」


 言うなりマリアが反論するより早く青年はドアを閉めてしまった。


苛立ちを抑えてマリアが靴で床を何度か叩き、いつも通りにドレスを脱いで浴場へ向かう。


肌に湯を掛けながらすっかりここの匂いが体に染み付いてしまったとマリアは溜息をついた。


 しかし今日はいつもと違う、香水やアクセサリーを身に着けろと言われたのはこれが初めてだ。


どうやら漸く部屋と浴場の往復は終わりを告げるらしい。


ならばこれが最初の好機だ、全神経を使って隙を見逃さないようにしなくてはならない。


外に出れそうな場所さえ見付かればどうにでもなる。


どうしてでも、逃げ出す。


 体を洗ってから浴場から出て、体に鎖を巻く思いでドレスを身に着け髪を整えた。


香水瓶はどれを開けても鼻を遠ざけてしまうような匂いしかしない、それでも一番匂いが少ないのを選び首筋にのみ擦り付ける。


アクセサリーも一番シンプルなものを首元に掛けた。


姿見の前に立てば、向こうには肖像画の中の「気品のない」王妃がいる。


 リュティリア、と自分に出来る発音でマリアはそう呼びかけた。


――貴女はここにいて、愛する人に愛されて幸せだったかもしれない。


でも私は違うわ、愛する人は他の人の許へ行ってしまったし、きっと他の男性を愛する事はない。


もしもご慈悲があるのなら、私をせめて愛する家族の許へ帰して。


 じっと鏡を見詰めたマリアは一瞬目を伏せ、そしてふっと息をつくと挑まんばかりにドアを勢いよく開く。


「……×××」


 マリアを見て「王妃」の名を呟いた青年は無視した。


「それで、今日はどこへ行くの」


「今日は君の最初の晴れ舞台だよ」


 そんな言葉にマリアは内心酷く嫌悪しながら訝しげに青年を見る。


勝手に満足した風な青年はそのまま歩き出し、相変わらず鎖に繋がれたままマリアもそれを追った。


歩きながらふとドレスの裾から時折顔を出す足元に目をやって何度も頭の中で確認をする。


丁度今朝、鎖は見事に外れた。


未だにどうした細工が施されているのかはわからなかったが、鎖の輪を指で広げるようにして左に捻ると繋ぎ目が現れ、更にそこを擦りながら押すと外れる仕組みになっている。


最初は手間取ったが何度も繰り返して要領を覚える事で、マリアも青年には及ばずとも短時間で鎖が外せるようになった。


鎖を弄り過ぎて硬くなった指先をそっと擦る。


 ここがどれだけ高い場所だろうとどこかの部屋に大きな窓があれば当然それを覆うカーテンもある、恐らく出口は見付からないだろうが窓ならなんとかなるだろう。


後はそんな場所に連れて行かれる事を祈るばかりだ、そうでなければ逃げ出してから短時間でそれを見付け出さなくてはならない。


出来るだろうかという不安が油断すると湧き上がって来る、しかし前を向き足取りをしっかりさせる事でそれを押し殺した。


「ここだよ。そこのソファに座って」


 また長らく歩いた先の部屋は先日の部屋とも違い、どちらかといえばダグラスを待ったあの店の一室に似ている。


明るい日差しが差し込む大きな窓に素早く目を走らせ、マリアは言われるままソファに腰を下ろした。


どちらがどうとはわからないが、どちらの部屋の家具もマリアにとっては高価過ぎる物だ。


「少し待っていて、じきにお着きになると思うから」


「誰が来るの?」


 マリアの斜め向かいのソファに座った青年は初めて見る笑みを浮かべる。


尤もそうしたところで彼の気弱そうな雰囲気は変わらないのがマリアには功を奏した。


「君の婚約者だよ」


「……何ですって?」


 一瞬頭の中が真っ白になりその言葉を理解出来ないでいると、青年はその反応を取り違えたのか益々笑みを深くする。


その様子にマリアはぞっと悪寒を全身に走らせ密かに身震いをした。


完全に狂ってるわ、と緩く頭を振る。


 自分を見張っていたのなら「あの事件」を知っているはずだ、それなのに――否、それだからこそなのか。


吐き気を堪えてドレスの下に隠した拳をぐっと握った。


マリアはただ努めて思い出すまいとして、今開きそうになった記憶に急いで蓋をする。


こんな事にならなければ避けて通れたものをと忌々しく思いながら。


 相手の方もマリアの「事情」はすっかりわかっているのだろう、何せ足枷の鎖はしっかり青年に繋がっている。


鎖に繋がれた女と婚約なんて正気じゃない、マリアは嫌悪で胸がむかむかとした。


「ああ、いらっしゃったようだ」


 ノックされた扉に向かって青年が歩いて行き、それを開く様をじっとマリアが見守る。


先に顔を出したのはここに来てから青年と共に部屋にやって来たあの中年の男だった。


 そしてその後からも一人の男が入って来る、ゆっくりとマリアの視界の中へ。


「エスレムス=ジール=ワーシュタイン侯爵だ、ご挨拶を」


 そう言った中年の男にマリアはじっとその男を見詰めたまま答えなかった。


濃い金色の髪を持った優しそうな雰囲気を漂わせるハンサムな紳士といった風情だが、男のグリーンの深い瞳がじっと這うようにマリアを眺め、まるで品定めでもしているかのような印象だ。


――つまり、マリアにとってこれ以上なく最悪だという事だった。


 言葉なく見詰め合うかのような二人に、中年の男がさっと青年に目配せをしそれを受け取った青年はマリアの方へ歩み寄ってソファの足元へと鎖を繋げた。


一連の行動にやはり何の驚きもないエスレムスはマリアに歩み寄り手前で膝を折って跪くと、マリアを見上げうっとりと目を細め口元に笑みを浮かべる。


彼の目が相変わらずマリアの全身を這うのに今すぐここから逃げ出したい衝動を必死で堪えた。


「お会い出来て光栄ですよ、×××」


「私の名前はマリアよ」


 少し顎を上げてそう言うと、エスレムスはにこりと笑って頷く。


「そう聞いています。まだ貴女が慣れない内は私もその名を呼ばせて頂きますよ」


 だったら最初から呼ばなければいいのにとマリアは白々しい思いで、勝手にすればいいとばかりにエスレムスから視線を外す。


彼が正面のソファに腰を下ろすと、後から部屋に入って来た一人の女性がテーブルにお茶の支度をして出て行った。


立ったままだった男二人もそれに倣い恭しく頭を下げて退室して行く。


取り残されたマリアは腹を空かせた獣の折の中にいる気分で、気を紛らわすべく彼から視線を逸らしたままティーカップを持ち上げ弄んだ。


「果たして何年ぶりでしょうか。初めてお会いした時、貴女はまだ言葉を話し始めた頃だった」


 その言葉に思わずぎょっとしてマリアはカップから視線をエスレムスに上げる。


勿論マリアに覚えなどない、第一本当にマリアが「王女」だと証明されたところでそんな昔の事を憶えていられるとも思わなかったが。


そんなマリアを察したようにエスレムスが微笑む。


 タイプとしてはジャンフランコよりもダグラス寄りなのだろうが、元々ダグラス以外の男性には興味も覚えなかったマリアにとってそれはただ何かを裏に隠したように見える。


これを喜ぶ女性なら大勢いるだろう、しかしマリアは今ですらそんな一員にはなりたくないと思った。


むしろ全く何のしがらみがなくともこの人を好きになれないだろうというのは直感だ。


大体、男性にはもう懲り懲りとしつつある。


「憶えがなくて当然のようね」


 全てを信用した訳ではない、日記を捏造したと考えても不思議ではないのだ、それが出来るほどに彼らはキャスリンもマリアの事も知ってるのには違いがない。


胸に詰めた母と父の思い出を繰り返し引っ張り出して、確信した。


やはり二人共マリアを「王女」とさせたかった訳ではないのだと。


だからこそ、彼らの言う事を全て鵜呑みにはしていられない。


 皮肉げに言ったマリアを、だが彼はにっこりと笑う。


胡散臭い心象はマリアの中で更に増した。


「お会いしたのは数度でしたが、婚約は生まれる前から決まっていた事です。生まれたのが王女であれば、私が貴女の婚約者になると」


「それで貴方は納得していると?」


「勿論。肖像画で何度も初代王妃を拝顔しました。貴女は確かに王妃の生まれ変わりだ」


 マリアは僅かに眉を震わせてエスレムスを見上げる。


「貴方達の頭の中には王妃のお顔しかないようね。そんなにお気に入りなら、余りあるお金でどなたかの顔を作り変えたらいかが?」


 それにエスレムスは目を見開き声を立てて笑う。


「そういう意味ではないですよ。帝国を復活させようという今、貴女が初代王妃にとてもよく似ている事は実に意味があるという事です」


 マリアは呆れて首を振る、一体いつになったらマトモな話が出来るのか。


 「シャーニア」の日記の中だけで得た知識しかないが、ハーサリェルスト帝国があれに書かれた額面通りだとすれば、滅びるのが運命だったように思う。


少しずつではあるが時代は変わっている、人々が目まぐるしく動いて行く中で、そんな御伽噺のような国がいつまで存在し続けられるだろうか。


歴史は繰り返すものだ。


帝国が滅びる運命だったのは、反帝国同盟を築いたのが元帝国人だった事からも証明されている。


「同じように」国を再建出来たところで、また「同じように」滅びるだけだ。


 変わりがないとマリアでさえ思うのは、彼らがこうして初代王妃をまるで救世主でもあるかの如く話に繰り返すからだ。


「随分崇拝してるのね、貴方達の女神様はもう天に還ってしまったって言うのに」


 エスレムスは微笑みを少し収め、じっとマリアを見詰めた。


「貴女はここへ帰って来たばかりでその価値がわからないのもいたしかたないでしょう。しかし思い出さなくてはいけない。例えば貴女が王妃と似ても似付かぬ容姿だったとしても、同じ事です。マリア、貴女はここにあるべき人。――帝国の×××」


 ――唯一の女性、処女神、始まりの乙女……マリアは青年の言葉を脳裏に蘇らせ頭のどこかがぴりぴりと痛むのを感じる。


「王妃は帝王を玉座へと導いた方だ。そしてマリア、今度は貴女が私を」


 徐々にマリアの目が据わり、目の前の男を睨み付けた。


この男は「王妃」を手に入れる自分に「帝王」を見ているのだ。


ぞわりとした嫌悪感が全身を這って、マリアは手に持ったままだったカップをぎゅっと握り締める。


「幻想だわ」


 エスレムスは吐き捨てられた言葉に肩を竦め自分のカップを口に付け優雅に喉を鳴らす。


「その頑なな性質は乳母に習ったものと見えますね。貴女の乳母は愚かにもそうして頑なな人だった」


「彼女を知っているの?」


「勿論ですよ、貴女とお会いする時にもそうして頑なに貴女の傍から離れようとはしなかった」


「仮にも私の命を助けてくれた人に対して失礼じゃなくて?」


「彼女は貴女の命を救ったのではない。私達が保護する前に貴女を攫った犯罪者だ」


 きっぱりと僅かに怒りさえ込めて言うエスレムスにマリアはかっとなるのを必死になって堪える。


そうして「彼女」がキャスリンである事をもう半ば受け入れている自分に気が付いた。


「帝国が滅びた時、貴方達はどうしていたの」


 出来るだけ声が震えないよう努めて言う。


「私の祖父は反帝国同盟の人間でした、英雄とも呼ばれた」


「反帝国側だったお祖父様の孫である貴方が帝国を再建しようとするなんて」


「祖父はわかっていなかっただけです。嘗て自分もその栄華の恩恵を受けていたというのに。全く愚かな事だ」


「……お祖父様はどうしているの?」


 エスレムスは表面上穏やかな顔を変えず何の感情もないように「亡くなりましたよ」と言う。


その平淡さにマリアはとうとう顔を歪め視線を外した。


まるでそうなって当然という言い方が彼の心情を表していると思える。


じっと頬に視線が注がれているのはわかったが、マリアは暫く顔を上げる気にもならなかった。


「ご気分が優れないようですね。私と――男性とこう至近距離にいるのはまだ苦痛でしょうから」


 マリアがはっとして咄嗟に顔を上げると、エスレムスは気遣うかのようにマリアの表情を覗き込む。


だがその様子も目に入らないほどマリアはただ呆然と彼を見詰め、ドクドクと嫌に高鳴る心臓に歯を食い縛った。


「落ち着いて、紅茶を飲みなさい」


「知っているのね……」


 掠れた声を絞り出したマリアにエスレムスが僅かに視線を逸らし頷く。


「報告は受けています。大事に至らなくてよかった……とは流石に言いませんが」


「ふざけないでっ!だったら私には無理なのはわかっているはずだわ!」


 カップが床に落ちるのも構わず勢いよく立ち上がり、金切り声で叫んだとたん強い眩暈を感じて再びマリアはソファに倒れ込む。


一瞬立ち上がりかけたエスレムスは、だがすぐに制止して首を横に振った。


「不幸な事故だった。忘れておしまいなさい」


「……無理、よ」


「出来るはずですよ。昔の記憶を封印してしまった貴女になら」


 ぼんやりとする視界の中それでも睨み付けると、彼は苦笑したようだった。


「私が癒して差し上げます。他の男の事など忘れるんですよ。……貴女は私の花嫁になるのだから」


 何かを叫ぼうとして、マリアはぐにゃりと視界も頭も捩れたのを感じる。


エスレムスが近付いて来る気配に必死で逃げ出そうとしたが、膨れ上がった嫌悪感はマリアを混沌の底へと叩き落した。















 ゆっくりと覚醒したマリアは目だけを動かし部屋に一人きりなのを確認してほっと息をつく。


そしてもう一度大きく溜息をついた。


 ――あれはジャンフランコに出会う数ヶ月前の話だ、そしてダグラスと他人のような関係になって一年ほど経ちマリアがとうとう彼を追いかけなくなってから暫く。


特に何でもない日だった、役場へ行ってほんの少し帰りが遅くなりマリアは近道を通って帰った。


人気がない訳でも街灯がない訳でもない、言うなればただ、運がなかった。


 暗い道で暴漢に後ろから襲われ、その時のマリアは悲鳴を上げる事も暴れる事すら出来なかった。


完全にパニックに陥ったマリアを暴漢は手を上げるでもなく、路地の建物の壁にマリアを押し付け急くように体を弄る。


ひっひっと自分の喉が時折奇妙に鳴ったのをぼんやりと憶えていた。


その時は服を少し乱されただけで、通りかかった誰かの大声によって助かったのだ。


恐らく以前の青年の言葉から察するにあの時大声を上げたのは、マリアを見張っていた誰かなのだろう。


 それ以来マリアは自分を性的に見る男性に嫌悪を覚えるようになった。


理解するより先に体や頭が反応する、そのマリアへの「興味」に。


故にあのマリア自身には全く興味がなさそうな青年はまだ我慢が出来ても、エスレムスのような男には常に体が緊張し嫌悪感を抱き続ける羽目になる。


だからこそ自分を本当に妹としてみてくれるジャンフランコには心を許せたし、ダグラスにはそんな自分を悟られたくなくて自ら遠ざかった。


 頭の片隅に追いやっていた出来事を思い出し、マリアはエスレムスに恨めしい言葉を吐き出す。


自分が癒せるなどとは傲慢もいいところだ、ただでさえ彼には好感も持てないというのに。


 マリアは深呼吸を繰り返しながら自分の体を抱き締め、ぐったりとその身をベッドに預ける。


男を見る目が自分にはないのかと苦々しく思う。


愛する人には手酷い拒絶を受け、人として好感を抱いたジャックには裏切られ。


二人とも「人」としては充分好感を持てる優しさや誠実さがあるのはわかっているが、例えば「恋人」としてとただ考えるのならどちらにも頷き難い……そんな関係であればこそまた信頼を裏切られるのではと怯えてしまう。


きっとそうなのだ、だからこそ独りで生きようと決心をしたとたんに婚約者とは、なんという皮肉だろう。


マリアはぎゅっと目を閉じ溜息を吐き出す。


 ちっともいい事が起こらなくて挫けそうになってしまう。


起き上がって壁に背を付けると、目を閉じ無心になった。


どれくらいかそうしていて、再び目を開けて少しすっきりした思いでベッドから立ち上がり、大きく伸びをして体を動かす。


 ――だからどうしたというの。


マリアはふんと鼻を鳴らし笑った。


このままここに留まる事はあの男と結婚し本当に王妃になってしまう。


到底受け入れる事など出来ない、そして自分の望まぬ事は父も母も望まない。


揺らいではいけない、これから先何があっても、挫けそうになったとして決して挫けてはいけないのだ。


「そうよ、私はキャスリンの娘だわ。こうと決めたら梃子でも動かない頑固者の、ね」


 気をしっかり持てと自分自身に言い聞かせる。


二度とあの男の前で失態は犯せない、そうでなければ気を失ったマリアに純白のドレスを着せてあの男なら教会にでも引き摺りかねないだろう。


マリアは思わず想像しかけてぶるりと身を震わせる。


 ずっと見張っていたらしい誰かがあの時助けたマリアの貞操でも必要だというのなら、いっそあのまま投げ捨てればよかったとさえ思った。


帝王になるなどという幻想を抱き自分を我が物にしようとする男となら、さして暴漢ともそう違いはない。


 しかし恐らくあの男と関わっていればあの場所以外にも連れ出される可能性はあるだろう。


もしくはもう一度あの場所に行き、その時こそ上手くやらなければならない。


「気を失うなんて……マリア、貴女は貴族のお嬢さんじゃないのよ」


 不意にマリアの頭に声が閃く、幼い子供の声だ。


 ――私はマリア、マリア、マリア……私は……。


繰り返し自分の名を唱える声、何度も何度も、マリアと。


「私は、マリア。……その通りだわ」


 同意を得た思いでマリアは口角を上げ、にっこりとして頷いた。


 どうにかして、あの男の隙を作り出してでも見付けなければ。


何でも出来るはずだ、体当たりしてでも何でも、二度目はないと思えばいい。


貴族でも何でもない自分は「誇り高き自決」など選ばない、這ってでも逃げ出して生きるのだ。


何度邪魔をされても、今も張り詰めた精神が途切れそうでも。


 足元に目をやりドレスの裾を少し引き上げ、片足をしゅっと勢いよく振り上げる。


「蹴れたら一番いいのに」





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