嫌がらせの始まり
シスター・レイチェルがいなくなってから、サナへの嫌がらせが始まった。最初は小さなことだった。食堂で席に着こうとすると、他の候補生たちが露骨に席を移る。まるで疫病でも恐れるかのように、サナから距離を取った。
「あ、ごめんなさい。こちらの席、取っておきましたの」
エリザベスがわざとらしく席に荷物を置いた。サナが近づくと、瞬時に場の空気が変わる。教室では、サナの隣の席だけが空いたままになる。授業中も、誰もサナと目を合わせようとしない。
「ねえ、あの子の近くにいると、不幸が移りそうじゃない?」
エリザベスの声が教室に響いた。他の令嬢たちがくすくすと笑う。
「そうよね。シスター・レイチェルみたいに、左遷されたくないもの」
「あの子に関わると、王太子殿下に目をつけられるのよ」
「恐ろしいわ。できるだけ近づかないようにしましょう」
サナは黙って耐えた。しかし、その言葉の一つ一つがサナにとっては重い鎖のように付き纏った。
神官達でさえ、サナに対する態度が変わっていた。
「サナ、あなたは…その…」
1人の神官は言いかけて口をつぐんだ。王太子の威光を恐れているのは明らかだった。
「祈祷は一人でなさい。他の皆さんとは…少し離れて」
神官の言葉は、サナを更なる孤独に追いやった。
「申し訳ありません」
サナは深く頭を下げた。神官の表情には申し訳なさそうな色が浮かんでいたが、それ以上は何も言わなかった。
嫌がらせは日に日にエスカレートしていった。
「あら、サナ。あなたの祈祷書、どこかに落としたんじゃない?」
ある日の夕方、エリザベスが甘い声で話しかけてきた。その周りには他の令嬢たちが取り囲んでいる。
「え?」
サナが慌てて机を確認すると、確かに祈祷書がない。シスター・レイチェルからもらった大切な祈祷書だった。
「中庭の井戸の近くで見かけたような気がするわ」
エリザベスの言葉に、サナは急いで中庭に向かった。心臓が激しく鼓動している。しかし、井戸の近くには何もない。辺りを必死に探し回ったが、祈祷書の影も形もなかった。
「あら、おかしいわね。確かにここにあったと思ったのに」
戻ってきたエリザベスが、わざとらしく首をかしげた。その後ろで、他の令嬢たちがにやにやと笑っている。
「もしかして、井戸の中に落ちちゃったのかしら?」
クラリッサが指を唇に当てながら言った。
「まあ、大変」
「どうしましょう」
令嬢たちの声には、明らかに演技めいた調子があった。サナは井戸を覗き込んだ。暗い水面をじっと見つめると、底の方に確かに白い物体が見える。
「あ…」
サナの顔が青ざめた。
「あら、本当に落ちてるじゃない。どうするの?大切な祈祷書でしょう?」
エリザベスの声には、明らかな嘲笑が含まれていた。
「まあ、可哀想に」
「でも、どうやって取るの?」
令嬢たちは口々に偽りの同情を示した。
サナは袖をまくり上げて、井戸に手を伸ばした。冷たい水が腕を刺すように冷たい。しかし、祈祷書は思っていたより深く、指先が触れるかどうかの距離だった。
「無理よ、そんなことしても」
「諦めた方がいいんじゃない?」
「新しいのを買ってもらえばいいのよ」
令嬢たちの冷たい視線を感じながら、サナは必死に手を伸ばし続けた。肩まで水に浸かり、白い候補生の衣装がびしょ濡れになる。
「まあ、汚い」
エリザベスが顔をしかめた。
「貧民の子は、井戸に手を突っ込むのも平気なのね」
「育ちが違うのよ」
「見苦しいわ」
令嬢たちの言葉が、容赦無くサナにぶつけられる。サナの頬に涙が流れた。しかし、神様の教えが書かれた祈祷書を、シスター・レイチェルからもらった大切な祈祷書を諦めることはできなかった。
「神様…お助けください」
心の中で祈りながら、サナは更に深く手を伸ばした。ついに指先が祈祷書に触れる。やっとの思いで祈祷書を引き上げると、それはもうぐしゃぐしゃに濡れて、多くのページが破れ、文字も滲んで読めない状態になっていた。
「あら、残念。もう使えないわね」
エリザベスが偽りの同情を込めて言った。
「でも仕方ないわよね。貧民の子には、これくらいがお似合いかもしれないわ」
「そうよ。身分相応というものがあるのよ」
「神様もお怒りになっているのかもしれないわね」
サナは濡れた祈祷書を胸に抱きしめた。涙が止まらなかった。シスター・レイチェルの思い出が詰まった大切な祈祷書が、無残な姿になってしまった。
その夜、サナは一人で部屋にいた。濡れた祈祷書を慎重に乾かそうとしているが、多くのページが破れ、文字が滲んで判読不能になってしまっている。
「レイチェル様…」
サナは小さく呟いた。祈祷書の表紙に書かれた「レイチェル」の文字だけは、かろうじて読むことができた。部屋の中には、ろうそくの光だけが揺れている。他の候補生たちの笑い声が廊下から聞こえてくるが、それがサナの孤独をより一層際立たせた。シスター・レイチェルがいなくなり、神官達も王太子を恐れて距離を置くようになった。もう誰も、サナの味方はいない。
ふと、祈祷書のページをめくると、所々に読める文字があった。
「汝の敵を愛せよ」
その言葉が、滲んだインクの中からかすかに読み取れた。
「敵を…愛する…」
サナは涙を拭いながら、その言葉を反芻した。エリザベスたちを憎んではいけないのか。自分を苦しめる人々を、愛さなければならないのか。
「でも…諦めません」
サナは破れた祈祷書のページを大切そうに整えながら言った。
「神様が私をお選びになったのなら、きっと意味があるはずです。どんなに辛くても、私は信じ続けます」
窓の外から月光が差し込み、サナの涙に濡れた頬を照らした。彼女は一人、神への信仰だけを支えに、暗闇の中で祈り続けていた。
「神様…どうか私に、強い心をお与えください」
ろうそくの炎が一瞬大きく揺れ、まるで神様の答えのように部屋を明るく照らした。サナは破れた祈祷書を胸に抱き、静かに祈り続けた。