祈りの一日
まだ空が薄暗い頃、神殿の鐘が夜明けを告げる一時間前に、サナはひっそりと目を覚ました。他の聖女候補たちが眠る部屋で、一人だけ静かに身支度を整える。
神殿の廊下は静寂に包まれていた。サナは祈祷室に向かい、神像の前で一人、深く頭を下げた。
「女神様、今日もあなたのご加護を感謝いたします。私のような者をお選びいただいた事に報いるよう、精一杯努めます。」
心からの祈りを捧げていると、やがて他の候補生たちも起きてくる時間になる。
「皆さん、整列してください」
シスター・レイチェルの声が響く中、聖女候補たちが大広間に集まってくる。サナは既に正しい姿勢で立っているが、他の候補生たちはまだ眠気が残っている様子だった。
「エリザベス様、もう少し背筋を伸ばしてください」
レイチェルの注意に、エリザベスは不機嫌そうに従う。
「こんな朝早くから祈祷なんて、本当に必要なのかしら」
エリザベスの小さな愚痴を聞いて、周りにいた取り巻きたちもクスクスと笑った。
讃美歌が始まると、サナは心を込めて歌う。美しい旋律に合わせて、神への感謝の気持ちを込めた。しかし、周りを見回すと、口だけ動かして実際には歌っていない候補生や、あくびを隠そうとしている者もいる。
「しっかり声を出しなさい!」
シスター・レイチェルの叱責の声が響く。彼女たちの朝はこうして始まるのだ。
朝の祈祷が終わると、候補生たちは教室に移動して神学の授業を受ける。
「今日は『慈悲の教え』について学びましょう」
老いた神官が教鞭を取る中、サナは身を乗り出して聞いている。一方、後ろの席では貴族の令嬢たちがひそひそと私語を交わしていた。
「昨日の舞踏会の話、聞いた?」
「ええ、素敵だったでしょうね。私たちもこんな所にいないで、社交界にいるべきよ」
サナは振り返りたい気持ちを抑えて、授業に集中する。神官の言葉一つ一つを心に刻み、小さな羊皮紙に丁寧に書き留めている。
「サナ、君はどう思うかね?」
突然指名されて、サナは慌てて立ち上がった。
「はい。慈悲とは、困っている人を助けることだけでなく、その人の気持ちを理解し、共に苦しみを分かち合うことだと思います」
「素晴らしい答えだ」
神官は満足そうに頷く。
しかし、他の候補生たちからは冷たい視線が向けられた。
「随分と熱心じゃない?」
誰かがそう言うと、エリザベスは目を細めた。
「貧民は考えることが少なそうで、羨ましいわ」
昼食後、候補生たちは神殿の清掃や貧しい人々への施しの手伝いをする時間がある。
「掃除なんて、召使いがやることでしょう」
エリザベスは渋々ほうきを手に取った。他の貴族出身の候補生たちも、慣れない手つきで清掃道具を扱っている。一方、サナは慣れた手つきで床を磨き、祭壇の装飾品を丁寧に手入れしていた。貧民街で育った彼女にとって、日常そのものである。
「サナ、あなたは本当に働き者ね」
シスター・レイチェルが感心したように声をかける。
「いえ、当然のことです。女神様にお仕えするのですから」
サナの答えに、レイチェルは優しく微笑んだ。
夕食の時間になると、候補生たちの間の格差がより明確になる。
「この食事、家の召使いが食べているものより粗末だわ」
誰かが小声で文句を言うと、周りの令嬢も頷いた。確かに、神殿の食事は質素である。しかし、サナにとってはこれでも十分すぎるほど豊かな食事だった。
「女神様に感謝」
サナは心から祈りを捧げてから食事を始める。一方、他の候補生たちは形だけの祈りを済ませると、不満そうに食べている。
「私たち、いつまでこんな生活を続けなければならないの?」
「聖女になれば、王宮で暮らせるのよね?」
貴族の令嬢たちの話題は、地位や名誉のことばかりだった。
夕食後、候補生たちは自由時間を与えられる。多くの者は部屋で休息を取ったり、手紙を書いたりしているが、サナは一人、小さな部屋でろうそくの明かりを頼りに祈祷書を読んでいた。
文字を読むのは決して得意ではない。貧民街では教育を受ける機会が少なく、基本的な読み書きすら完全ではない。それでも、女神様の教えを学びたい一心で、一文字一文字を丁寧に追っている。
「『汝の敵を愛せよ』」
サナは声に出して読みながら、その意味を深く考える。そして、他の候補生たちの軽蔑的な態度を思い出した。それでも、彼らを憎んではいけないのだろうか。
「女神様、私はまだまだ未熟です。どうか正しい道をお示しください」
サナがそう呟き、頭を下げた時だった。
「サナ」
扉を叩く音がして、優しい女性の声が聞こえた。
シスター・レイチェルだった。
「戸締りの時間だというのに、申し訳ありません!」
サナは慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「そんなに畏まらなくても大丈夫よ。今日も遅くまで勉強しているのね」
「はい。まだまだ知らないことばかりで……申し訳ありません」
「謝ることはないわ」
レイチェルは微笑みながら、サナの隣に座る。部屋の中を見回すと、祈祷書のページには歪な文字でびっしりと書き込みがされていた。
「あなたの努力する姿勢は、神殿の皆が認めているのよ。朝は誰よりも早く起きて祈りを捧げ、夜は遅くまで勉強している。その謙虚さと真摯さこそが、女神様がお喜びになることなのよ」
「ありがとうございます」
サナの目に涙が浮かぶ。候補生以外の神殿の人々は、サナの出自を知っているが、彼女のことを見守ってくれていた。
「あなたは本当に女神様のことを第一に考えているのね」
レイチェルの言葉に、サナは首を横に振る。
「いえ、私はただ……女神様が私を選んでくださった意味を知りたいだけなのです。なぜ私のような者エを…。」
「女神様のお考えは、私には分からないわ。でも、きっと意味があるのよ」
レイチェルは優しく微笑んだ。
「前もって言っていたけど、明日は王太子殿下が視察にいらっしゃる日よ」
レイチェルの言葉に、サナは身を固くする。
「殿下は、信仰に厚い方だと聞いています。聖職者の出自をとても重視されている方だとも…。私のような者を、殿下はどのようにお考えになるでしょうか?」
「そうね。でも。緊張することはないわ。あなたはありのままでいればいい。女神様があなたを選ばれた理由を、きっと殿下にも分かっていただけるはず」
「はい。頑張ります」
サナは決意を込めて頷いた。
レイチェルが部屋を出て行った後、サナは再び祈祷書を開く。明日へ備えて、女神様の教えをより深く理解したいと思ったからだ。
「女神様、どうか私をお導きください」