女神の信託
教皇の到着という前代未聞の出来事は、話が瞬く間に神殿の内外に広がった。
「大変だ!大変だ!」
神殿の使用人の一人が、息を切らして街へと駆け出していく。
「教皇猊下が!教皇猊下が神殿にいらっしゃった!」
「何だって?」
街角で野菜を売っていた商人が振り返った。
「教皇猊下が信託をお伝えになる!神の直接の意志が下された!」
使用人の叫び声に、市場全体がざわめいた。
「信託だと?」
「本当なのか?」
商人たちは商品を放り出して立ち上がった。畑で働いていた農民たちが鍬を投げ捨て、洗濯をしていた女性たちが盥を置き去りにして神殿に向かった。
「急げ!もう始まってしまう!」
「神の信託を聞き逃すわけにはいかない!」
「こんな機会は二度とない!」
街中の人々が同じ方向に走り出した。年老いた祖母は孫の手を引き、商人は店を閉めることも忘れて駆け出していく。貴族の館からも、平民の長屋からも、老若男女問わず人々が続々と神殿に向かった。普段なら決して交わることのない身分の人々が、この日だけは同じ目標に向かって殺到している。
「馬車を出せ!」
「間に合うのか?」
「とにかく急げ!」
街道は神殿に向かう人々で溢れかえった。馬車、徒歩、中には馬に乗って急ぐ者もいる。埃が舞い上がり、蹄の音と車輪の音、そして興奮した人々の声が入り混じった喧騒が響いた。
皆が同じ目標に向かって殺到している光景は、まさに壮観だった。
神殿の大広間は、もはや人で埋め尽くされていた。
「押さないで!」
教皇の到着を知って駆けつけた近隣の信者たちが加わり、広間は立錐の余地もないほどだった。
「何とか中を見せてくれ」
「お願いします」
入りきれない人々は、広間の外の廊下、中庭、さらには神殿の外にまで溢れ出していた。窓に顔を押し付けて中の様子を窺う者、屋根に登って覗き込む者まで現れる始末だった。
「もう入りきらない…」
入り口で整理をしようとしていた修道女が困り果てた。神殿の周りは、まるで祭りのような騒ぎになっていた。
「静粛に」
教皇の侍従が威厳ある声を上げたが、人々の興奮は収まらない。様々な憶測が飛び交った。信託が下されるのは、通常、世界的な大事件の前触れとされていた。前回の信託から五十年、人々は不安と期待を抱きながら教皇の言葉を待っていた。
「道を開けろ!」
その時、広間の入り口がさらにざわめいた。威圧的な声と共に、金色の髪の美しい青年が現れる。レオン王太子だった。その後には数名の侍従と護衛が続いている。
「殿下がいらっしゃった!」
人々は慌てて道を開けた。王太子の登場は、さらなる混乱を神殿にもたらした。
レオンは教皇の突然の来訪を王宮で知り、急遽神殿に駆けつけたのだった。彼の表情には明らかな焦りがあった。事前に何の連絡もなく教皇が現れ、しかも信託を告げるなど、完全に想定外の事態だった。
(一体何が起こっているのだ…なぜ事前に連絡がなかった)
レオンの心中は複雑だった。教皇の動向は通常、王室にも事前に知らされるものだった。それが突然現れ、信託を告げるなど…何か重大な意図があるに違いない。
「教皇猊下」
レオンは教皇の前で深く頭を下げた。
「レオン殿下。よくいらっしゃいました」
教皇は穏やかに微笑んだ。
「私も信託をお聞かせ願いたく」
レオンが申し出た。彼は信仰の厚い自分こそ、この神聖な信託を最前列で聞くべきだと思っていた。王太子として、そして未来の王として、神の意志を直接聞く権利があるはずだった。
(民草が騒いでいるが、真に神の意志を理解できるのは高貴な血筋の者だけだ)
レオンは自分の立場に絶対の自信を持っていた。
「もちろんです、殿下」
教皇は静かに頷いた。しかし、その表情には、どこか複雑な色が浮かんでいた。まるで、レオンの内心を見透かしているかのような。
レオンが最前列に位置すると、候補生たちの間にさらなる緊張が走った。
「皆の者」
教皇が壇上の中央に立つと、千人を超える人々が完全な静寂に包まれた。外から聞こえていた街の喧騒も、まるで世界全体が息を止めたかのように静まり返った。
「今より、偉大なる慈悲の女神の信託を伝える」
人々は息を殺した。赤ん坊でさえ泣き声を上げない。神の直接の意志を聞くという、人生でただ一度の機会だった。
「心して聞くがよい。この言葉は神の口から直接発せられたものである」
教皇の声が一段と厳粛になった。
「慈悲の女神は語られる」
教皇はそう告げ、神殿全体をゆっくりと見回した。千人を超える人々の一人一人を見つめるように、丁寧に視線を巡らせている。
「慈悲の女神は、この神殿の中に真の聖女を見出されたと告げられた」
教皇の言葉に、広間全体が静寂に包まれた。針の落ちる音すら聞こえそうなほどの静寂だった。
エリザベスは、胸が高鳴り、手に汗を握っている。もしかすると自分が選ばれるのではないかという期待で、心臓が爆発しそうだった。
(真の聖女!私よ、きっと私よ。伯爵家の血筋、美しい容姿、すべてが完璧な私を神様が選ばないはずがない)
クラリッサやマリアンヌも同様だった。自分たちこそ、神に選ばれるに相応しいと確信していた。
(私の方が美しいわ)
クラリッサは自分の髪を直しながら思った。
(いえ、私の方が信仰深いもの)
マリアンヌは胸の十字架を握りしめた。
王太子レオンは腕を組み、威厳を保って教皇の言葉を待っていた。信託の内容が、自分の統治にどのような影響を与えるかを考えていた。
サナだけは、ただ静かに祈っていた。自分のような者には関係のない話だと思いながらも、神の言葉を聞けることに深い感謝を捧げていた。
(神様、このような神聖な場に立ち会わせてくださり、ありがとうございます)
そして教皇の視線が、広間を一周し終えた。しかし、その青い瞳は候補生たちの誰にも留まらなかった。
教皇の視線は、さらに奥へ、さらに隅へと向けられた。
「神は語られる」
教皇の声が響いた。
「『見よ、わが愛する娘を』」
教皇がゆっくりと腕を上げ、その手を差し伸べた。
千人を超える人々の視線が、一斉にその手の先を追った。
そこには、薄暗い隅で小さくなっている一人の少女がいた。
サナだった。
石を投げられた傷で顔に血の痕があり、粗末な衣服は汚れている。他の人々に押し潰されそうになりながら、それでも静かに祈りを捧げている少女。
広間が大きくどよめいた。
「えっ?あの子なの?」
「見えないよ!」
「なぜあそこに…」
人々は混乱した。なぜ教皇の手が、あの見窄らしい少女を指しているのか。
エリザベスの顔から血の気が引いた。
「まさか…いえ、そんなはずは…」
クラリッサも呆然としている。
「間違いよ、きっと間違い…」
しかし、教皇の声は力強く続いた。
「『彼女の心には、真の慈悲が宿る』」
サナ自身も信じられずにいたが、確実に自分を指している手に気づいた。
(私?私を指していらっしゃるの?)
「『しかし、彼女の魂は誰よりも清く、その祈りは天に届いている』」
教皇が一歩前に出た。
「見よ、すべての者よ!」
教皇が両手を広げた。その瞬間、神殿の天井から一筋の光がサナを照らした。まるで天が開けて、神の光が直接降り注いだかのようだった。光の中で、サナの粗末な衣服が輝いて見えた。
「彼女こそ、慈悲の女神が選びし者!」
教皇の宣言が神殿に響いた。
光はさらに強くなり、サナの周りだけが神々しい光に包まれた。その光景は、まさに天使の降臨を思わせるものだった。
「王国を救う、真なる聖女なり!」
天からの光がさらに強くなり、サナの姿が光の中で神々しく輝いた。
広間は完全な静寂に包まれた。そして次の瞬間、爆発的な騒音が起こった。
「そんな…」
「あの子が…」
「神の光が…」
「奇跡だ…」
人々は信じられないという表情と、畏敬の念を同時に抱いていた。神の奇跡を目の当たりにして、どんな疑いも消え去ろうとしていた。