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神の代弁者

朝もやがまだ神殿を包んでいる早朝、サナは小さな布の包みを背負って部屋を出た。その包みには、破れた祈祷書とわずかな着替えしか入っていない。昨夜は一睡もできず、目は涙で腫れ上がっていた。

「ついに出て行くのね」

廊下でエリザベスと数人の候補生たちが待ち構えていた。面白い見せ物を見るかのように、彼女たちは列を作って立っている。

「早く出て行って。あなたがいるだけで神殿が穢れるの」

クラリッサが嫌悪感を露わにした。

サナは何も答えず、静かに歩き続けた。涙はもう枯れ果てていた。

「無視するなんて、最後まで生意気ね」

「やっぱり育ちの悪さは隠せないのよ」

候補生たちの罵声が後ろから飛んでくるが、サナは振り返らなかった。

神殿の中庭に出ると、そこには更に多くの人々が集まっていた。神官たち、修道女たち、そして候補生たちが皆、サナを見つめている。その視線は一様に冷たく、軽蔑に満ちていた。

「ほら、泥棒の登場よ」

誰かが囁いた。

「あんな小娘が聖女候補だったなんて、笑い話にもならないわ」

「神殿の恥さらしね」

サナが中庭を横切ろうとした時、突然小石が飛んできた。

「出て行け!」

一人の候補生が叫びながら石を投げつけた。石はサナの肩に当たり、鈍い痛みが走る。

「泥棒!」

今度は別の候補生が石を投げた。それが合図だったかのように、次々と石が飛んでくる。

「この恥知らず!」

石の雨がサナを襲った。小さな石から拳大の石まで、容赦なく投げつけられる。サナは腕で顔を庇いながら、それでも歩き続けた。

「痛い…」

血が額から流れ落ちたが、サナは立ち止まらなかった。神殿の門はもうすぐそこに見えている。

「これが当然の結果だ」

神殿の門の前には、エドガー神官が腕を組んで立っていた。石を投げることはしないが、それを止めようともしない。

「身の程を知るがいい」

他の神官たちも同様だった。冷たい目でサナを見下ろしているだけで、誰も暴行を止めようとしない。


しかしその時、神殿の外が急に騒がしくなった。

石を投げていた候補生たちが、外の様子を窺い始める。

「何事だ?」

神殿の門の向こうから、大勢の人々の足音が聞こえてくる。しかし、それは普通の参拝客の足音ではなかった。規律正しく統制された、軍隊のような足音だった。馬の嘶き、車輪の音、そして多くの人々の話し声が混じり合っている。その音は次第に大きくなり、まるで大軍が神殿に向かってくるかのようだった。

「まさか…」

エドガー神官の顔が青ざめた。

「こんな朝早くに、これほど多くの人が神殿に向かってくるなど…」

外の騒音は次第に大きくなっていく。明らかに尋常ではない事態が起こっているようだった。

「ラッパの音が…」

一人の修道女が震え声で呟いた。

確かに、遠くから荘厳なラッパの音色が聞こえてくる。それは儀式用の特別なラッパで、重要な人物の行「とても長い行列が神殿に向かってきています」

門番の一人が震え声で報告した。

「行列?誰の?」

エドガー神官が詰問した。

「それが…旗が見えるのですが…」

門番の声が途切れた。恐怖で言葉が出ないようだった。

「なんだあれは!?」

「まさか…!」

神殿全体に衝撃が走った。候補生たちが投げていた石は地面に落ち、誰もが門の方向を見つめた。

「…教皇旗だ!教皇アゼル=セレフィウス様のご来訪だ!」

教皇アゼル。現教皇にして、名目上すべての王国・貴族・神殿の上位に立つ絶対的な権威者だ。神官たちは慌てふためいた。教皇の訪問など、通常は何ヶ月も前から準備が必要な一大事だった。赤い絨毯を敷き、最高級の祭壇飾りを用意し、特別な儀式用品を準備し、神殿全体を清めなければならない。

「そんな…なぜ教皇猊下が?」

「事前の連絡もなしに?」

神官たちの動揺は激しく、中には腰を抜かしてしまう者もいた。

「どうする?準備が何も…」

「衣装も整えていない!」

「急いで準備を!」

エドガー神官が叫んだが、もう時間がない。外の行列の音はすぐそこまで近づいていた。

サナだけが、呆然とその場で立ち尽くしていた。


「止まれ!」

神殿の正門前に、まず先駆けの騎士団が現れた。純白の鎧に身を包んだ聖騎士たちが、完璧な隊列を組んで進んでくる。その数は百を超え、全員が同じ動作で馬を進めている様子は圧巻だった。

「あれは聖騎士団…!教皇直属の…」

聖騎士団は教皇の護衛を務める最精鋭の騎士たちで、その実力は一国の軍隊に匹敵すると言われていた。彼らが現れるということは、間違いなく教皇自身がいるということだった。

続いて現れたのは、高位神官たちの一団だった。各地の大神殿から選ばれた最高位の神官たちが、豪華な法衣に身を包んで厳かに歩いている。地位の高いエドガー神官ですら、彼らの前では末席も末席の存在だった。

「教皇猊下のお成りです!」

先駆けの神官が威厳ある声で告げた。その声は神殿全体に響き渡り、すべての騒音が一瞬で止まった。

教皇の馬車が姿を現した。

それは馬車というより、移動する神殿と呼ぶべき荘厳さだった。純白の車体には金糸で複雑な神聖文字が刺繍され、車輪には巨大な宝石が散りばめられている。朝日を受けてキラキラと輝くその様子は、まるで天国の馬車のようだった。

人々は息を呑んだ。これほど荘厳な馬車を見たことがある者は、神殿にはいなかった。


馬車の扉が厳かに開かれると、まず高位の神官たちが降りてきた。彼らもまた、普通の神官とは格の違う豪華な法衣に身を包んでいる。

そして、ついに教皇自身が姿を現した。


教皇アゼル=セレフィウス。


純白の法衣に身を包んだその姿は、まさに神の使いそのものだった。しかし、何より人々を圧倒したのは、教皇自身の美しさだった。

年若いながらも、その全身から発せられる威厳は圧倒的だった。神々しいまでの美しさを持ちながら、同時に近寄りがたい神聖さを纏っている。

エリザベスたちは教皇の姿を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。

「まあ…なんて美しい方…」

彼女の声は震えていた。今まで見た中で最も美しい男性だった。

「あのような方が現実にいらっしゃるなんて…」

クラリッサも恍惚とした表情を浮かべていた。教皇の一挙手一投足が、輝いて見えるようだった。候補生たちは皆、教皇の美しさに心を奪われていた。これまで王太子に憧れていた彼女たちでさえ、教皇の前では完全に魅了されてしまっている。

「教皇猊下!」

エドガー神官をはじめ、すべての神官が地面に額をつけた。修道女たちも、候補生たちも、皆が平伏している。

サナも慌てて跪いた。石を投げられて傷ついた体に激痛が走ったが、教皇の前では些細なことだった。

しかし、平伏しながらも、サナは奇妙な感覚を覚えていた。

(この方…どこかで…)

サナは混乱していた。教皇の顔に、なぜか見覚えがあるような気がしてならない。しかし、そんなはずはなかった。教皇のような高貴な方と、自分のような貧民街出身の少女が出会うなど、ありえないことだった。

「面を上げよ」

教皇の声が響いた。その声は若々しいながらも、絶対的な権威を含んでいる。しかし、サナにはその声にも聞き覚えがあった。人々がゆっくりと顔を上げると、教皇は神殿の様子を見回していた。その視線は慈愛に満ちているが、同時に全てを見通すような鋭さも持っている。

そして、血を流して立っているサナの姿に目を留めた。その瞬間、教皇の表情に僅かな変化が見て取れた。

「なんの騒ぎだ?」

教皇の問いかけに、エドガー神官が震えながら答えた。

「は、はい。こちらの者は貧民街出身の身分の低い者で、神殿の聖鈴を盗んだのでございます。」

「盗み?」

教皇の眉が僅かに上がった。

「はい。聖女候補でありながら、神聖な神具を盗んだのです」

エドガー神官は汗をかきながら説明を続けた。

「証拠もあります。本人のロッカーから聖鈴が発見されました。今日を持って追放されるところでございました」

「身分の低い者だから盗みを働く、と?」

教皇の声に、僅かな冷たさが混じった。

「は、はい。育ちが違いますゆえ…」

「ふむ」

しかし、教皇は首を傾げた。

「不思議な事を言うのだな」

その言葉に、神官たちは困惑した。教皇の真意が読めない。なぜ盗みを働いた罪人を庇うような発言をするのか、理解できなかった。

「猊下…?」

エドガー神官が恐る恐る尋ねようとしたが、教皇は手を振った。

「まあいい」

教皇の表情が厳粛になった。

「私がここに来たのは、別の理由だ。この神殿に信託が下された」

教皇の言葉に、神殿全体がざわめいた。神の信託とは、神が直接人間に伝える意志のことで、滅多に起こることではない。

「神の信託…」

「まさか、この神殿に!?」

人々の間に衝撃が走った。

「私自らそれを伝えにきたのだ」

「信託を?」

人々の動揺は激しかった。信託が下されることは数十年に一度あるかないかの奇跡だった。前回の信託は、現在の王朝が成立した時のことで、もう五十年も前のことだった。

「何の信託でございましょうか?」

エドガー神官が震え声で尋ねた。

「それを今から告げる」

教皇は厳かに答えた。

「人々を集めるがいい」

教皇が命じた。

「偉大なる女神の信託である。何人にも聞く権利がある」

そして、教皇の視線がサナに向けられた。

「もちろん、そこの娘もな」

その言葉に、エドガー神官は慌てた。

「しかし、猊下。この者は盗みを働いた罪人でございます」

「構わん」

教皇の声は断固としていた。

「神の信託の前では、身分も罪も関係ない。すべての人間が平等に聞く権利を持つ」

「ですが…」

「私の言葉に異議があるのか?」

教皇の声が低くなった。その瞬間、神殿全体に重い沈黙が降りた。

「い、いえ…滅相もございません」

エドガー神官は慌てて否定した。教皇の言葉に逆らうなど、考えられないことだった。

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