『迷い猫』Ⅱ
ダリッド王国からソレヴィーユ帝国に入ってしばらく進んだ所で、目の前に眠る少女が目を覚ましたように身動きをしたのが見えた。
「起きたか?もうすぐ我が国の宿場町に着くぞ。」
「!!…セフィード・オスカー…様?」
「一介のメイドが、私の名を知っているのか。」
驚いたように黒目を大きく見開いた彼女に、私は感心しつつ尋ねた。
主催者である伯爵たちは誰一人として私が誰かを自己紹介するまで気付かなかったのに、彼女は私を知っているのか?
「・・・まあ、たまたま?ですが・・・。」
なんだか言いにくそうに瞳を伏せる少女の姿が、どことなく子供らしくなくて息を飲む。
(私が他国の貴族たちに自己紹介をしていた場面に居合わせたのかもしれないな。)
「君は…ハマード伯爵邸を逃げ出した。それで間違いない?…ああ、引き返して君を引き渡そうとは考えていないから安心して。」
私の質問に、少しの間窓の外の景色を確認するように見つめた彼女は、真っ直ぐにこちらを見据えて頷き、頭を下げた。
「逃がして下さり、ありがとうございます。これ以上、オスカー様にご迷惑をかけるわけに参りません。次の宿場町で私は降ります。」
粛々と頭を下げたその首元から流れた遅れ髪の間に、青くくっきりとした痣が見えて苦しくなる。
(クソ狸め。こんな幼い子供にどれだけの体罰を?)
「行くあてはあるのかい?君は今、熱もあるし具合も悪い。そんな子供を放ってはおけないよ。もうここは、私の大事な領地内なんだ。…どうだろう。君の行き先が決まるまでの間、私の邸に来ないか?私の話し相手として優遇するよ。」
「…話し相手…ですか?」
キョトンとした表情が、やっと子供らしい表情だったので、笑ってしまう。
「ああ、実は私はこう見えても公爵家嫡子でね。愚痴とか悪口とかを吐き出す場所がないんだ。ここにいる執事も私を子ども扱いしかしない。何も分からない幼い少女になら、多少の愚痴を吐きだしても問題はないだろう?」
「…お貴族様って…大変ですね…」
眉尻を下げ同情めいた表情を作った少女が、私を探る視線を投げてくる。
私の真意を探っている目だ。
それは普通の幼い少女の目ではない。人間を信用していないその目に、胸がきしんだ。
「私の所にいる間は、君をあの狸伯爵から隠してあげると約束するよ。」
「…!!!」
「せっかくここまで逃げられたのだから、安全が保障されてから動いても遅くはないでしょう?温かいご飯もお風呂もベッドも付ける。勿論、君を監禁したりはしないし、君の自由は保障する。」
「贅沢すぎます!」
思わずといったところだったのだろう、大きな声を出した彼女がはっとしたように視線を彷徨わせ、俯いた。
その仕草が、やっと彼女の本当の姿を垣間見たようで、私は嬉しくなった。
「決まり。ところで、君の名前は?」
*-*-*-*-*-*
ソレヴィーユ帝国オスカー領に入ってすぐの宿場町。
ここから邸までは3時間ほどで着くのだが、時間も遅くなることと、本来ならダリッド王国内にある宿屋に一泊する予定だったので、オスカー邸の使用人たちの混乱を避ける為にも宿屋に泊まることにした。
邸の執事マルクスに『使用人たちを寝不足で殺す気ですか?』なんて凄まれたら、了承するしかなかった。
領主の嫡男が突然現れたことに、宿屋の店主は驚きを隠せないままに営業スマイルを貼り付けた。
「こんな深夜にすまない。隣国からの帰りでね。」
「ご公務ですか、お疲れ様です。何か他にご用意するものはありますか。」
マルクスと話す店主は領主の息子の後ろにいる黒髪黒目の少女を黙認しつつ、服を用意しようかと言っているのが分かった。
ここは素直に甘えておこう。
変なデザインの暗い色のワンピースは彼女のサイズに合っていない上に、似合っていない。
なにより、あの伯爵邸のメイド服だと分かるそれは、私にとっても気分が悪い物でもあった。
「彼女の服を頼めるかい?あと、悪いけど簡単な軽食でいいから用意出来るかな?彼女が腹を空かせているんだ。ああ、護衛たちにもお酒を出してあげて。」
「はい。すぐに準備します。ご用意する部屋にはお風呂もありますので、ご自由にお使いください。」
「ああ、助かる。」
店主から部屋の鍵を受け取ると、少女の手を握って階段を上がる。
マルクスが咳払いをして、後ろをついてきた。
「なんだ?」
「まさか、ご一緒の部屋でお休みになるおつもりですか?」
「え?!」
マルクスの言葉を聞いて、少女が驚きの声を上げる。
「別に問題ないだろう?」
「わ・・・私は廊下で寝ます。」
黒髪の可愛らしい少女が廊下に横たわっている姿を想像し、首を振る。
「・・・他の宿泊客にも迷惑だから、クロエも部屋で寝て。隣の部屋も取ったから。」
「…物置ではないお部屋には慣れていません…。」
「普通の部屋のベッドで寝ることに慣れて欲しいな。」
私の言葉に戸惑いながらも、渋々頷く彼女に笑顔を向ける。
馬車の中で名前を聞けば、『名前はありません。黒髪黒目だからって理由でクロと呼ばれていました…』と少女は答えた。
物心つく前に奴隷商に売られた彼女に、名前なんてなかったのだ。
頭では分かっているが、納得が出来ない私は、彼女に名前を与えた。
『君は今からクロエリアだ。愛称はクロエ。いいね。』
初めてちゃんとした名前を与えられたと、彼女はうっすら頬を染めた。
そのちょっとした表情の動きが、私には嬉しいと思えた。
「気乗りしなかったパーティーの出席だったけど、帰りに良い拾い物をした気分だよ。私はずっと可愛い妹が欲しかったんだ。」
「殿下の振る舞いはまるで捨て猫を拾った子供のようですが?」
マルクスの言葉に、自分でも「確かに」と思った。
クロエはまるで『野良猫』のようだと思った。
クロエがお風呂に行っている間に、マルクスに尋ねる。
「奴隷紋ってどうやったら消せると思う?」
私の質問に、肩眉を上げた彼だったが、少し考えて答えた。
「王城の魔導士ならば。もしくは…西の森に住まうという魔女なら…消せるやもしれませんね。」
真面目一辺倒だと思われたマルクスの口から、居るかどうかも分からない『魔女』という単語が出てきたことに驚きを覚える。
そんな私に、マルクスは鼻で笑うと
「『女神』を見つけたかもしれない今なら、『魔女』が居てもおかしくはないでしょう?」
面白がるように、私を見下ろすのだった。
(とはいえ、いるかどうかも分からない魔女を探すには時間がかかるだろう。)
馬車の中で奴隷紋を目視した際、なんとなく嫌な予感がした。
それは、彼女がどうとかではなく…奴隷紋の禍々しさと相反する力のようなものを紋の下から感じた気がしたからだった。
まるで、何かを隠すために付けられたような奴隷紋に、良い想像が出来ないでいる。
ふーっと息を吐きだし、ふとクロエが風呂場で困っているのではないかと不安になり、席を立つ。
そんな私をマルクスは「おやおや」と微笑むだけだ。
父親オスカー公爵の右腕でもある執事のマルクスはいつもそうだ。
私があからさまに間違いを犯していない限りは見守りに徹する姿勢を見せる。
私が望めば手を貸してくれるのだが、自分から私の為に動こうと提案はしない。
そんな彼が、クロエを見た瞬間から私を試すような言葉をいくつか発していることに、私は気付いていた。
クロエから浴室を追い返されたので、手慣れた動きで荷ほどきをしていくマルクスに声を掛ける。
「ねえ、マルクスは私を試しているように見えるのだけど、今の所私は及第点くらいは取れているのかな?」
私の問いに、彼は動きを止め、こちらを見た。
そして、腕を組み、顎に片手を当てる。
これは彼が何かを思案しているときの癖だ。
「セフィード殿下。少しだけお時間を頂戴しても宜しいでしょうか?」
「ああ。」
私は部屋に設えてあるソファへ歩みを進めた。