『彼女には秘密で』
ハマード伯爵邸の追手だった男が処刑されて1か月が経った。
ここまで大きな動きを見せなかったハマード伯爵邸から、1通の手紙が届き、私は父に呼び出された。
「ハマード伯爵家からお前に婚約の打診だ。」
「はあ?!」
「アイリーン嬢が誕生パーティーの場でセフィードに一目惚れしたと書いてある。」
「あり得ない。」
「何か裏があるのか、それともただ愚鈍なだけか。」
父上の言いたいことは理解出来る。
通常、婚約の打診をするにしても、それなりの時間をかけて顔を繋いだ上で打診となるのが、貴族同士の婚約の形だ。そして2つ以上爵位が上の者には、簡単に婚約という言葉は使わず、濁すのが礼儀だ。
(そういう理由もあって、私とクロエの婚約も未だ執り行われていないのに。)
そもそも、私が誰だかを知らなかった伯爵と、爵位の上下関係に疎いあの令嬢を実際に見てきた身としては、『一目惚れ』自体も甚だ怪しい。
「クロエのことを嗅ぎつけたのでしょうか。」
「その可能性もある。・・・が、本当に婚約が目的の可能性も捨てきれない。」
(とうとう金策に困ってという可能性もあるのか…。)
処刑になった男から聞いたハマード伯爵家の情報は、耳を疑う内容ばかりだった。
従者たちに支払う給金も滞ることがあり、追手だった男も命乞いの為に、聞いてもいない話までべらべらと良く喋ってくれた。主従関係は最悪だったということは分かった。
しかし、この国の’’女神の生まれ変わり’’を殺そうとした事実は消えるはずがない。
結局、口の軽い男は処刑を免れることは出来なかった。
その追手だった男が消えて1か月以上が経つ今のタイミングでの婚約の打診。
怪しまない方がおかしいと言えるだろう。
クロエを守りきるには、どうしたらいい?
執務室のソファ、侯爵である父上の前の席に座る私は頭を抱えるしかなかった。
「クロエをマルクスと一緒にザイール男爵家へ里帰りさせる。」
「え?」
父上が決断したように、そう言い放つ。
クロエがアル―ア侯爵家の実子であることが判明したものの、アル―ア侯爵家が消えた今、公爵家所縁の親戚筋の養子になることが一番問題が少ないという理由で、マルクスの実家であるザイール男爵家と養子縁組することとなった。
彼女が成人したら、国王より爵位が授けられることは容易に想像がつくので、それまでの間ということになる予定だ。
「マルクスの実家であるザイール男爵家が一番無難だろう。」
そう言った父上に、マルクスが名乗りを上げた。
「ザイール男爵家には違いありませんが、クロエリア様は私マルクスの義娘にしたいと思います。」
ロベリアとマルクスの関係を考えたら、そう言いだした彼の気持ちは理解できた。
(マルクスならクロエの父親として、責任を果たしてくれるだろう。)
万上一致の決定で、クロエとマルクスの養子縁組は早急に執り行われた。
クロエリア・ザイールとなったことを、クロエ自身はまだ実感がないと言いながらも、マルクスとの関係は良好のようだ。
昼食時に二人が一緒に食事を摂っている姿を、何度も見かけている。
オスカー公爵領の中でも南に位置するザイール男爵地は、自然豊かな農村地帯で、警護もしやすい立地にある。
忌々しい奴隷紋を付けられたクロエは、自然を満喫することも出来なかったはずだ。
彼女の気分転換も兼ねて、危険から遠ざけておこうと考える父上の気持ちも理解できる。
「セフィード様はそれで良いですか?」
マルクスが怪訝な表情でこちらを見つめる。
「良くはない。」
素直に答えた私をマルクスは鼻で笑った。
「離れた時間があった方が、お互いの想いが強くなる…と昔、祖母が言っていました。きっと大丈夫ですよ。セフィード殿下。」
マルクスに殿下と呼ばれた時は、大抵私を試している時だ。
私はマルクスを睨むも、彼は面白そうに笑うだけだ。
(くそっ。狸伯爵が余計な動きをするせいだ。)
「終わったら迎えに行く。」
「義娘とお待ちしております。」
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クロエには『マルクスの義娘になったのだから、しばらくマルクスの実家に里帰りしておいで』と伝えた。
念のための護衛も数名付けるから、手紙のやり取りは出来る。
クロエと離れることに寂しさを覚える私とは違い、クロエは少しだけ頬を染めた。
(くそ!そんな顔されたら『行くな』なんて絶対言えないじゃないか。)
「今まで私には、家族というものがなかったので、少し照れくさいです。」
クロエが呟いたその言葉に、私は「そうか」と答えることしか出来ず、クロエの頭を撫でた。
今でも時々想像する。
もし、あの日クロエがハマード伯爵邸を逃げ出していなかったなら…。
もし、クロエが隠れた馬車がうちの馬車でなかったなら…。
今頃、クロエの人生はどんなことになっていたのだろうか。
アイリーン伯爵令嬢の誕生日プレゼントとして外に出るまで、倉庫の地下で隠されて過ごしていたと話したクロエは、悲しみも絶望も通り過ぎた先にあるような『無表情』が板についていた。
この邸に来て、少しずつ彼女の心の傷が癒えてきたようで、ほんの少し口元が緩む瞬間が増えてきた。
まだまだ笑顔には程遠いけれど、出会った当初の『無』よりは良い。
奴隷として生きてきた為に、誰かの命令がなければ動けなかった彼女が、自分から学びたいと意思を持てた。
感情が分からないと言った彼女が、『恋をした』と言ってくれた。
そんな変わってきた彼女を、また絶望の淵に落とすことはしたくない。
その為にも…
(絶対、ハマード伯爵から守り抜いてみせる。)
「私も父上の公務の手伝いが終わったら、ザイール男爵家に迎えに行く。」
私の言葉で、クロエの黒い瞳が煌めいたように見えた。
「お約束ですね。」
彼女の口から約束という言葉が飛び出したことに、笑いが漏れた。
少し前の彼女だったら『指示に従います』という、自分を卑下するような言い回しだった。
約束という言葉が出て来るようになったくらいには、クロエは私と同じ気持ちでいてくれているのだろうか。
「うん。約束だ。」
私の緩んだ顔を見たクロエが首を傾げる。
「なぜ、笑うのですか?」
「クロエが可愛くて嬉しいからだよ。」
「ふへっ!?」
大きく見開かれたその顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
その様子を見ているだけで、満たされた気持ちが込み上げてくる。
クロエが何も知らないうちに、クロエの不安の種全てを消し去ってしまいたい。
私の女神を危険にさらすことは、絶対したくないと心に誓うのだった。
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クロエとマルクスを送り出して数日が経ったある日。
ハマード伯爵家の馬車が突然、邸にやってきた。
「前触れもないとは、どういうことだ?」
困惑する私たちには気にも留めず、現れたのは、ハマード伯爵夫人と一人娘アイリーン嬢だった。
他国の身分も格上の公爵家の邸に着いて早々、ハマード母子の傍若無人ぶりが発揮された。
「遠い道のりをわざわざ来たというお客人に対し、なんて無礼な態度なのかしら?」
最初にターゲットになったのは、この邸の執事、セバスチャンだった。
前触れもなく突然来たことに対し、「公爵は公務で忙しい」と伝えたのだ。
当たり前の職務を果たす我が邸の執事に、あからさまな嫌味を述べる夫人こそ、無礼極まりないだろう。
セバスチャンの正論を屁理屈で返す攻防を、私と父上は陰から見ていた。
「百聞は一見に如かずとはこのことだな。ここまで酷いとは。」
そう呟いた父上が、溜息を吐きながら玄関ホールへ向かうのを、息を殺して見守った。
「賑やかなお出ましで痛み入ります。伯爵夫人とご令嬢殿。ダリッド王国の伯爵家は事前連絡も取らず、突然乗り込んでくる程に、何やらお企みのご様子。うちの精鋭たちが切り捨てずに済んで良かった。」
礼儀を知らない馬鹿どもは本来なら切り捨てられても文句は言えないぞと笑顔で言ってのけているが、全く相手には伝わっていない様子がまざまざと伝わって来た。
「まあ、ご冗談がお上手ですのね。オスカー公爵閣下。私、ハマード公爵夫人、クリーナ・ハマードと申しますわ。こちらは愛娘のアイリーン・ハマード。この度はオスカー公爵家嫡男であらせられるセフィード様との婚約の件を進めたく参上致しましたの。」
厚化粧夫人はそれなりのマナーがあるようだったが、令嬢の方は貴族令嬢の礼であるカーテシーすらもまともに取れていない。
あんなんで侯爵家と同等の話し合いをしたいなどと、馬鹿にしているのだろうか?
(クロエの方がカーテシーが上手だなんて。)
オスカー邸に来てから、礼儀作法や世間常識を教え込まれているクロエは、最近では小級貴族くらいの知識と所作を身に着けている。
夫人たちを目の前に見据えた公爵も同じことを思ったのだろう。
彼女たちに分かるように鼻で笑うと、一蹴する。
「何か勘違いをされているようですが、我が家は公爵家。ソレヴィーユ帝国王家の血を引く家紋です。隣国のいち伯爵家の娘が簡単に婚姻を結べるような爵位ではないのですよ?そういう理由だと、先日使いの者にもお伝えしたはずですが…言葉が足りませんでしたか?」
普段他人を下に見ている者にとって一番気分が悪いであろう目線、仕草、態度で言い捨てる父上は、やはり公爵家当主と言うべきだろうか。
ハマード夫人の表情が見る見るうちに赤く染めあがっていくのが見える。
「ならば、もう一度言いましょう。身分を弁えて諦めよ。」
「公爵ってそんなに偉いわけ?!いいからセフィード様を出しなさいよ!」
父に啖呵を切ったのは、大人しく礼を取っていることも出来なかった令嬢だった。
追手やクロエから聞いた情報より、短絡的な娘だと思わざるを得ない。
そんな暴れ出した令嬢を宥めようと取り押さえる夫人、そんな夫人に対しても暴言を吐き続ける令嬢。
公爵の近くに控えていた衛兵たちの剣が二人を取り囲み、流石の令嬢も現実を直視したように見えた。
父上はそんな令嬢をひと睨みし
「先日7歳になられたとお聞きしましたが、ずいぶんと頭の中が幼いようだ。子供のうちは記憶力が良いと言いますからね、忘れないように教えて差し上げましょう。うちの息子に貴方は身分不相応。諦めて自国へ帰りなさい。死にたくなければですが。」
父上の人を殺すような視線に当てられ、流石の傲慢令嬢もお手上げだったのか、大声で泣きだした。
その上、おもらしをしてしまったらしく、床が濡れていた。
伯爵夫人に引きずられるように馬車に乗り込み帰って行った招かざる客たち。
オスカー公爵邸の使用人たちによって、玄関ホールは念入りに浄められることになった。
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「セフィード、あれは魔獣か何かだろう。」
疲れ果てた父上が執務室で言い捨てた。
「あらあらあら。」
そんな父上にお茶を勧める母上が、いつも以上にニコニコとされている。
「母上、嬉しそうですね?」
「そりゃあそうよぉ!旦那様の素敵な姿を見ることが出来たんですもの。恰好良かったわ~。セフィもそう思うでしょう?ビシッとズバッとスパッと。うふふ。惚れ直しましたわ。」
母上のお陰で、執務室の空気はそれ以上悪くなることはなかった。