憧れと原風景2
小学校に上がるよりも早い時分。
物心つく頃には聞き慣れた威勢の良い掛け声と木と木がぶつかるような乾いた音。
時折聞こえてくるような金属音。
それは少女にとって日常の風景の一部だった。
母屋から離れた建物には少年から大人まで幅広い人が門戸を叩いていており、活気に満ち足りていた。
生まれた頃からあったその光景を不思議に思ったことはない。
それ故にそこに足を踏み入れたことはなかったし、親もいい顔をしなかった。
少女はそれに疑問を抱くことも好奇心を抱くことも無く、ただ生まれてから当たり前にある光景として視界の隅に置き続けていた。
そんなある日、朝に目一杯遊んで泥だらけになった昼過ぎ。
少女が服の汚れを見て、母に怒られる事を想像して家に帰るのが怖く、でもお腹は空いてぐぅ〜と可愛らしい音を立てて、素直に怒られる覚悟を決めるために、母屋よりも離れた建物に近い場所で佇んでいた時、その視界の隅に映る建物に自分と同じ位の少年がその敷居を跨いでいるのが見えて、思わず視線を向けた。
綺麗な顔立ちをしていたように思う。
こんな子がここら辺にいただろうかと少女は疑問を抱くも、それよりも同年代の少年があんな所で何をするのだろうと、少女はこの時初めて日常の光景の一部に好奇心を抱いた。
少女は服の汚れも空腹も忘れてその好奇心に釣られて初めてその建物の敷居へと足を踏み入れた。
そこはまさしく新しい世界だった。
一生懸命に木刀を振るう年上の男の子。
激しく床を踏み鳴らし、木刀同士をぶつけ合う大人。
木刀を正眼に睨み合うただよらぬ雰囲気を醸し出すご老人。
子どもの遊びしか知らない年端のいかない少女にとって、そんな本気を叩きつけ合うこの光景はとても刺激的で、目を奪われるような新しい世界だった。
こんな世界が自分の近くにあったなんて知らなかった。
普段聞き流していた音がこんな激しい光景のもとだったなんて。
普段から温厚で優しい印象だった人達がこんな鬼気迫る顔で全力をぶつけ合っていたなんて。
少女が当たり前に思って直視してこなかった目の端にあった日常がこんなにも心動かされる光景だったなんて知らなかった。
「どうしたんだ?珍しいなこんな所に来るなんて」
普段よりも厳かな声。
しかし、不思議と怖いなんて感情は湧かず、まっすぐにその声の主の下に駆け寄った。
「お父さん!これなに!すごい!みんなすごいかっこいい!!」
その明るくはしゃいだ声に道場にいた男たちが剣を止めて少女を見る。
その少女の声が師範の娘だと気付くとあんなに険しかった中の雰囲気は一転して穏やかになった。
「こんなに服を汚してまたお母さんに怒られるぞ」
娘の格好を見た父はしょうがないなといった様子で師範の顔から娘の知る普段の父の顔に戻っていた。
少女はそこで知る。
ここが剣を学ぶための道場であると。
その剣の腕を磨くために男たちが集まり、切磋琢磨し、日々全力で己と戦い続けているということを。
そしてお父さんはその生徒たちの為に剣を教える立場にあると。
「お父さんかっこいい!!」
可愛い娘の輝いた目とその言葉に父の顔も思わず崩れる。
最愛の娘に格好いいと言われて馬鹿にならない親はいないだろう。
「お父さんが剣を振るうところも見たい!」
娘の言葉に頭が緩んだ父はそれに素直に応えた。
父が道場の脇に置いてあった刀を握る。
ただそれだけで道場の雰囲気はガラリと変わった。
門下生の目も師範である父に釘付けとなっていた。
少女は理解した。
自分がすごいと思った人達が見逃すまいと父へと鋭い視線を向けている事を。
期待が高まる。
わくわくした気持ちで父を見る。
父が徐ろに刀を抜いた。
シャラリと鞘から抜かれる小気味の良い音が木霊する。
正眼の構えは自然体。
足は開き、目は閉じる。
子どもの目でも追いつける、ゆったりと振り上げられた刀。
そして、振り降ろされるは空間を切り裂くような鋭い一線。
その刀の軌跡は陽に当たった刀が残す綺麗な銀線。
たった一振り。
そのたった一振りで少女の運命が決定付けられた。
その芸術のような武芸は少女の瞼に焼き付き、心に強く刻まれた。
少女の憧れの原風景がここに出来上がったのだ。
「どうだ?凛。お父さんの剣は!」
誇らしげに顔を輝かせた父が娘の喜んだ顔が見たくて振り向いて見たのは俯く娘の姿だった。
もうちょっとわかりやすく振るうべきだっただろうか?
それともアニメキャラみたいに派手にそれっぽく振るうべきだっただろうか?と思い悩んでいたその時、娘の口から期待の言葉が零れ出た。
「……凄い」
テンションは不思議と低いが、聞きたかった言葉だ。
しかし、その後に続く言葉に父も固まった。
「……私もそれがしたい」
「……うん?」
「私もお父さんみたいに剣を振りたい!私もそれがしたい!!」
父の真っ青な顔が印象的だった。
その後は慌てふためく父に何度も何度も駄々を捏ねてやりたいと騒ぎ続けた。
そしてそれを聞きつけてやってきた母にさらに顔から血の気が引く父に、説得すべきは父ではなく母であると理解した少女は今度は母に元気一杯にお願いをし始めた。
どうしてやりたいと思ったか、どんなふうになりたいかと必死に訴えるたびに母の鬼のような目が父を射抜いて、父が道場の端で正座して震えていたがそれも無視して駄々をこね通した。
そしたらようやく折れたのか、それともまぁ剣道のつもりくらいならといった軽い感じだったのかはこの時はわからなかったが、母はようやく木刀を握ることを許してくれた。
父は道場の端でおでこを床に擦り付けていた。
早速木刀を握ろうとしたが、先に服をそこまで汚したお説教とご飯が先だと母屋へと引きずられることとなった。
「どうして急にあそこにいこうと思ったの?」
母屋への帰り道、その短い道中での母の言葉に少女は同い年の少年の存在を思い出して母に誰なのか聞いてみた。
もし、剣の仲間になるなら良い友達になれるかもという期待も込めて。
「あぁ、あの子ね。それで」
母は納得したような顔をして話し始めた。
「あの子はねお父さんとお母さんのお知り合いの息子さんなの。今日はお父さんにご挨拶にきたんだって」
「あの子一人で来たの?」
少女が見たのは男の子が一人で道場の庭に入っていく姿だけだ。
「いいえ、繧「繝ェ繧ケさんって方も一緒よ」
少女はその可愛らしい名前の響きに目を輝かせた。
「お人形さんみたいな名前!」
そう言うお年頃の少女にとってはやっぱり憧れのある名前であり、それは少女にとっても例外ではなかった。
「じゃああの子は一緒に剣のお勉強はできないの?」
「そうね。剣のお勉強はできないかな?あの子は別のお勉強にお熱だから」
その言葉に残念な気持ちになる少女。
「でも、一生懸命剣のお勉強をして、立派になったらまた会えるかもしれないね」
「うん!私頑張る!お父さんみたいに綺麗な剣を身につけてあの子に見せてあげるんだ!あなたのお勉強よりも私のお勉強の方がすごいんだよって!」
息巻く娘の姿に余計な事は言ったかなっと自身の失言に気付くも時すでに遅し。
「凛?自分のお勉強と人のお勉強を比べてはいけませんよ?どちらも大事なお勉強ですし、あの子も本当に凄く熱心にお勉強しているのですから」
母がお説教モードの口調に入って大人しくなる少女。
しかし、今さっき自分の中で世界で一番になった父の振るった剣がなんだか他にもそれに並ぶものがあると言われているようで少し憮然とした表情になってしまう。
それを見た母は苦笑を漏らして娘に寄り添う。
「でもお母さんもお父さんが世界で一番だと思ってるよ」
「お母さん!」
その言葉に思わず喜んだ少女が母に抱きつく。
やっぱりお父さんは凄いんだと。
自分の中に出来上がった最終目標の風景が間違っていないということを母が認めてくれたようで嬉しかったのだ。
「また余計な事言っちゃったかな?」
娘がここまで何かに没頭するのは初めてのことだった。
これが程々の所で熱も落ち着いて、剣の腕も一般的な所にとどまってくれれば危険も無く親としては嬉しいものではあるのだが。
娘の行く末に一抹の不安を抱きながらも、自分の愛した夫と同じ道に進む娘に決して小さくはない喜びを確かに感じていた。
帳 凛は昔の夢を後にして、目を覚ます。
懐かしい記憶。
温かい思い出。
剣の学び始めるきっかけと憧れの原風景。
忘れかけていた大切な一幕を思い返していると横から男の声がかかった。
「目が覚めたようだな」
夢で見た幼い男の子の面影を残す少年────瀧虎灰がそこにいた。




