仮面の男
そいつの登場は余りにも唐突だった。
予兆はなく、気配もない。
何時そこに立っていたのかもわからない。
纏う空気も、その男の仕業だろう炎の壁も、そのどちらもが一級品。
「な、にが……おき……て」
その異様な空間に目も思考も奪われた。
自分達の周囲を囲う霧。
死神の鎌を焼き払った灼熱の炎。
そして宙に佇む銀糸の仮面の男。
決闘から相賀の豹変、そして決着。
この流れでも偉助の頭はいっぱいだと言うのに、それまで以上の展開に頭が追いつかない。
夢でも見ているような気分だった。
「だれ!」
怒りの篭った少女の声に仮面の男は人差し指をくいっと掬い上げて応える。
槍を焼き払って尚、荒ぶり続ける炎が形を変えて少女に襲いかかった。
「舐めないで!」
京の攻撃を受けたときよりも尚大きい空気の断層が少女を守る。
衝突。
一瞬。
「なっ」
躾の効いた炎はたった僅かな時間でそれすらも焼き払う。
思いもよらぬ炎の侵食速度に驚愕を浮かべる少女。
見かけによらず、俊敏な少女はその僅かな時間で炎から距離を取ることに成功した。
「あり得ない!これが一体どんな魔術だと思ってるの!?」
少女の浮かべた驚愕は、イカサマをされたギャンブラーのような怒りに変わって仮面の男を責め立てる。
それに仮面の男は応えない。
「おま……えは……」
倒れ伏す帳は仮面の男を知っている。
その男の強さも。
しかし、その目的はわからなかった。
助けられた場面とは言え、この男を信用するのは危険だと、帳は内心で警鐘を鳴らす。
それを周りにも伝えたいが、声が上手く出なかった。
「そう、貴方ね。私の家畜を勝手に屠殺しようとしたのは」
少女は不敵に笑う。
あの炎は危険だ。
しかし、それでも自分一人でも対処のしようがないわけではない。
それに加え、少女には手駒がいる。
そう、今は奴を挟み込んでいるのだ。
少女の眼前にまたもや断層が現れた。
人一人を潰せるほどに大きなそれは、仮面の男へと迫った。
それに応えるのは既出の答え。
指で手繰られた炎が空気の断層を迎え撃った。
「あはっ。周りが見えないならそんな仮面捨ててしまいなさいよ!」
仮面の男が風の断層を焼き払う直前、その背後をゾンビが襲う。
断層の消失直後、仮面の男が振り返る。
相賀の細腕と仮面の腕がぶつかった。
リミッターの外れた探索者の膂力は馬鹿げているほどで、仮面の男とて、それを易々と受けられるほど頑強な肉体ではなかった。
重機のような圧力に押され、仮面の男の靴が地面を擦る。
「カッコつけて間に降り立ったりするからこうなるんだよ!」
相賀とせめぎ合う仮面の男の背後を少女が突く。
手に握る短刀がギラリと光った。
無防備な仮面の男の背中に突き刺さる直前に、その腕に魔法陣を出現させた仮面の男が相賀を押し返し、宙へと体を反転させた。
中空で逆さまになったニヒルな仮面と少女の視線が交差した。
向けた刃が素手で弾かれ、床に転がっていく。
そのまま一回転して、宙に高く舞った仮面の男が両手に小さな魔方陣を浮かべると、ゆっくりと下に向けて手を回した。
手から離れた魔法陣はくるくると互いにすれ違いながら回り床へと降りていく。
「炎の川」
男の異様に低い声に呼応するように魔法陣が赤い光を放つ。
二つの柱が間欠泉の如く吹き上がる。
それは目合う二匹のヘビの如く塒を巻きながら上昇し、天井に当たるやいなや、濁流となって両者を襲った。
その身の丈を優に越える炎の濁流を前に少女も相賀も抵抗できぬまま呑まれ込んだ。
「なに……もんだ」
死の直前に命を救われた京はそれでも尚、目の前の男に警戒心を抱かずには居られなかった。
自身を圧倒したあの状態の相賀を、その元凶たる謎の少女を登場早々に圧倒してみせた仮面の男のその脅威が、今にもこちらに及びそうな気配を感じてやまないからだ。
それは帳も同じなようで、ようやく体力が回復した京とほぼ同時に立ち上がり、仮面の男へと刀を向けていた。
「やる……じゃない。あんな嫌らしい火の魔術なんて久しぶりだわ」
炎の濁流に呑まれた少女が満身創痍でありながらも何とか立ち上がった。
立ち上がる気配は仮面の男の後ろからも感じられた。
相賀が立ち上がる。
少女の姿よりも酷く、全身が焼け爛れていた。
腕の肉がどろりと溶け落ち、骨が剥き出しになってしまう。
溶け落ちた肉が白い半固形状態となって床にじわりじわりと広がっていく。
それは哺乳類の肉とは言えない様であった。
「……蝋」
偉助の目に見たくないものが映る。
あの時の光景に被さる親友の姿。
受け入れ難い現実に心のなかで拒絶を続けるが目の前の現実は変わることはない。
「お前が相賀周成、及び双原玲生の母なる寄生種で間違いないな」
初めて向けられた言葉に色はなかった。
不自然な程に低く加工されたような無機質な声は、ただ淡々と確認を取るように告げられた。
ついさっきまで空間を焼き、未だに床に燻る熾火を残した炎の熱とは対照的にその声は冷徹に感じられた。
近い髪色を持つその少女はしかし、そんな言葉を一笑に付した。
「だからなに?名前なんて言われても興味ないから知らないんだけど?私が育てる家畜はそいつとそこの奴らが前に戦ったやつだけよ」
「……」
「……そんな」
帳と偉助に順に視線をやる少女に、その言葉が8階層で戦った化け物を指している事がわかる。
偉助も帳も、内心では薄々はわかっていたが、理解などしたくない事実を必死に否定し続けてきた。
しかし、少女の言葉で自分達が倒した化け物が人間であり、そして相賀がその化け物に変わってしまったという事が確定してしまった。
直接止めを刺した帳は己の手を
親友の豹変を目の当たりにした偉助は相賀へと視線を移す。
両者の心に冷たいものが落ちた。
仮面の男が二人に視線をやると短い嘆息の後、視線を少女に戻す。
僅かに増したプレッシャーに少女の警戒心が増した。
「このダンジョン以外での活動はなさそうだな」
「それがどうしたのよ」
その返答に仮面の男のプレッシャーが少し和らいだ。
少女は自分がなにか試されていたのだと理解した。
「どちらにしろ殺すがな」
指を鳴らした途端、少女の顔面付近で炎が爆ぜる。
「ぐっ……!」
詠唱も魔法陣も必要としない魔術の速攻性に少女は目をチカチカとさせながらも仮面の男から距離を取った。
「炎の川」
再び現れる炎の濁流。
「何度も!幽世二重強化!!」
強化された詠唱込みの断層が炎を迎え撃つ。
本領を発揮した少女の魔術は焼き払われること無く正しく機能した。
今度こそ防ぎきった少女は不敵に口角をあげる。
正しく魔術を発動させれば奴の炎が自身を焼くことはないと少女は確信した。
そうだ、この魔術はただの空気の断層などではない。
もっと高次に編み出された魔術なのだ。
あんなにやすやすと焼き払われることそのものがおかしい。
あの仮面の男の操る炎がただの炎ではないことは確かであり、未知の理論によって構成されている。
防ぐ事に成功したものの依然として油断は許されない。
しかし、相手の魔術が防げないものではないと分かれば手駒の運用次第では勝ちの目がありそうだ。
そう考えた少女は攻勢に出ようと相賀に指示を出した。
「……?」
いくら相賀を操ろうと権限を行使してもまるで反応がないことに少女は疑問を抱いて相賀へと視線を移す。
「……あ、れ……なに……が」
呆然と呟かれる相賀の声。
そこにはしっかりと相賀の自我が乗っていた。
「周成!正気に戻ったのか!」
「……いっくん?どうしてそんな……」
壁にもたれ掛かって崩れる偉助を見て状況を飲み込めない相賀は徐ろに自身の体を見てしまった。
「あ……?あ、あっ……あぁあああぁああああああぁあああぁあああああ!!!」
己の変わり果てた姿を見て絶望の声を張り上げる。
「な、になんだなんだなんだこれ!なんなんだよこれはぁあああああ!!」
悪夢の最中にあるような現実に相賀は頭を掻き毟って取り乱す。
その手の指の間に髪の毛がびっしりと挟まっていた。
白く爛れた頭皮を伴って。
「ひっ……やぁああぁあああぁあああぁあ!!!」
その残酷な光景に、偉助も帳も思わず目を逸らしてしまう。
意識を取り戻したとしても、その体が元に戻ったわけではない。
白く爛れる皮膚も、溶けた肉も、剥き出しになった骨も、まるで出来の悪いゾンビのような姿が、今の相賀だった。
意識戻らぬまま、何も知らずに死んだ方が良かったと思うほどにその光景は目に余るものだった。
「……また!?せっかく育ってきたのに……!」
悔しそうに地団駄を踏む少女は仮面の男を睨みつける。
「前もせっかく育って自我を取り戻した私の手駒をあんなふうに焼いてくれたわよね!そのせいで力を失って眠りに就いてようやくまた起きそうだったのに!その後の記憶操作だって大変だったのに!!」
少女は既に相賀に対しての執着心はない。
しかし今までの努力が徒労に終わって酷く腹を立てている。
その怒りは当然仮面の男に向くが今の少女では一人で立ち向かうのは余りに無謀だと、渋々と怒りを飲み込んで代わりに溜息を思いっきり吐き出した。
「はぁ〜。もういいや。それももう役に立ちそうにないし、力の回収もできそうにないし。勇者様を前に退きたくなんかなかったけどしかたないよね。またお逢いましょう勇者様。その時は必ずお救い致します」
両手を頬に当てて恍惚とする少女の笑みを向けられた京の背筋にぞくっとしたものが走った。
自分に目を向けているはずなのに、決して自分に向けられたものではない言葉と感情に京の心に不安の波が立ち始める。
恍惚な笑みのまま少女は踵を返した。
「逃がすと思うか?」
仮面の男の左右に魔法陣が現れる。
「あなたはお馬鹿の相手をしなくちゃいけないでしょ?」
厭味ったらしい笑みを浮かべる少女は仮面の男の後ろへとその目をやる。
「お、前か……お前かぁあああぁあぁあああああぁあぁぁあああぁああ!!!」
相賀の怨嗟の篭った視線と大音声がダンジョンに響き渡る。
記憶に残る仮面の男。
あの日、ダンジョンの外で目覚めた相賀を足蹴にしていた異常者。
同じ探索者であるはずなのに探索者を狩る異端。
あれ?どうしてそんな異端なんて知識が自分にあるのだろうか。
どうして仮面の男に気絶させられる前の記憶が少し曖昧なのだろうか。
ふと頭の隅で込み上がったこの疑問は、しかしこの激情に比べればなんと小さなものだろうか。
そんなものに今は構っている暇な無い。
疑問はすぐに怒りによってかき消された。
目の前のあいつが自分をこんな姿に変えた悪に違いない。
復讐に囚われた相賀は周りに目もくれず、仮面の男に襲いかかった。
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