狂気との戦い
歩いていくうち、暖かい風が吹いてきた。
赤い空の方からだった。
だが、すぐに、風向きが変わり、体が寒さに震えた。
赤い空に向かえば、暖かい。
それだけ分かっただけでも、収穫だった。
さらに進んでいくと、空が赤くなってきた。
だが、日差しがあるわけではなかった。
近づいて初めて分かったのだが、空が赤い原因は空に舞っているものが『赤い』からだった。
赤いものは舞っているだけではなく、地上に降り注いでいた。
赤いものは黒い岩につくと、溶けてしまう。
俺は手のひらで赤いものを受け止めた。
すぐに溶けて、赤い液体になった。
「雪だ。赤い雪なんだ」
意識せずに口に出し、そう言っていた。
その時、俺は視線を感じて、後ろを振り返った。
黒い岩の間に、白い人型の生き物が見えた。
長山ではない。
いや、長山もいるかも知れないが、長山だけではない。
もっと多くの人型に後をつけられたのだ。
姿がみえないからといって、ゆっくりしすぎた。
俺は後悔した。
だが、まだ距離がある。
俺は赤い雪の中を走り出した。
進むほどに暖かくなり、赤い雪は激しくなっていた。
体についた赤い雪は溶けて、俺のワイシャツを赤く染める。
赤い雪は溶け落ちて、一面、赤い水溜りになっていた。
赤い水溜まりの中、バシャバシャと走っていく。
「!」
後ろから、気味の悪い声が聞こえた。
走りながら、俺は身を捩って声が出た方を確認する。
白い人型の生き物の胸と腹の間あたりから、白いものが突き出ていた。
それは、背中の方にも太く伸びていた。
人型の生き物が、真っ白いタコの足で、体を貫かれたのだ。
見ている間にも、周囲の白い人型の生き物が、次々と同じような白く伸びるものに体を貫かれた。
真っ赤な口が開くと、言葉にならない叫びを耳にした。
「てけり、り」
いや、そんな言葉ではないはずだ。
聞き違いに違いない。
俺は自分の記憶にある言葉に直そうとしすぎているに違いない。
「てけり、り」
次々と体を貫かれていく。
白い足のようなものが、どこから伸びているのか。
それを確認する必要がある。
同じ足に俺もやられてしまうかも知れないからだ。
周囲を見回しても、一体その足のようなものがどこから伸びてきているのかわからなかった。
その時、最初に体を貫かれた白い人型に変化があった。
頭、手足など、明確になっていたものが、あっという間に丸く変形していく。
そして貫いていた長く伸びるものに吸収されるように、伸びてしまう。
完全に吸収されると白い足は一回り太くなっていた。
吸収すると足はどこかへ引っ込んでいく。
他の連中も同じように吸収されてしまった。
白い生き物を貫いたように、追ってくる白い足に貫かれると思い、真っ直ぐに走った。
走っていくと、俺は赤い雪が降る空に何かいることに気づいた。
もう走っても仕方ない。
空に何かいる、のではない。
空まで届きそうなくらい大きなモノだ。
それは真白く、尋常じゃないほど巨大であり、人の形をしていた。
その巨大な存在こそが、地上を走り回る白い人型や、タコの足のようなモノ、全ての根源だと思えた。
「……アーサー・ゴードン・ピム」
俺は全く意識の外、どこかの記憶の中から絞り出し、そう口にしていた。
続けて、飲み会でカナエちゃんに言ったことを思い出した。
もし俺が唯一の神を信じる宗教に縛られていたら。
この赤い雪の中にぼんやりと見える『これ』を見て一瞬で気が触れたに違いない。
あるいは論理的で科学的な思考に縛られていたとしても、同じだろう。
俺は狂気の淵にいたが、発狂しなかった。
「!」
赤い水溜りの中で、俺は何かを踏み外した。
ろくに目も開けられないが、目を開けても赤いばかりで何も見えない。
比重が水より軽いのだろう。
体は浮かない。
奥深くへ潜り、落ち切った先には横向きの強い流れがあった。
正確には、横だというのは感覚だった。
だから、本当は下向きの流れかも知れないし、上向きの流れかも知れない。
どこを掴むことも出来ず、流されていく。
頬に蓄えていた空気を、耐えきれず吐いた。
ほどなく、俺は意識を失った。