お題「雨音」 なすところもなく日は暮れる
大きな雨音が朝から続いている。
そのせいでシューベルトの魔王の低音が聞こえない。
せっかく高い金を出していいスピーカーを買ったのに、興ざめだ。私は音を止めて、コンセントを思いきり引き抜き、放り投げた。
この季節はどうにも好きになれない。
いつ起きても曇天、灰色の雲が視界のすべてを覆ている。じめじめとした空気がまとわりついて離れない。そして雨ばかりだ。
さっき来た宅配のバイトは、陰気さの象徴みたいな奴だった。うつむいてぼそぼそ喋ったと思えば、帰る時はそそくさ抜け目ない。
ああいう卑屈な人間を見ると、コーヒーがまずくなる。
結局、今日も半分しか飲まずに流しへ捨てた。
エチオピアから直接取り入れた高級豆、わざわざ下水の糧にするとは。
今日とて厄日だな。
ため息をつくと、ぶおんと荒々しいエンジン音が聞こえた。
おそらくさっきのバイトだ。ようやく発進するようだな。仕事の遅い奴め。
どれ、暇だし見届けてやるか。
私はカーテンを開け、道路を眺めた。
そこで、奇妙な光景を目にした。
道の向こうにある月ぎめ駐車場。
カラフルな車がすし詰めに立ち並び、お互いの居場所を主張し合っている。
その真ん中に、一人の少年が傘を差さずに立っていた。
高校生ぐらいか。よく見えないが、ずいぶん暗い配色のパーカーだ。
雨が降っているのも気づいていないかのようにぼうっと立ち尽くしている。そして遠くを見つめている。
私はすぐに家を出た。
近づいてみると彼のいでたちがよく分かった。
背は低く、かわりに髪は長い。つややかな黒髪から雨がしたたり落ちて、色白の肌をなめらかに伝う。
目は力なく見開かれ、道の先へ向いている。どうやらさっきのトラックを眺めているようだった。
雨に打たれてもまったく動かない。まるで、打たれるためにここに来ているみたいだ。
私は眉一つ動かさなかった。
クリニックではこういう手合いは枚挙にいとまがない。私はゴキブリを食うことに心を奪われた女も治したことがあるのだ。この程度なら造作もない。
胸を張って近づき、
「君、そんなところにいると」
「そんなところにいると風邪を引きますよ。傘を差さないと」
おいおい、セリフを取られたよ。このパターンはさすがに数回しか見たことがないな。
少年はうんざりしたような目を私に向けてくる。
射貫くような切れ目に少し見惚れてしまった。鷹揚する猛禽類のような、芯を秘めた眼光だ。
私があっけに取られていると、
「僕のことはお構いなく」少年がため息をつく。
「そういうわけにもいかん。雨に打たれて風邪をひくと予後が悪いのだ。精神的にな。フロイトも言っていたではないか。とりあえず私の家に上がりなさい。さあ」
私は少年の肩に手を置いた。
その瞬間、彼は思い切りはじき返してきた。そしてにらみつけてきた。
「……ごめんなさい」
すぐに我に返り、頭を下げてきた。しかしまだ手は震えている。
少し手ごわいな。
彼ぐらいの年代のガキは、触れただけで威嚇し噛みついてくるものだ。だから、少しずつ距離を縮めるのが定石。
しかし、こいつは相当心をとがらせているようだ。歩み寄るだけでもナイフで刺して着そうな剣幕。
やり方を変えなくては。
そう思った矢先、駐車場に車が入ってきた。黄色い軽だ。
すると少年は肩をびくりと震わせ、私の腕にしがみついてきた。
車から目を離さず、駐車したのを確認すると、すぐに私から飛びのいた。
僥倖だな。私は思わずニヤリとしてしまった。
「昔、何かあったのかね」
思ったとおりに尋ねた。
少年は答えようとしない。目を背け、唇を強く噛んでいる。
しばらく雨音だけ続いた。
大粒な水が地面に落ちて、激しく打ち付ける音。
遠くから雷も聞こえた。
ゴロゴロ、たまにカッとするどく刺すように鳴りひびく。
いずれここに来るかもしれない。
そして数十秒の沈黙が続いたあと、彼は口を開いた。
「……誰にも言いませんか」
「言わん。語る相手もいない」
その言葉で、少年はようやく私の方を向いた。
「自分に、罰を与えているんです」
「どうして」
「あの子の魂を弔うためです」
一週間前のことです。
ちょうどあの日も、こんなふうに曇り空で、湿った空気でした。
僕は部活帰り。友達とコンビニに寄って、アイスをなめながら歩いていました。
「な、さっき体育館にいた女の子可愛くなかったか?」
「どの子?ゴールの下にいた子?」
「馬鹿!その隣のポニテの子だよ!」
「ああ!川島さんか!三人目の彼氏と別れたばっかりの!」
「夢壊すようなこと言うなよなー……」
そんなことを言い合いながら、この駐車場を横切ったんです。
すると雨が降ってきました。
友達は走って帰っていきましたが、僕は近くの家の屋根を借りて、上がるのを待っていました。
雨はどんどん強くなって、雷も近づいてきました。
雨宿りなんかするんじゃなかった。父さんに迎えに来てもらおうかな。
そう思ったときでした。
なき声がしたんです、駐車場の方から。
いえ、泣き声じゃなくて。猫の鳴き声です。
小さくてか細くて、今にもかすれて消えてしまいそうでした。
すぐに向かいました。濡れるのは嫌だったけど。
あの子は、車の下にいました。まだ子猫でした。
毛並みがすごく乱れてて、傷もあって。身寄りがないのはすぐに分かりました。
「ほら、おいで」
なるべく優しく呼んでみました。
最初は見向きもしてくれなかったけど、何回も呼んでいるうちに、にらみつけてくるようになって。
それでもあきらめずに話しかけたら、ようやく僕の方に来てくれたんです。
可愛かった。
小さくて茶色くて。
僕の方をじっと見上げて、たまににゃあって鳴くのが、たまらなく愛おしかった。
だから僕、ちょっと撫でてみたくなって。手をのばしたんです。
でも、それが間違いでした。
あの子は突然甲高く鳴いて、僕の手をひっかいてきました。
そのまま走って逃げてしまったんです。さっき、車が走っていった方です。
僕もすぐに追いかけました。雨が強くなっていましたから。
あの子はすごく足が速かった。
僕も足には自信があったんですが、どんどん距離は遠くなっていきました。
全力で追いかけました。
濡れて体がどんどん重くなっても、なんとか踏んばって走りました。
でも、全然追いつけない。
するとあの子は突然立ち止まりました。逃げ切れたと思ったんでしょう。
おかげで追いついて、後ろからゆっくり忍び寄りました。
ですが、もう少しで手が届くって時に、トラックが横を通り過ぎました。
あの子はびっくりして、また走りだしてしまいました。さっきよりもずっと速く。
僕もまた走って追いかけました。そろそろ寒くなって、体が震えはじめていました。
そのころになると、もうやめていいかなって思い始めてたんです。
でもその時、警報が鳴ったんです。大雨と、雷。もっと激しくなるって。
それを聞いて慌てて立ち上がりました。もう、なりふり構っていられなかった。
すると今度は赤信号につかまりました。
僕は足踏みしながら、青になるのを待ちました。
子猫は止まってくれません。
そして、その先には大通りがある。車がビュンビュン走ってるところです。
もし不用意に飛び出しでもしたら……。
僕は頭を滅茶苦茶にかきむしりました。
そしたら、車が止まってくれたんです。
垂れ目のおばさんが譲ってくれて。僕は頭を下げてすぐ進みました。
やがて、大通りに出ました。
僕はあちこち見渡してあの子を探しました。
帰り道を急ぐサラリーマン。
並んで歩く小学生。
犬を連れたおじいさん。
どこだ?どこにいる?
そして、車道に目を向けた時です。
あの子は、今にも轢かれそうになりながら、車道の上で震えていました。
一歩も動けず、高い声で鳴いていました。
周りの人も少しずつ気づき始めました。みんな心配そうに見ていますが、誰も助けにはいかない。
中にはスマホで動画を撮っている奴もいました。
僕は、助けに行かなくちゃいけなかった。
一歩踏み出さなくちゃいけなかった。
あの子の身の上、寂しそうな目、傷だらけの心を知っているのはきっと僕だけだったから。
でも、動けなかったんです。
車がすごいスピードで横切るたびに、足がすくんでしまった。
心を決めて飛び出そうとするたび、鋭いエンジン音が僕の心をあざ笑ってきました。
ためらっているうちにも、あの子はどんどん弱っていった。
最初は飛びのいていたけど、少しずつ動きが鈍くなっていって。
やがて、しっぽが車体をかすめるようになった。
当たるのも時間の問題でした。
その時です。
誰かが叫び声をあげました。
それと同時に、大きなトラックが、あの子めがけて走ってきたんです。
もう、絶対に避けられない。誰の目にも明らかでした。
僕は、ついに走り出しました。
車道に躍り出て、クラクションの音を背に、あの子に向かって。
そして、ついに抱きかかえた時。
トラックが、僕にめがけて突っ込んでくるのが見えたんです。
悲鳴と、ブレーキの音と、クラクションが混ざり合って聞こえました。
でも、最後に聞いたのは、雨音でした。
少年はすべて語り終えると、また私から虚ろな目を離した。
その顔には、暗い印象に似つかわしくない微笑が浮かんでいた。
「いまだに思うんですよ。どうしてあのとき、もっと早く勇気を出せなかったんだろうって。そうすれば、あの子はきっと」
「ちょっと待ってくれ」
私は思わず口を挟んだ。
「君はどうなったんだ?」
少年は何も言わず、嘲るようなほほえみを浮かべるだけ。
寒気が湧き上がってきた。
子猫は死んだ。なら彼は?
車に轢かれたばかりなのに、どうしてこんなピンピンして雨に打たれている?
まるで……。
「僕は償わなくちゃいけないんです。あの子に許してもらえるまで」
「雨に打たれるのが、償いだと?」
「あの子も、ずっとそうでしたから」
馬鹿が。これだからガキは嫌いなんだ。
弔いとは、いなくなった者を思って泣き続けることではない。
まして失望にくれて人生を浪費することでもない。
思い続けることだ。
心の中から消えてしまうことのないように。
それだけがただ一つの方法だというのに……。
「君、来なさい」
私は彼の腕をつかんだ。
「治療を受けさせてやろう。特別にタダでいい。最新鋭の精神分析治療だ」
少年は何も言わない。
「君は病んでいるんだ。わかるかい?だがまだやり直せる。心の膿を取り払って、いまいましい過去の呪縛から解き放たれるんだ。そして治ったら、今度こそ明るく」
その瞬間。
少年は私の胸ぐらにつかみかかった。
そして叫んだ。
「だったらあの子を返してくれよっ!!」
彼は歯を食いしばりながら私をにらみつける。
涙がぼろぼろとこぼれ、雨に混じってアスファルトの地面を濡らす。
私は彼の剣幕に圧倒され、言葉を失った。
彼の方は、しばらく胸ぐらをつかみ上げていたが、やがて離して、すぐ走り去っていった。
そして、私だけが残された。
雨音がやまない。むしろ強まっているようだ。
彼の姿が曇り空の中に消えてからも、私の肩を冷やし続けた。
救えないこととは、こうも空しいものなのか。
体を濡らす雨が、なんとなく優しく感じられた。