蛍の光
あの夏を忘れない。二十年以上前、私は友達と夏祭りに出かけた。夜なのに子供だけで遊ぶなんてそれだけでワクワクしたし、この年齢の女子は気が合う友達との恋バナが何よりも楽しい時間なのだ。
恭子は同じ人間とは思えないほど可愛かった。ぱっちりとした瞳と小さな口。誰とでも打ち解けられる柔和で快活な性格。本人は否定しているけれどかなりの天然。丸顔で体型も全体的に少し丸いところを本人は嘆いていたが、月に三通もラブレターを貰うくらい男子からも評価されていた。
結花は物静か。体育や音楽よりも国語や算数が好きなタイプ。成績は優秀だけど交友関係は狭く行動力もない。そのくせ先生の指示であっても気に入らなければ従わないから隠れ問題児みたいな存在だっただろう。担任からのコメント欄があんなに埋まっている通知表を見たのは結花のが最初で最後だ。そして何が面白いかといえば、結花も一部の男子からはかなり好かれている。決して美人とは言えないが、そのミステリアスな雰囲気にあてられる人が一定数いるのだ。もちろん結花が彼らの好意を受け取ることはなかったが。
恭子と結花と私は大親友で、今もときどき連絡を取っている。これまで喧嘩したことは一度もない。考えてみれば天然な恭子とは険悪になりにくく、結花は怒りをぶつけられてもそれを感じていないだろう。それを大親友と言っていいのか微妙なラインだが、引く手あまたな恭子と周りに流されない結花が私を選んでいるのだから大きく間違っているわけではない。そんな大親友たちは今でも、あの日のことを覚えているだろうか。
夏祭りは毎年お盆の前、この町唯一の神社で行われる。屋台もたくさん出され、町内には予想以上に人が住んでいることを毎年実感させられた。初め恭子は「ダイエット中。」と言って食べ物を拒否していたが、結花の「いろんな味を少しずつ食べたいんだけど。」という一周回って空気の読めた発言で、焼きそばもタコ焼きもクレープも鈴カステラもみんなで楽しく食べた。射的も輪投げもして随分はしゃいだところで、結花が何も言わず仮設のベンチに向かい腰を下ろした。普通こういうときは「少し休まない。疲れちゃった。」「そうだね。」という会話があるはずだが、私も恭子も結花のペースを理解できているから戸惑わない。私を真ん中にして三人はまた恋バナで盛り上がる。この時間がずっと続けばいいのに、いや続くに決まっている。夏祭り会場には子供以上に愉快な大人たちがいて、私たちの未来の姿を映しているように感じられた。
この神社のすぐわきには田んぼがあって、冬になると収穫したお米の一部を使って餅つき大会が行われる。今年も三人で参加して、恭子が「ダイエット中。」と断り、結花が「きなこもあんこも大根おろしも食べたい。」と言うだろう。私がふとその田んぼに目を向けると、ちらちらと蛍が飛んでいるのが分かった。恭子の方を見るとまん丸のお顔のまん丸のお目めをキラキラさせていた。私と同時に気づいたんだ。それが嬉しくて抱きしめたくなる。二人で結花の方を見ると、彼女は少し微笑みながら体を小さく前後に揺らしていた。結花流の喜びの感情表現である。私たちは夏祭りの締めを蛍鑑賞会にするべく、一斉に立ち上がった。こういうときすらも号令無しに足並みが揃うから幸せなのだ。
神社を出て小道を通る。蛍が人間の声に反応して逃げるのか知らないが、三人は静かに田んぼへ近づいた。ベンチからは細々としか見えなかったが、実は多く飛びちがっていて、今ここから女神が現れても多分驚かない。いつの間にか歩みを止めて三人はただうっとりしていた。カメラなんかいらない。この景色と友情を覚えていれば良いのだ。
そのときパンっと乾いた音が響く。家に入ってきた蚊を南無三するあの音。夏祭り会場からではない。蛍の群れの中から聞こえる。パンっパンっと、何度も聞こえては闇に消えていく。
前から車がのろのろと走ってきて、私たちに気づくとハイビームにして辺りを照らした。もちろん田んぼも照らされ、そこに人影が浮かび上がる。実はさっきの乾いた打撃音は下界に降りてくる女神の足音で、私たちはこの夏不思議な体験をする。それは夢見がちで、実際は一人の少年がそこに立っていて、車の灯りを眩しそうにしている。しばらくは遠ざかるエンジン音だけが聞こえ、その後徐々に蛍が集まり、あの乾いた音が響く。響く度に光が一つ消えている気がする。ううん、消えている。
中学生になって私たちは別の部活に所属した。そこで新たな交友もできたが、やはり恭子と結花と一緒にいる時間は長かった。三年生でなんと三人が同じクラスになって、私と恭子は生徒玄関に掲示されたクラス分け表の前で飛び上がるほど喜んだ。結花は紙を見つめ微笑みながら前後に揺れている。
春にはなぜ修学というのか未だに分からない旅行に行った。男女三人ずつの班別自由行動の班決めの際、私たちの班には恭子目当てでイケイケな男子が群がったが、結花が教室中に聞こえるくらい大きな声できっぱり断っていた。男子は不服そうな態度を示し、陰で結花を揶揄する人もいたが、結花に悪気が一切ないことを知らないあたり一緒に行動しても誰も幸せになれないだろう。
梅雨明けほどに部活の最後の大会があり、私の所属するバレー部は惜しくもあと一勝足りず、悔しい引退になってしまった。でも本当に悔しいのは、ここに恭子と結花がいないことだった。次の日学校に行ってこの話を二人にしたら、恭子は我慢できず涙を流し、戸惑う私も結局もらい泣きして、結花は「お疲れ様。」と言って窓の外を見ていた。晴れ渡る空に向かって、この夏は三人でたくさん思い出を作ると誓った。
夏休みも半分が過ぎ、今日も私の家で三人揃って受験勉強。私の成績は平均点やや上。この状態をキープして上から四番目の進学校を受験するか、もう少し頑張ってワンランク上げるか迷っている。恭子は勉強がやや苦手で平均点に若干届かない程度。それでも進学校に行きたいと張り切っている。結花は言わずもがな成績優秀。しかし県内一番の進学校ではなく、その一つ下の学校を目指しているそうだ。結花の成績ならどの学校にも合格するだろうから不思議に思い、私と恭子がその理由を聞いたとき、「制服が一番かわいいから。」という結花らしくない答えが返ってきて思わず笑ってしまった。思えば今日は夏祭りの日。私は気晴らしに見に行こうと提案するが、二人同時に「勉強中。」と言いまた笑ってしまった。
夏休みが終わり、気づけば冬休みも終わり、受験を終え、私たちは高校生になった。あれからも三人で勉強したが結局恭子はあと一つ伸びが足りず、進学校へは行けなかった。私は終始エンジンがかからず予定通り上から四番の学校に、結花は入試直前に志願変更して一番優秀な進学校に合格した。「やっぱりこの制服ダサい。」と送られてきた写メに映る結花は本当に悲しい顔をして、どう返信していいか迷っていると「今度制服持ち寄って遊ぼうよ。」と恭子からメッセージが入った。
私の通う高校に小坂という小学校からの同級生も合格した。彼は昔から奇行の目立つ生徒で、まだ二か月も経っていないのに学年全体に知れ渡るほどの人物になっていた。それは入学式で「小坂です。私をからかいたい人はどうぞご自由に。ただ私よりも優秀な成績をとってからにしてください。」と叫んだことが一番の要因だ。あれから一年半も過ぎたが、未だに学年トップは小坂である。
一方私は下に位置し、もう勉強どころか学校生活すらも億劫になっていた。あの日遊ぶ約束を取り決めたのに、実際は一度しか二人に会えていない。高校生は想像以上に忙しい生き物だ。部活、勉強、課題、学校行事、塾、模試が詰め込まれ身動きが取れない。特に結花はいつ誘っても何か外せない用事が入っている。そういう私も今日は塾に行く日であるが、どうしても気が乗らない。少し回り道をしていると、公園で元気に遊ぶ子供たちの声が聞こえた。そして、小坂の姿もあった。
私は自分がしていることが分からなくなった。友人にも会えず、成績は伸び悩み、まとわりつくもの全てが憎たらしい。それなのにあいつは小学生と呑気に遊んでる。ふざけるな。
「どおしてお前みたいなやつが幸せなんだよ。」
胸倉を掴む形で私は小坂に詰め寄っていた。小学生は完全に怯えている。小坂はしばらく私を見つめ、かと思えば視線を落とし言った。
「あの日、覚えてますか。夏祭りの日ですよ。」
私はどの夏祭りのことを言っているかすぐ察し、ただ強く小坂を突き放した。しかし彼は続ける。
「あの日私は自由研究をしていました。テーマは[人は当然の報いに対してどのような感情を抱くか]。その調査の一環として蛍を叩き潰していました。蛍って繁殖相手を見つけるために光っています。しかし光るから外敵に見つかりやすくもなる。それを承知の上で光っている蛍を殺したとき、どういう感情になるか知りたかったんです。という話はあの日もしましたよね。」
私は塾に向かうべく公園から出ようとするが、小坂は構わず話し続ける。
「あなたと中村さん(恭子)は茫然と立ち尽くしていたが、小林さん(結花)は違った。彼女は私に言ったよね。蛍の光る器官ってどうなっているか。それは死んだ後も光るのか。」
私の中の何かが吹っ切れた。野球ボールくらいの石を拾い小坂へ詰め寄る。パンっと乾いた音が響く。小坂が私を殴っていなければ、私が小坂を殺していたかもしれない。
「小林さんは嬉しそうでした。あなたにそういう質問はダメだと教えてもらって。中村さんも安らかでした。あなたに手を握ってもらって。」
「結花...恭子...。」
「小林さんも中村さんもあなたを必要としていた。それはあの日だけじゃなく、中学でもずっと。特に小林さんは私と似ていて常識に疎い。なぜ彼女がギリギリまで上から二番目の進学校に行くと言っていたか分かりませんか。あなたと同じ高校に行きたかったからですよ。そしておそらく中村さんもそれに気づいていた。あなたにやる気になってもらおうと必死だった。」
もうこれ以上小坂の話は耳には入らない。
手にはさっき拾い上げた石がある。この石の投げ先が見つかるまで、重みに耐えなければならない。