現れた人影。
スーパープールは献身的に協力してくれた。監視カメラの映像もチェックしてくれ、不審者及び桜子の身長と似た人間の出入りも全て確認をとってくれた。そして桜子らしき人物はプールから出ていないことが判明した。
従業員総出でプールを目視確認した上で、人間が出られる場所を捜索。この地は、プールで発生する騒音を防ぐため、防音壁がぐるりと囲っている。隠れた意図として、泥棒などの侵入や逃走を防ぐためにも出入り口は限定されている。常識的に考えて、真っ昼間にこの壁をハシゴを使って上り下りして、人目につかないというのは考えにくい。何より、従業員が気付かないとは思えない。
双方の親にも寄ってないか聞いてみたが、もちろん来ていない。
警察に通報して、そして翌日。スーパープールは営業しながら、今も大勢の大人が周囲を捜索してくれている。とはいえ周囲は住宅街。水路や田んぼもあるが、隠れられる場所は少ない。
経路、犯人不明の行方不明事件。たっちゃんの時と同じだ。
「しんちゃん。行くの?」
ケータイを持ったままリビングでうつらうつらしていた桜を起こしてしまった。ずっと連絡を待って、眠っていないのだ。
「寝ろよ。おれは寝たぞ」
おれは桜子が行方不明になっても風呂に入ってベッドで寝た。今日も捜索があるのだから。朝食も桜を起こさず食べた。
「待って。1人にしないで」
おれは何も言い返せず、桜の着替えを待った。大人の桜はもう誘拐されない。おれが誘拐されないように。けれど桜はおれと一緒に来たし、おれは桜を連れて行った。
ケータイをお守りのように持っている桜を助手席に乗せた愛車は、まっすぐ公園に向かった。太陽の見える林はあの時のままのように見える。
「電波が切れるかも知れない。車で待ってろ」
「うん・・・」
こんな近隣の公園でそんな事態が発生するのかは知らない。けど今の桜は信じた。捜索隊からの連絡を待っているから。
エンジンをかけたまま、車から離れる。行き先は明確。
あの日、たっちゃんはおれや桜の視界の外で消えた。そして今も帰ってない。
「たっちゃん。居るのか。たっちゃん。今度はおれ達の娘が消えた」
こんなことは何度もやった。そして反応は一度もなかった。無駄な選択肢で時間を浪費している。
「桜子っていうんだ。桜との子供なんだ。たっちゃんの家にも行っただろ?あの子だよ」
毎年たっちゃんのご両親に会う際、桜子が生まれてからはずっと桜子も一緒だ。桜子の誕生も成長も、ずっと喜んでくれてた。
「たっちゃん。桜子がどこに居るか、知らないか。もしかしてそっちに行ってないか」
誘拐されたたっちゃん。そして桜子。犯人が人間なら、今していることは無意味だ。もうどこかの家の中。捜索できない。
「たっちゃん。その子はおれ達の子なんだ。取り返したいんだ。聞いているなら、頼む。こっちに戻してくれ」
話しながら公園を一周してしまった。珍しく散歩をしている人が居ない。そしておれが隠れた場所に着いた。もう今の身長では隠れられない。しゃがみ込み、あの日見た太陽に視線を合わせる。時間が違うからそこに太陽はない。太陽は後ろ。
だから、影だけが立っていた。林の間にしゃがみ込んだおれの影が、立っていた。
「・・・」
たっちゃん?おれは声をかけられなかった。独立した影・・・影だけの人物からは表情も感情も感じ取れなかった。たっちゃんの笑い声も何も聞こえない。じゃあ、こいつは。
「お前がたっちゃんを、桜子を誘拐した犯人か」
影は揺らがない。悪意、敵意、邪気。そういう犯行の意思のようなものを一切感じない。壁に話しかけているようだ。
壁?
まさかこいつ、人格とか意思とかがない、機能のみの存在か?
崖から落ちた人間が死んでも、崖には悪意がないように。人間がそこに行って足を踏み外すと、自動的に影の世界に行ってしまうとか、そういうのか。
「・・・なんでもいいから、桜子を返してくれ」
理屈なんて他の誰かが考えてくれれば良い。おれはただ、目の前の壁だか機械だかに喋りかけた。恐怖心を感じずに済む代わり、桜子を取り返せるチャンスも感じなかった。妖怪とかが出てくれた方が、まだマシだった。
「・・・・」
坊さんでも神主でも神父でも牧師でも。何十人か連れてきて除霊でもさせるか?そこらの神社のお守りを強盗して何百枚か用意すれば効くのか?
「・・・ははは」
「!・・・たっちゃん?」
その笑い声は。そして影が初めて動いた。
「無駄だよ、しんちゃん。ぼくらは幽霊や悪魔じゃない。影でしかないんだ。懐中電灯を持ってきた方がまだ良い」
「昼間じゃん。ライトつけたってどうしようもないじゃん」
「しんちゃんは真面目だなあ」
違う。おれ達の間で一番真面目だったのはたっちゃんだ。
こいつ。明らかにたっちゃんなのに、たっちゃんじゃない。何だ?
「・・はは。ほら、たっちゃんは騙せなかったね。ぼくの言った通りだ」
「すごいわねえ。20年も会ってなかったんでしょう?」
女の声?
「うちの孫はわしのことは分からんかった。悲しいもんよ」
「おじいさん、あんたが消えた後に生まれた子じゃないの」
「わっはっは」
じいさん、おばさん、おじさん。全員、声が違う。何人、入ってるんだ。
「いや。なんでもいいから、桜子を返してくれ。頼む。おれに出来ることならなんでもするから」
おれの命だけで良いのなら、すぐにやるから。
「しんちゃん。もう無理だよ」
たっちゃんの言葉を聞いて、おれは飛び出した。林の間の影まで、2秒で到達した。
「返せ!!!」
影の胴体部分に思いっきり手を突っ込んだ。
「・・・があ・・・!」
地面にまっすぐ伸ばした右手は、指が何本か折れていた。影には入れなかった。
「無茶しちゃダメだよ。選ばれてない人間は入れないんだ」
たっちゃんの声に感情は乗っていなかった。こちらを心配していない。たっちゃんの声で他のやつが喋っているのか。
「・・・・と・・うさん・・・」
「桜子!!!」
聞こえた!小さい声だけど、声の合間に確かに居た!
「お・・とう・・・さん・・大・・・丈夫?」
「大丈夫だ!今助けるからな!」
右手の激痛はもう痛くなかった。痛いけれど、どうでもいい。桜子が生きている以上。
「ダメよお。桜子ちゃんはまだ定着してないんだから。無理させちゃあ」
「知るか!!」
左手で影をまさぐる。何か、どうにかすれば、なんとかなるはずだ。何か、何を。
・・・懐中電灯・・・。
「これか!?たっちゃん!」
ただの冗談だと思った。真っ昼間にライトなんて。しかし。頑張って、左手一本でケータイのライトを点灯させる。そして影に放射する。
「ぐわあああああ!!!!」
「嘘だろ・・・」
効いた。なんで?太陽光はまだ影を照らしてるのに。それより遥かに弱いケータイのライトで、なんで。
「・・・しんちゃん!今!」
「お、おう!」
たっちゃんの慌てたような声で、おれは急いで左手を影に伸ばした。今度は入った!
「桜子!分かるか?つかめるか?」
影の中は空っぽな空間に見えて、そんなものじゃなかった。ギュウギュウ詰めの肉の中。満員電車に腕だけ突っ込んだような、反発力のあるゴムに無理やりねじ込んでる感じがする。こんな薄っぺらなのに、なんて質量だ。
だが。その中で、おれの手をつかんでくれた小さな手がある。
「引っ張るぞ!がんばれ!」
「うん!」
はっきり聞こえる。桜子の声が。
大人の力で子供の手を思いっきり引っ張って大丈夫なのか?それだけが心配だったが、肉の壁はおれの腕を押し返すが、桜子の腕は抵抗もなくつるっと滑り出てきた。桜子の全身が見えたのはその直後。しっかりと桜子を抱きかかえ、すぐさま影から離れた。
「・・・もしかして。たっちゃんも帰れるのか?」
桜子は助け出せた。なら。
「ぼくはもう、こっち側なんだ。しんちゃんと喋れてるのも、桜子ちゃんが順応しかけてる間のわずかな時間だけ」
たっちゃんの言葉には、聞き覚えのない大人の声色があった。月日の積み重ねでしかあり得ない蓄積された色合い。
「たっちゃん。今度、ビール持ってくよ。たっちゃんち。飲める時に飲んで」
「良いね。好きだよビール」
飲んだことあるのか。そう思った時には、影は消えた。跡形もなく。
残ったのは、おれ達親子の1つのみ。
桜と桜子の再会。そして吹き出てきた指の痛み。両方がおれの涙腺を刺激し、その後の警察への対応は全て桜や両親がやってくれた。おれは病院でずっと泣いていた。
おれの人生で、それからたっちゃんの声が聞こえたことはない。