鍵のかかったトイレと密室
「ねぇねぇ紗愛ちゃん。トイレの個室で用を足してから、トイレットペーパーがないことに気付いた。このままじゃ出ることができない。さぁどうしよう? このシチュエーションって、いわゆるひとつの脱出物になると思わないかい?」
「思いません」
紗愛は端的にそっけなく答えた。
だって思わないし。そもそも図書館でする話じゃないし。
この間、偶然この図書館で柳さんと再会して以来、事あるごとに柳さんがやってきて、こうやってくだらない話をするようになってしまった。何ていうか、野良犬に餌をあげたら懐かれてしまったみたいな感じである。
「じゃあ質問だけど、用を足した後トイレットペーパーがないことに気づいたら、紗愛ちゃんならどうする?」
毎度毎度、めげずに柳さんが話題を続けてくる。
「ポケットティッシュを使います。もちろん詰まらない範囲で」
真面目に答えてしまう私も私だけど、と紗愛はこっそりため息をつく。
「うーん。じゃあ、ポケットティッシュを持ち歩いていなかったら?」
「私は常に持ち歩いています。エチケットですよ」
「そこをなんとか!」
「……セクハラですか?」
女の子に用を足した後のことを執拗に聞いてくるなんて、変態である。
さすがに紗愛のジト目に気付いたのか、柳さんが慌ててぱたぱたと手を振った。
「ち、違うよ。ここの図書館のトイレの話なんだ。なぜか毎回誰もいないのに、鍵が掛かっている個室があるって、相談があったんだ。ほらいちおう探偵サークルだから」
「鍵が……毎回、ですが?」
結局聞き返してしまった。繰り返し起こるのなら、確かに奇妙な話ではある。
小学校の頃、こうやってよく柳さんと何気ない日常の疑問を、ああだこうだと話しながら遊んでいたことを思い出す。自分も柳さんも、当時からあまり変わっていないのかもしれない、と紗愛は思った。
「うん。そうなんだ。ね、興味深いでしょ? だから紗愛ちゃんに相談してみたんだ。ねぇ、もし時間があるのなら、直接行って見てみない?」
「そうですね」
紗愛は少し考えてうなずいた。
時間はあるし、興味も少なからずある。何度かお世話になっている大学の図書館のトイレでの事件となれば、紗愛も全くの無関係ではない。
だが紗愛はすぐに、その考えが間違っていたことを思い知るのであった。
☆☆☆
「やっぱりお断りします」
「えー。なんでー」
「何でって、男子トイレだなんて、聞いていませんっ」
紗愛は少し頬を染めて、強い口調で言い返した。
もっとも、男性である柳さんが持ち込んだ話なのだから、男子トイレの話であるという可能性があったわけで。その点は明らかに紗愛の確認不足だった。
「はっはっは。大丈夫よ。清掃中の立札置いておくから。それに私が、ちゃーんと掃除しているんだから、綺麗だよ」
そう言って笑うのは、トイレの清掃を請け負っている恰幅の良い体型をしたおばさんである。彼女が柳さんに相談した人である。
「それとも、私の掃除が汚いってわけかい?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
どちらかというと、女子としての精神的な問題なのだが、こう言われて反論できるほど、紗愛も我の強いタイプではない。
結局、柳さんとおばさんに押し切られるようにして、人生初の男子トイレへと足を踏み入れてしまった。
お父さん、お母さん、ごめんなさい、と心の中で謝りつつも、入ってしまったからには、しっかりと観察をする。プラス思考で考えれば、女子で男子トイレに入るなんて、レアな経験だろう。自慢はしたくないけれど。
漫画やドラマなどで見る機会があるからか、生まれて初めて生で見る男性用の小便器にもそれほど物珍しさは感じなかった。
何となく男子トイレには汚い印象があったけれど、さすがに大学のトイレだからか、思った以上に清潔だった。これならどこぞの公園の女子トイレよりずっと綺麗である。強い香水の匂いも充満していないし。
とそれはさておき。
肝心の鍵のかかった扉だけど――
「って、全然密室じゃないじゃないですか」
小便器の向かい側に、三つ並んだ女子トイレでもおなじみの個室がある。現在はすべて扉が開いた状態なのは、後から開けたからなのだろう。鍵が掛かったまま放置されていたのは、三つの中の真ん中の個室とのこと。
冒頭の柳さんの話を聞いていたので、すっかり密室のイメージがあったけれど、実際の個室は上が開いているタイプだった。これなら内側から鍵を掛けた後、仕切りを登って外に出ることは十分可能だ。
「うん。でも実際に上から出ようとすると不自然だよね。目立つし。だからこれはもう密室と言っても過言じゃないのかなぁ、って」
「過言です」
紗愛はバッサリと斬った。
だが柳さんはいつものようにめげることなく持論を展開してくる。
「そこで僕はこの密室が出来た経緯を考えてみたんだ。それはずばり、トイレットペーパーがなかったから!」
「ああ、それであの話に繋がるわけですね」
「用を足した後、トイレットペーパーがないことに気づいた犯人。迷った末に彼は、隣の個室の物を使うという手を思いついた。そうして彼は隣の個室へと壁をよじ登って移動した。これで鍵が掛かったままの個室の完成。どう?」
「でしたら、普通に扉から出て、隣の物を使えばいいんじゃないですか?」
「う。でも紙が無かったらちゃんと拭けてないわけだし、もし誰かに見られたらヤダかなって」
「柳さん自身も言っていましたけど、壁をよじ登るのも目立ちますよ? 個室から個室へと乗り換えようとしている場面を見られる方が、ずっと嫌だと思いますが」
「うー。そうかも」
紗愛の反論に、柳さんのトーンが沈む。
「そもそもトイレットペーパーの補充はちゃんと私がチェックしているからね。一回ならまだしも、三日続けて何てありえないよ」
おばさんももっともな意見を述べた。
「そういえば、毎回、って話でしたよね? 今日も鍵が掛かっていたんですか」
柳さんと話していてもきりがなさそうだったので、直接掃除のおばさんに問いかけてみた。
「いや。先週のことで、今週に入ってからは無くなったのよ。ただ気になっていたから、柳ちゃんに話してみたんだけど」
「このトイレの鍵は、上げ下げするだけの簡単なものですね」
扉は個室の内側に開いており、扉には鍵爪が上向きになった鍵が付いている。鍵を掛けるときは、内側から扉を押すようにして閉めたのち、扉の右側についている突起に、鍵爪を持ち上げて倒し、ひっかけるタイプである。
「ええ。単純でしょ。だからね、扉と扉の微妙な隙間に下敷きを通してね、鍵爪を持ち上げちゃえば、簡単に外から開けるのよ」
おばさんがいたずらっぽく笑う。扉の鍵が掛かっていても特に業者に頼むことなく解決していたのは、おばさんがそうやって開けていたからだ。
最初のときは、ずっと鍵が掛かったままで何度も確認しても応答がなかったため、恐る恐る開けて確認していたという。不思議なことに中には誰もいなかった。なんかの拍子でこうなったのか、それともいたずらか。いずれにしろ、一回ならまだしも、それが三日続けて起きると、さすがに奇妙に感じるようになってきたのだ。
「午前中の掃除のときは、ちゃんと開いているのよ。ただお昼休みの後の、午後の時間になると閉まっているのよ」
「お昼休みですか……」
紗愛は少し考えた後、今度は柳さんに尋ねる。
「このトイレ、お昼休みは混んでいるんですか」
「いや。ほとんど混んでないと思うよ。食事時だけど、カフェや購買からも遠いし。図書館の一階にも飲食スペースあるけど、ここは五階の最上階だから、わざわざここを使うことはないかなぁ。お昼休みに食事をしないで図書館にいる人は使っているかもしれないけど、そんなに多くないと思うよ」
大学は広い。生徒数は多くても、それ以上にトイレが至る所に設置されている。紗愛の通う付属の高校と違って、昼休みにトイレの前で行列ということもないのだろう。そもそもそれは女子トイレの話だし。
「トイレの洗面台の所にゴミ箱がありますよね? どんなゴミが捨てられていますか? それと、どれくらいの頻度で交換していますか」
紗愛は次に掃除のおばさんに尋ねる。
「そうねぇ。いちおう掃除の際には確認しているけれど、ある程度たまってから回収する感じかしらねぇ。ペーパータオルを使っていないから、ほとんどゴミが入っていることはないんだけど、たまに変な物も捨てられているわよ」
雑誌、おにぎりやパンなどの包装袋、街で貰うようなチラシ、紙パックやプラスチックの飲み物の容器、大学の連絡用のプリントなどなど、トイレには関係ないものが入っていることの方が多いとのこと。
「今週は、まだ綺麗ではありませんか?」
「ええ。確かにそうだけど」
おばさんのその答えに、紗愛は満足げにうなずいた。
「なるほど。だいたいわかりました」
「ええっ。本当に?」
「その前に確認したいのですが、お昼休み、真ん中の個室が閉まったままとして、その隣の奥の個室も使用中ではありませんでしたか」
「んー、どうかしらねぇ。私が実際にお昼休みに見に来たのは三日目だけだけど……そうそう、そのときは確かに奥も使用中だったわねぇ」
おばさんが首をかしげながら思い出すように答えた。
その答えに紗愛は満足して、軽くうなずく。
「あくまで仮説ですが、奥の個室は、おそらく開かずの個室を作った張本人が使用していたんです。そして用が済んだから、普通に出て行っているだけかと。だから鍵は元通りになります。もっとも、その用というのは、いわゆるトイレで用を足す、ではないと思いますが」
「えっ、どういうこと?」
柳さんが首をひねる。
「順を追って説明します。まずは鍵が掛かってしまったままの個室の作り方ですが、これは道具さえあれば簡単ですね」
扉の間のわずかな隙間から曲がった針金などを差し込めれば、中の鍵を持ち上げて突起に止めるのは簡単だ。もしくは紐のようなものをあらかじめ鍵に巻き付けておき、外から扉を閉めた後に、個室の上から紐を引っ張れば、やはり鍵を掛けることは出来る。
「へぇ。確かに簡単そうだね」
紗愛の説明に、柳さんが感心した様子で言葉を発する。
「はい。そもそもトイレのような個室は不慮の事故で閉じ込められないよう、鍵が開きやすくなっているって聞きます。まぁ家のトイレのことだけで、公衆のトイレは別かもしれませんが。ちなみに鍵が閉まったままになっていたことを考えると、犯人が取った方法は後者かと思います」
「でも犯人がこんなことをする理由って何なの? 愉快犯」
「はい。ずばり便所飯です」
「……ふぇっ?」
紗愛の答えがあまりに予想外過ぎたのか、柳さんが変な声を漏らす。
「え、えっと……えーと。その犯人は、わざわざ真ん中の個室を外から鍵を閉めて、奥の個室で食事をしていた、ってこと?」
「はい。便所飯で気を付けることって、何だと思いますか?」
「えっと。ニオイとか……?」
「ええ。正解です。ニオイにも気を遣っていると思います。けど他にも気を遣わないといけないことがあります」
「……もしかして、物音かい?」
おばさんの答えに、紗愛は満足げにうなずく。
「はい。そもそも便所飯とは一人で食べているところを見られたくないから、隠れて食べているんですよね。それなのに便所飯をしているところを見られたら、二重の意味で最悪です。ですので便所飯をしている人は、人の気配・物音にすごく敏感になっているはずです。ニオイに注意しても、普通トイレでは聞こえないような音を発してしまったら怪しまれる。だから隣に人が入られるのが一番怖いんです」
「えっと。紗愛ちゃん、やけに詳しいけど、もしかして経験者?」
「違います」
紗愛は何を言っているんだという目を柳さんに向けた。
その視線にたじろぎながらも、柳さんは紗愛の仮説をまとめる。
「つまり、真ん中の個室は、隣にある奥の個室から隣を空けるために鍵を掛けっぱなしにしたってこと?」
「はい」
「でもわざわざそこまでしなくても、使用禁止の札を張っておけば」
「ただの『使用禁止』だと、たまたま職員の人がそれを見て怪しまれる恐れがあります。その点、ただ鍵が閉まっているだけなら、たまたま人がいたんだろう、で済みます。個室は手前にも一つありますし、そこが埋まっていたとしても他の階に行けばいいだけですので、外でまったりノックしたりすることはないと思いますよ」
「うーん。なるほど。確かにそうかも」
柳さんが納得した様子でうなずいた。おばさんも同様の表情を浮かべていたけれど、一つだけ気になったことがあったようで、紗愛に尋ねてきた。
「それじゃ。今週になって扉が閉まっていることがなくなったのは、なぜなんだい」
「気づいたんでしょう。その彼が――」
紗愛は達観した様子で口にした。
「便所飯がむなしいことに」
「そりゃそうだね」