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豚汁協奏曲



「ねぇねぇ紗愛ちゃん。豚汁が空から降って来たらどうする?」

「そうですね。傘の代わりに、鍋を持って歩きたいですね」

 柳さんの冗談に、紗愛も珍しく冗談で返した。

 豚汁は紗愛の好物でもある。味噌汁としてではなく、ご飯のおかずとして、それだけあれば十分だと思えるくらいだ。まだ春先。昨日も今日も朝晩は冷え込む日々が続く。豚汁が急に食べたくなった。

 けれど冗談話を振ってきたはずの柳さんは、なぜか不満げな表情を見せた。

「いやいや。冗談話じゃなくって、本当にあったことなんだよ」

「……はい?」

 さすがの紗愛もきょとんとした反応をしてしまった。


 ここは紗愛が通う高校の隣にある、付属大学の図書館である。

 放課後は、ここで読書をするのが紗愛の習慣なのだが、最近はそんな紗愛を目当てに柳さんがやって来るようになってきた。

 柳さんはここの大学の探偵サークルに所属する二年生だ。紗愛の三つ上の幼なじみで、近所のお兄さん的存在だった。しばらく顔を合わせていなかったが、つい最近再会して以来、柳さんはよく紗愛のもとにやって来ては、変な豆知識を披露したり、逆にサークルのことで紗愛に相談したりしている。ここは図書館。本を読むところなのに。


「おっ。美貴が言うから話半分に聞いてたけど、可愛い子じゃん。ラッキー」

 柳さんとは別の男性から声がかかった。どうやら柳さんが連れてきた学生のようだ。

 柳さんよりは身長が高め。がっしりとしたいわゆるスポーツ体型をしているけれど、中途半端に染めた髪の毛が、いい意味でも悪い意味でも雰囲気を軽くしてしまっている。まだ寒いのにTシャツに短パンという、ラフすぎる服装もそれに拍車をかけているかもしれない。

 大学生っぽい落ち着いた柳さんの服装とは真逆な印象だが、大学を出会いや遊びの場として考えるのなら、これはこれで大学生っぽい服装といえるだろうか。


「どーも。その豚汁の被害者っす。あ、俺、新井仁。美貴とタメなんだ。よろしっくー」

「どうも……」

 紗愛は警戒しつつ軽く頭を下げて挨拶を返した。

 柳さんの知り合いとはいえ、いちおう初対面の男性だ。もっとも、おちゃらけたムードメーカーといった雰囲気で、多少紗愛の警戒は和らいでいた。

 そんな二人の間に入って、柳さんが簡単に説明する。

「実はこの新井が、さっきの空から降ってきた豚汁、ってのを頭から被っちゃったんだ」

「え?」

 思わず紗愛は新井さんの顔をじまじまとみてしまう。ついでにこっそりと匂いも嗅いでみた。だが豚汁特有の匂いはしてこない。

 そんな紗愛の様子に気付いたのか、新井さんが笑う。

「いや。豚汁を頭からかぶったのは、昨日のことだしー」

「あ、そ、そうですよね」

 さすがに豚汁を被った状態で、ここにそのまま来ることはないだろう。紗愛は赤面した。

「まぁ空からって言うのは言い過ぎかもしれないけど。昨日の朝、サークル棟の二階から実際に豚汁が降ってきて、新井の頭にかかっちゃったんだよ。僕も一緒に見ていたんだ」

「そうだったんですか」

 柳さんは突拍子もないことはよく言うけれど、嘘はつかない。その柳さんが目撃したというのなら、本当のことなのだろう。

「そうそう。故意か偶然かは分からんが、おそらく二階にいた奴のせいなんだろうけど、結局犯人が分からずじまいだったよ。これが。で、どうやって犯人を捜すかってなったら、美貴が、紗愛ちゃんに相談してみようって」

 二人の説明を聞いて、ようやく紗愛は理解した。

「そういうことでしたか。けれど昨日の朝のことが私に分かるでしょうか」

「大体の状況は説明できるからさ。とりあえず実際の現場まで行こーよ。歩きながら説明するから、なっ?」

「分かりました。いいですよ」

 新井さんの言葉に、紗愛は素直にうなずいて立ち上がった。

 図書館でこれ以上騒ぐのに気が引けたのもあるが、それだけではなく、多少事件にも興味を持ったからだ。

 柳さんの冗談に付き合ったくらい、今日はそれなりに暇だったのだ。



  ☆☆☆



 それは昨日の朝早くのこと。

 普段はまだ家にいるような時間に、新井は柳とともに探偵サークルの部室へと向かっていた。


 秋花学院大学には様々な部・同好会・サークルが存在し活動している。

 事件現場のサークル棟は歴史を感じさせるプレハブ造り。早い話がぼろい。

 昭和の頃に作られた、小さなアパートのような作りで二階建て。柵で囲まれた剥き出しの外廊下があり、二階へは手前と奥の外階段から上がることができる。

 ここを部室として使っているのは八つのサークルで、青い扉が一階と二階にそれぞれ四つずつ並んでいる。

 入口側、二階の一番手前の部屋を、新井や柳が所属する探偵サークルが使用している。非公認なのになぜ部屋を確保できたのか、新井は知らない。

 ちなみに柳は真面目に活動しているようだが、新井は名前だけの所属で活動内容には興味がない。

 その日は、本日提出の課題を講義前に仕上げるため、朝早くサークル室に向かっているところだった。


「うー。寒いな」

「うん。まだ早いし風も強いからね」

 二人はそんな会話を交わしながら、足早にサークル棟の前までたどり着いた。

 だがそのとき強い北風が吹いて、新井がフライング気味に取り出していたレポート用紙がサークル棟の庭まで飛ばされたてしまった。

「くそー。昨日の雨で地面がぬかるんでいるってのに」

 新井は毒づきながらも、地面に足跡を付けつつ転ばないよう慎重に進んで、泥がついたレポート用紙を拾った。

 そのときだった。

 ぺちゃ、っと何かが頭の上に落ちてきた。

 ふんわり香る味噌と鰹節の香り。それを引き立てているのは、豚肉のうま味。髪の毛に手をやると、熱い液体とともに小さくカットされた人参や大根がくっついていた。

「これは……豚汁……?」

 なぜ空から豚汁が落ちてくるのか。

 突然のことに理解できずも、新井は何気なく上を見る。そこにあるのは、サークル棟二階の外通路だ。

 そして姿は見えなかった。だが確かに「やばい!」って雰囲気で、誰かが顔をひっこめた感じはあった。

「おい、誰だっ。ちょい待てっ! 逃げるんじゃねぇっ!」

 それに気づいた新井は二階に向けて怒鳴ると、ダッシュで手前の階段に向かう。

「美貴! お前は裏の階段に回れ。犯人を逃がすんじゃねえぞ」

「えー。僕もー?」

 そう言いつつも、柳は素直にぬかるんだ地面を歩いて反対側の外階段の前に向かった。新井が二階に上がって犯人を追いかけているので、柳は一階の階段入口付近で立ち止まり、人が降りてこないか見張ることにしたようだ。二階から下に降りるルートは、手前か奥の二つの階段しかない。

 一方で新井は、カンカンと足音を響かせながら、一気に表側の階段を駆け上がった。

 だが二階に上がっても、通路に人の姿はなかった。

 新井は反対側にいる柳に声をかけた。

「おーい。美貴。だれか降りてきたか?」

「ううん。誰も来てないよー」

「なるほど。てことは部屋の中に逃げ込んだんだな」

 新井は用心しつつ廊下を確認した。まっすぐの通路に四つ並んでいる青い扉。その一つ目と二つ目の間、ちょうど通路の真ん中あたりに、豚汁の残骸の一部が落ちていた。

 いちおうそれぞれの入り口に表示があり、それによると二階を利用しているサークルは手前から、「探偵サークル」「仏教研究会」「ボードゲーム同好会」「手話愛好会」の順である。

 手前の探偵サークルの部屋が、柳とともにこれから入ろうとした部屋である。この時間は誰もいないことは新井も柳も知っている。鍵もかかっているはずだから、犯人が隠れることは出来ない。

 そこで新井は、豚汁の残骸が残っている廊下近くの、「仏教研究会」の部屋の扉に手をかけた。鍵はかかっていない。犯人に猶予を与えるつもりもないので、ノックも声もかけずに、そのまま扉を開けた。

「む。誰だ?」

 中から男の声がした。

 六畳ほどの部屋には、両脇に大きな本棚が置かれていた。仏教関係と思われる重そうな(質量的に)本がたくさん並んでいる。机はなく、床には畳が敷かれていた。おそらく持ち込んだのだろう。

 その奥に、坊主頭の男が座禅を組んでいた。

 新井はもう一度部屋を確認し、他に誰もいないことを確認してから詰問する。

「おいお前。さっきまで外で豚汁食ってなかったか!」

「何をいきなり。そういえば、おぬしからはほんのり豚汁の香りがするのう」

「うるせー。てめぇのせいだろ!」

 新井は入口の所に立って、押し問答をする。

 この部屋に入っている隙に、他の部屋から逃げ出すやつがいないか見えるようにするためだ。単に畳敷きなので入りづらかったというのもあるけれど。

 新井はその場で、坊主頭に事情を説明した。

 坊主頭がそれを聞いてから自己紹介をした。名前は薬師寺。寺生まれではなく普通のサラリーマン一家とか。

「なるほど。そういうわけであるか。だが犯人は私ではない。もちろん、犯人を匿ってもいない。この部屋に隠れる場所はあると思うかね」

「……ねぇな」

 入口は一つ。本棚が二つ並んでいるだけで死角はない。窓には格子が付いていて人は抜け出せない。何よりここは二階だ。

「だがあんたが犯人じゃないという証拠は? 慌てて戻って前からいたフリをしてるんじゃね?」

「それはない。私はここでずっと座禅を組み、般若心経を唱えていた」

「その証拠は?」

「隣がボードゲーム同好会だ。壁が薄く、読経しているといつもうるさいと苦情が来る。彼らに聞けば、私がずっと般若心経を唱えていたのが分かるだろう」

「なるほど。ていうかうるさいって言われているなら直せよ」

「心頭滅却すれば火もまた涼し。修行が足りないのだ」

 薬師寺はさらりと言った。

 ツッコミどころはあったが、豚汁とは関係なさそうなのでスルーした。

「それじゃ隣のサークルを見てみるか。お前も来いよ」

 新井はそう言って、隣の部屋に向かった。


「おおっ。なんだよ。いきなり?」

 ボードゲーム同好会の部屋には二人の男がいて、将棋をしている最中だった。

 入り口側に座っている男が驚いた様子で振り返って立ち上がった。

 新井は後ろに立つ薬師寺を指さしながら事情を説明した。

「はぁ。それでほんのり豚汁のにおいがするのか」

「うるせーっ!」

 新井と話している学生は銀座と名乗った。そして向かい側の席に座ってさっきからずっと黙ったままの男は、金子というらしい。

 現在は金子が長考中のようで、新井たちのやり取りを我関せずとばかりに、微動せずただ机上をじっと見つめている。

「で、結局隣からこいつの念仏は聞こえたのか?」

「ああ。もう最近は慣れてきてすっかりBGM代わりさ。金子もずっとあんな感じだし」

 ここで話していてもあのままなのだから、彼の場合はそもそも気づいていないのかもしれない。

「それじゃ。ここに犯人は隠れていないよな? それとも、お前らが口裏合わせして、実は犯人とか?」

 新井は部屋に入って、中を見回す。

 入口と窓の作りは隣の仏教研究会と一緒だ。畳の代わりに、四人掛けのテーブルが前後に二つ置かれている。脇にはキャスター付きの棚が置かれていて、そこに将棋以外のボードゲームが箱ごと無造作に積まれている。部屋全体が狭い印象だ。

 ごちゃついているが人が隠れられるほどではない。

 だがその部屋の一角に、お茶を入れるための電気ポットが置かれているのが目に入った。コンビニで買った豚汁にあれの湯を入れて食べることは可能なはず。

「犯人って。俺らはずっと将棋盤に向かっていたよ。もちろん誰かが隠れているわけでもないし。なぁ金子」

「分かんないねー」

 机上から顔をあげて、金子が間延びした声で答えた。

 いちおう話は聞いていたようだ。

「だけどー、僕って長考中の際、周りの一切の気配に無頓着となるからー、そのときに銀座が外に出て豚汁を食っていても、気づかないかも?」

「おおぉぃぃっ!」

 身内からの反論に銀座が声を上げる。

「む。だがそのおぬしがこうして話をしているということは、長考とやらは終わったのか?」

 薬師寺の問いに、金子が「うん」とうなずく。

「はい。5八歩ー」

「うげぇ……お前また、ト金を作るつもりかよっ」

 将棋のルールを知らない新井だが、銀座の反応からすると、かなりいやらしい手のようだ。

「――って、将棋の勝負より」

 新井が話を戻そうとした時だった。

 扉の外から女性の楽しげな声が割り込んできた。

「なになに。面白そうなことやっているみたいだけど」

「豚汁の匂い? まさか――」

 新井が反射的に振り返る。

 外の通路に、長髪の女性が立っていた。豚汁をすすりながら。

「て、てめぇが犯人かっ!」

「違うわよー。これはもともと作ってたのだから。量だって零れたには多すぎるでしょ」

 そうやって面白そうに反論する女は、文芸同好会の本谷と名乗った。ちなみにサークル室は仏教研究会の真下だそうだ。

「零れたって、なんで知ってるんだよ」

「そりゃすぐ上で、あんな大声で言い合っていたら、嫌でも聞こえるわよ」

 笑いながら本谷は続けて説明する。

「ちょうど豚汁のカップに入れるお湯をケトルで温めていたときかな。外からあんたの叫び声と、だだだって階段を駆け上がっている音がしてさ。こりゃ何だと扉を開けて、通路から話を聞いていたら面白そうな話をしてるじゃん。それでここに来たってわけ。あー。豚汁、旨い」

 本谷は見せつけるように豚汁をすすった。

「ああ、くそ! 性格悪いな、おい。なぁ、お前は俺が階段を上ったときからずっと外で聞いていたのか」

「うん」

「その階段って表側のだよな。そこから誰かが逃げて降りてくるところを見たり、すれ違ったりしてないよな?」

「うん」

 そうなると犯人はまだ二階にいるはずだ。奥の階段は柳が見張っている。

 新井は声を張り上げて、柳に声をかけた。

「おーい。美貴。誰か来たか?」

「誰も来てないよー」

「じゃあ、誰か階段に隠れていないか注意しながら、お前も登ってこい」

「うん。分かったー」

 返事があってからしばらくして、向こう側の階段から柳が姿を見せた。なぜか小柄な女の子も一緒にいた。

「彼女は栗間さん。僕が階段の傍で見張っていたら、何かあったんですかって、彼女が顔を出したんだ。マジックサークルの子だよ」

「ど、どうもです」

 栗間がおずおずと頭を下げた。

 本谷同様、騒ぎを聞きつけての野次馬のようだ。

 柳によると、栗間はサークル室で一人マジックの練習をしていたらしい。すると二階での騒ぎが耳に入り、何事かと部屋を出て階段近くまでいったところ、柳と鉢合わせしたという。

「一階に怪しい奴はいなかったか?」

「い、いえ……」

 栗間が小さく首を横に振った。

 彼女によると、一階は入口手前から、「古典文学の会」「文芸同好会」「所沢野鳥の集い」「マジックサークル」の順になっており、朝の時間帯ということもあって、マジックサークルの部屋にいたのは栗間だけで、隣の野鳥サークルに人の気配はなかったという。

「あ、それうちも同じー。あたしも一人徹夜でサークル室にいて、両隣の古典と野鳥サークルには人がいない感じかな」

 本谷が付け加えた。

「うーん。そうか」

 もともと新井と柳で挟み撃ちをしたのだ。犯人が一階に逃れるにはタイミング的に難しいはず。

 そうなるとやはり犯人は二階に残っているはずだ。

「さてと。お前らが犯人じゃないとすれば、犯人が隠れている部屋は二つだな。探偵サークルと、手話愛好会。美貴、一応聞いておくけど、普段この時間は誰もいないんだよな」

「うん。いないよ。でも昨日最後に出た僕が鍵を掛けていなかったから、入り放題だけど」

「おいっ、マジかよ!」

 柳のまさかの発言に衝撃を付けつつ、新井は探偵サークルの部屋の扉を開けた。やはり鍵はかかっていなかった。

 部屋は他の二つに比べて非常にすっきりとしていた。ほとんど本が置いてない本棚が左側に一つ。中央に長机が縦向きに置かれているだけだ。

 やはり窓には格子が付けられており、机の下にも当然人影はなかった。

「ね? 盗まれて大変な物もないでしょ」

「……そういう問題かよ」

 にっこり笑う柳に脱力しつつ、新井は外に出た。

 仮にここに隠れていて新井が別の部屋にいるときに下に降りようとしても、本谷と美貴がそれぞれ階段下にいて見ていたのだ。その可能性はない。

 となるのと、残りは手話愛好会の部屋のみだ。

 新井は足早にそこへと向かう。相変わらず本谷が豚汁をすすりながら面白そうに見ている。薬師寺や栗間も残っており、これらの目を逃れて脱出するのは不可能なはず。

 新井は扉に手をかけた。だが鍵が掛かっていて開かない。

「おい。ここに隠れているのは分かっているんだぞ。観念して出てこい!」

 新井が声を張り上げる。だが中からの反応はない。

 さてどうするべきかと、扉から距離を取っていると、また新たな人物が現場に現れた。

「ごめんごめん。遅れちゃったぁ……って、んー。こんなたくさん集まって、どうしたのぉ」

 現れた女性が、どこかおっとりした様子できょとんと首をかしげる。

「いや、俺的に大事件が起こってな。ていうか、君は?」

「手話愛好会の手塚さんだよ」

 柳の説明に、新井はぽんと手を打った。

「ちょうどいいや。部室の鍵持っているのか? 部屋を開けてほしいんだが」

「うん。もともとそのつもりだし、いいよぉ」

 手塚は、周りになぜか注目されている状況でも気にした様子もなくマイペースに鍵を差し込んで扉を開けた。

 新井はその後ろに立って部屋の中を覗き込んだ。

「誰も……いない?」

 手話は手だけで済むからか、今までの部屋の中で一番整然としていてきれいだった。それはつまり、人が隠れる場所が無いということで。

「――じゃあ。犯人はどこに消えたんだ?」



  ☆☆☆



「……というわけなんだけどさ」

 新井さんの長い説明が終わった。

 その頃には例のサークル棟に着いていて、紗愛は話の中の現場と実際の現場を見比べていた。

 想像より古めかしい建物だが、話の中の時間帯である朝と違って、それなりに人の気配は感じられた。

「どう? 紗愛ちゃん、何か分かった? もし必要なら、関係者の人に何か聞くこともできるけど」

「いえ。その必要はないです。だいたい、分かりました」

 紗愛の言葉に、新井さんが「おおっ」と感心した声を上げる。

「で、犯人は? 俺的には、栗間ちゃんが犯人だと嬉しいんだけど。可愛いし」

「……そういう問題ですか?」

「えーっ。でも彼女は一階にいたんだよ? 僕も見ていたし」

「そこは何かトリックを使ったのさ。マジック的に」

 新井さんの言葉に紗愛は苦笑した。

 事件から一日過ぎたこともあって、豚汁をかけられた怒りより、犯人が消えた謎の方を面白がっているようだ。

 犯人を暴く立場としては、これくらいの方が有難い。

「もし犯人が手品的なトリックを使ったのならわかりませんが、それをしなくても抜け出せるタイミングはありましたよ」

「え? ってことは……」

「はい。残念ながら、新井さんのお話に出てきた人たちの中に犯人はいません。みなが集まったころには、もう逃げ出しちゃっています」

 新井さんと柳さんが、きょとんとした顔をして見合わせた。

「どうやって? いつ? 表と裏の階段は、本谷ちゃんと美貴が見ていたんだぞ。部屋の窓からは抜けられないし、二階の外廊下から飛び降りたのか?」

 新井さんの疑問に、紗愛は首を横に振る。

「いえ。このサークル棟ですが、伝って降りられるようなものはありませんし、そもそも昨日は地面がぬかるんでいたって言っていましたが、あからさまな足跡も残っていませんでしたよね?」

 そんな分かりやすい痕跡があったら、真っ先に紗愛に伝えるだろう。

 案の定、柳さんは見ていないと答えた。

「そういうことです。つまり犯人は堂々と正面から出たのですから。まぁ多少焦って、逃げるように駆け足だったかもしれませんが」

「えっ、でもどんなトリックを使って?」

「トリックなんて必要ないですよ。豚汁をこぼした人は、新井さんの怒声に驚いて逃げようとした。ところが柳さんが背後に回って奥の階段からも逃げられない。そこで近くの部室に入ってやり過ごそうとして、たまたま鍵のかかっていない探偵サークルの部室に隠れた。幸い、新井さんが別の部屋へと入っていったのでその隙をついて、部屋を出て階段を下りてそのまま姿を消したんだと思います」

「でも正面はずっと本谷ちゃんが見ていたって」

「ああ。そうだぜ。それともまさか、嘘をついていた――ってことか?」

「いえ。嘘をついたという自覚はないと思います。ただ事実とは違う証言をしていますね。本谷さんはずっと階段を見ていた、と言っていましたが、そこに誤りがあるんです」

「誤り?」

「本谷さんの証言通り再現すればわかります。まず彼女は新井さんの叫び声と階段を駆け上がる音を聞いて、何事かと文芸サークルの部屋から顔を出した。そのとき本谷さんは何をしていたと言っていましたか?」

「豚汁に入れるお湯をケトルで温めていたって言っていたね」

「はい。彼女は扉の外で新井さんたちのやり取りをずっと聞いていました。そして面白そうだと思ったから、正面側の階段を使って二階に上がってきた。その間誰も降りてこなかったし、すれ違うこともなかった。つまり正面階段からは誰も降りてこなかったことになる。――果たしてそうでしょうか」

「ん、どういうことよ?」

「本谷さんが二階に上がっていた時、彼女は豚汁を食べていたんですよね?」

「あ、分かった。そういうことか」

 柳さんが声を上げた。

「豚汁用のお湯を温めていた彼女が、出来上がった豚汁を持って二階に上がってくる。そのためには一度部屋に戻る必要があるんだよ」

「あ。そっか――」

「はい。どこまで準備していたかはわかりませんが、一瞬目を離した隙、という表現よりは長い時間、部屋に戻っていたはずです。二階からは死角なので、おそらく犯人は、本谷さんの存在に気付いてなかったでしょうけど、新井さんたちが、ボードゲーム同好会の部屋に入っている隙に階段を駆け下りた。そのとき、たまたま一階にも隙が生まれていたんです」

「じゃあ、犯人は不明? 登場人物の中にいないなんて、ミステリーじゃねぇーっ」

 新井さんが訳の分からないことを叫ぶ。

「いえ。名前は分かりませんが、おおよそ目星は付いていますよ」

「え、マジで?」

「はい。わざわざ大学の端っこにあるサークル棟の二階の通路で豚汁を食べているのは部外者ではないでしょう。となるとこのサークル棟の利用者。一階のサークルの人もわざわざ二階に登る理由がない。ならば二階のサークルに絞られるわけですが、そのうち仏教研究会とボードゲーム愛好会は普通に入れました。探偵サークルは除外するとすれば、残るは手話サークルですよね?」

 紗愛は二人に確認するようにいったん話を区切って、続けた。

「ところが、鍵を持っている手塚さんが遅れてきて、そのときはまだ入れなかった。そして後から遅れてきた手塚さんが、ごめんごめんと謝っていたそうですが、それは誰に向けて謝っていたのでしょうか?」

「あっ――」

 柳さんと新井さんが同時に声を上げた。

「つまり手話サークルの人間か?」

「はい。おそらく手塚さんが来ているはずだからと、コンビニ等でお湯を入れた豚汁を持って部室の前に来たら、まだ閉まっていた。仕方なく外で食べているとき、何らかの原因で誤って豚汁をこぼしてしまい、それが新井さんの頭にかかってしまった。怒声が聞こえたことで動転してしまい、思わず逃げ出してしまったのでしょう」

「そういうことか! で、そいつは男? それとも可愛い女の子?」

「それは自分で調べてください」

 紗愛はそっけなく告げた。そこまで付き合う義理はない。

「そっか。まぁ過ぎたことだし、今更見つけ出して怒鳴りつけるつもりはないさ。むしろ俺的には、話のいいネタになったかなってくらいだし」

 新井さんも、はははと笑う。

 すると柳さんが急にしたり顔を作って、得意げに付け加えた。

「うん。豚汁だけに、美味しい話ってね♪」


 冷たい風が吹いた。

 紗愛は肩をさすりながら、ぽつりと言った。

「――私も豚汁が食べたくなりました」





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