事件と事故の勘違い
放課後の委員会が終わり、紗愛は席を立った。
友人や後輩、先輩方と挨拶を交わして、昇降口に向かう。
「今日はどうしようかな」
最近は、隣にある付属大学の図書館で読書することが多いけれど、友達の部活がないときには、一緒にどこか遊びに行くこともあるし、図書館に寄らずまっすぐ家に帰るときもある。
今日は委員会の後でいつもと違う時間だったこともあり、紗愛はまっすぐ校門に向かうのではなく、何となくいつもと変えて、遠回りして野球部のグラウンドを横切るコースで歩いてみることにした。
地元ライオンズのファンとして、未来のドラフト候補たちをフェンス越しに眺めながら歩くのも悪くないだろう。
ここのところ県大会二回戦くらいで敗退するのが定着してきた野球部は、ちょうどノックの最中のようだった。昨日が雨で練習できなかったから気合も入っていそうだった。
金属バットの音、そしてかけ声が聞こえてくる。
「あ、おしいっ。いい感じ。もうちょっと、動きだしを早くねっ」
「……あれ?」
紗愛は首を傾げた。
おそらくノックをしている人の声なんだろうけど、その声にどことなく聞き覚えがあったのだ。
紗愛はフェンスに近づいてその人物を確認する。そして思わず声を出してしまった。
「えっ、ええっっ、柳さんっ?」
「あ、紗愛ちゃんだ。これから図書館に行くの?」
紗愛の声に気づいたのか、バットとボールを持ったまま、柳さんが振り返って笑顔を向けてきた。
「それはまだ決めていませんが……って、そんなことより、どうして柳さんがグラウンドに入ってノックをしているんですか」
「ん。だって僕、一応野球部のOBだから。たまにこうやって遊びに来てるんだ」
「柳さんって、ここの野球部出身だったんですか……」
意外すぎて、紗愛は絶句した。
あの柳さんが野球部だったとは意外すぎた。
てっきり文芸部みたいなものだと思いこんでいた。実際ユニフォーム姿の部員の中、大学のキャンパスにいるような普段着でグラウンドに立っている姿は、違和感だらけだし。
「あれっ? さーちゃん、柳先輩と知り合いだったんだ」
「恭子ちゃん?」
フェンスの近くにある部室から、大型のポットを持って出てきたのは、去年のクラスメイトである松井恭子だった。そういえば彼女は野球部のマネージャーだ。
「柳先輩ってね、レギュラーじゃなかったみたいなんだけど、ノックを打つのがすごく上手みたいで、たまにこうやって来てくれるんだ」
恭子があこがれのような視線を柳さんに向ける。
それがなぜか気になっていたら、今度はそのきらきらとした瞳を、なぜか紗愛に向けてきた。
「ねーねー、それはさておいて。さーちゃんと柳先輩って、どういう関係なの? 知り合いみたいだし、もしかして彼氏? へぇぇ。さーちゃんに大学生の彼氏がいたなんて、意外だったなぁ」
「別に……元近所のお兄さんってだけだから」
紗愛は素っ気なく答えた。
その「元近所のお兄さん」は、再び現役の野球部員たちに向け、ノックを再開していた。
☆☆☆
柳さんのノックは確かに上手だった。簡単すぎず、かといって捕球が不可能な位置でもなく、ぎりぎりのところに狙って打てているようだ。
もっとも何回か、ファールゾーンのさらに先のフェンスを越えてしまった、見当違いの打球もあったけど。
ノックもいよいよ終わりに近づき、最後は真上後方に打ち上げないといけない、ノッカーの技術が試される難しいキャッチャーフライ。しかしこれも難なく決めて、ノックを打ち上げた。
グラウンド内のベンチでそれを見ていた紗愛は小さく拍手をしてしまった。柳さんだからではなく、ノックが上手だった人に向けてである。
紗愛がベンチにいるのは、重そうなポットを恭子と一緒に運んでいたら、見ていかないかと誘われたためだ。紗愛としても普段は入れないベンチから練習風景を見られるのには興味があったので、断る理由もなかった。
挨拶のあと、いったん休憩となる。
恭子がポットからドリンクをコップに入れて、部員たちに用意する。まだ乾ききっていないグラウンドでノックしたから、みんな泥だらけだ。
ベンチにいた紗愛も何となく手伝う流れになってしまった。
同じようにポットから飲み物を用意して、柳さんに手渡そうする。けれど、それは先に恭子が渡してしまったので、仕方なく近くにいた適当な部員に手渡した。
そんな風にベンチで動き回っていると、不意に恭子がポットをつかんで言った。
「あ、ドリンクがもうなくなっちゃう。部室にあるもう一台を持ってこないと」
「あ、だったら俺が持ってきます!」
「俺も行くっす!」
一年生っぽい部員二人が名乗り出て、部室へと向かった。マネージャーである恭子へのポイント稼ぎのような感じもした。それを見ている三年生っぽい人も苦笑いしていたし。
何となくその光景を見つめていると、柳さんが話しかけてきた。
「えーと、紗愛ちゃん……」
「はい。お疲れさまです。ん、どうしました?」
紗愛は小さく首を傾げた。
いつもなら何もしなくても勝手に話しかけてくるのに、柳さんは何やら言いにくそうな様子をしている。
なんだろうと思っていると、すぐにさっきの二人が戻ってきた。だがその手にポットはなく、血相を変えて駆けるようにこちらに向かってきた。
「ん、どうしたんだ?」
怪訝な表情を浮かべるのはキャプテンか部長さんだろうか。その彼に向け、二人は勢いよく言った。
「キャプテン、た、大変っすっ」
「部室に飾ってあったトロフィーが、真っ二つに壊されていますっ」
「な、なにーっ?」
狭いベンチ内に、キャプテンの大きな声が響きわたった。
☆☆☆
野球部のグラウンド三塁側のすぐ脇に野球部の部室はあった。
キャプテンや恭子、他の部員たちと一緒に、紗愛と柳さんも部室へと駆けつけた。
窓が開いているにも関わらず汗くさいにおいが充満する部室内には、ユニフォーム、バット、埃にまみれたボールやらグローブが床に散乱しており、その中に高さ50センチほどの金色のトロフィーが真っ二つに折れて、床に転がっていた。
「すごい状況ですね。誰かに荒らされたんでしょうか……」
「いや。トロフィー以外は、いつも通りじゃないかな。ねぇ?」
「はい。そうですっ」
ぽつりとつぶやいた紗愛の言葉に柳さんが返し、恭子がうなずいた。
「ね? 部室がごちゃごちゃしているのは僕の時代からの伝統なんだよ」
「……どんな伝統ですか」
紗愛は白い目でツッコミを入れた。
「トロフィーは僕の時代から飾ってあったんだよ。ずいぶん昔に秋の大会で好成績を収めたときにもらったものだって」
柳さんがそう紗愛に説明した。
「俺たちが部室を出たときは普通にそこの棚においてあったぞ。ちょっとした揺れで落ちるようなことはないし、練習中誰も部室に戻っていない。きっと、俺たちに恨みのある奴らが部室に忍び込んで壊したに違いないっ!」
キャプテンがいきり立っている。
トロフィーの価値は分からないが、昔から受け継がれていたものが壊されたとしたら、怒るのも当然だろう。とはいえ、部室に忍び込んで壊そうとするほどの動機を持った人物がいるのだろうか。
とそこまで反射的に考えてしまった紗愛は軽く首を横に振ると、柳さんに近づき、そっと小さな声で耳打ちした。
「――柳さん。言っておきますけど、私は、高校では便利屋みたいなことはやっていない普通の生徒なんです。変なことを言って、巻き込まないでくださいね」
「うん。大丈夫だよ。僕がしっかり解決するから。むしろ紗愛ちゃんは黙っていていてくれればいいから」
柳さんは何故か逆にほっとした様子でそう言うと、自信満々の笑顔を紗愛へと向けた。
さて柳さんはどういう調査をし、どういう結論を出すのか。
もちろん黙っていてと言われたので、口を出す気はないが。
だが紗愛が注意深く見ていた柳さんがとった行動は、予想外のものだった。
「えーと、ごめんなさい」
そう言って、一同に向かって頭を下げたのだ。
「えっ、どうしたっすか、いきなり」
「トロフィーを壊しちゃったの、もしかすると僕かもしれないんだ」
「えっ、どういうことですか」
戸惑うキャプテンをはじめとする一同。
柳さんが部屋の中、そして開いている窓を示して説明する。
「部室の中って、元々ボールが結構転がっているよね。だから一個ぐらい別のところから入ってきたとしても、分からないと思わない?」
「あ、まさか……」
「うん。僕がノックをしていたとき、何回かフェンスを越えちゃったでしょ。もしかするとそのボールがこっちに飛んできて、開いている窓から部室の中に入って……」
「トロフィーに直撃して、棚から落ちて割れてしまった、と」
つまりこれは誰かが意図的に壊した事件ではなく、事故であった。それが柳さんの主張のようだ。
「たぶんそうだと思うんだ。ごめん」
柳さんが深々と頭を下げた。
それを前にして、キャプテンが慌てて取り繕う。
「いえ、いいっす。綺麗に割れているだけなので、たぶん接着剤でくっつけられると思いますし、大丈夫っす」
そういう問題なのかと紗愛は思ったが、彼らがそれで良いというのなら、それで良いのだろう。キャプテンもとっさに口にしてしまったけど、野球部に恨みを持つ者にあてなどないのかもしれない。
それにOBである先輩の柳さんにこうやって謝罪されて断罪できるわけもない。
こうしてトロフィーが真っ二つに折れた事件は、そもそも事件ではなく事故として解決し、さっそく部員たちによる修復作業が始まったていた。
☆☆☆
「それじゃ、またねー」
「はいっ! ありがとうございましたっ!」
野球部員たちの挨拶を背にして、柳さんは野球部のグラウンドを後にする。
そのまま隣接する大学へと向かう柳さん同様、同じく部外者の紗愛も、自然とその横に並ぶようにして、いつもと同じように高校の敷地を出る。
そこまで待ってから、紗愛は柳さんに話しかけた。
「……柳さんって、恭子ちゃんと知り合いだったんですね」
「え、どうして?」
「だって今回の事件って、恭子ちゃんのために柳さんが起こしたものですよね? それってつまり、お願いする・される、の関係だというわけですよね」
なぜかとげとげしくなってしまう紗愛の口調に、柳さんはきょとんとして、それから表情を崩した。
「あ、もしかして。分かっちゃった? あの推理のこと」
「えっ? ええ……」
柳さんの口から出た言葉が、恭子との関係のことではなく、推理の話だったことに、少し拍子抜けしつつ、紗愛は言葉を続けた。
「元々、トロフィーは壊れていたのだと思います。柳さんはそれを誤魔化すため、あえて間違った推理をしたんですよね? 実際に壊したのが恭子ちゃんかどうかは分かりませんが、協力したのは間違いないはずです」
「うーっ。どこで分かっちゃった?」
「床に落ちていたトロフィーとボールを見て、ですね」
前日の雨で、グラウンドは泥が目立っていた。ノックでのボールは繰り返し使われているので、どれも泥だらけになっていた。実際私服でノックしていた柳さんの服もかなり汚れている。この格好で家まで帰るつもりだろうか。
ところが野球部の部室に転がっていたボールは、どれも埃まみれではあったが乾いており、真っ二つに折れたトロフィーにも泥汚れは付着していなかった。
「ボールに当たって落ちて割れたのでなければ、誰かが意図的に壊したことになりますが、部長さんが言うような野球部を恨んだ者の外部犯行とは、普通は考えにくいです」
もちろんしっかりと調べれば、そういう人もいるかもしれない。
だがより可能性が高いとしたら、内部の犯行になる。
「というわけで内部犯行だとすると、最後に部室を出た人、もしくは最初に折れたトロフィーを発見した人が真っ先に怪しいですよね。後者の二人組はあの慌てようで嘘を言っている感じはありませんでした。二人で示し合わせるのも大変でしょうし。そうなると可能性があるのは、みんなが練習中にポットを持って最後に部室を出てきた、恭子ちゃんが怪しいですよね」
紗愛の言葉に、柳さんはゆっくりとうなずいた。
「うん。正解だよ。実はあのトロフィー、松井さんが……と言っても今日じゃなくて何日か前に、誤って落として割っちゃったみたいで。接着剤で止めて誤魔化したけど、いつかバレるんじゃないかって、僕に相談が来たんだ」
ノックのボールで壊してしまった、という役目は誰でもできるけれど、下級生や三年生でも、キャプテンを始めとする上級生たちから糾弾される可能性がある。
その点でOBである柳さんは適任だったということだ。体育会系発想である。
「それでノックをしにきたのですね。あのフェンス越えのファールもわざとですよね。あれだけお上手なのに不自然でしたよ」
「あはは。ありがとう。本当は部室まで狙ってトロフィーに直撃させられたら格好いいんだけど、さすがにそれは無理だから、松井さんにお願いして、部室を出るときもう一度壊れた状態にしてもらっておいたんだ」
柳さんが笑ってそう答えた。
やはり紗愛の予想通りだった。ただ気になるとすれば、数多く存在するOBの中から、恭子が柳さんを選んで助けを求めたことだ。それはつまり、個人的にお願いできるくらい、普段から連絡取り合っていたということになる。
「――ただ、紗愛ちゃんが言っているように、松井さんと知り合いだったわけじゃないよ。今日初めて会ったし」
「えっ?」
紗愛はきょとんとして、柳さんの顔を見上げた。
「この話を僕にしてきたのは、三年生の花崎くんから。僕が三年だったときの一年生だよ。松井さんがトロフィーを壊しちゃったことを知って、僕に相談してきたんだ。みんなには内緒にしているようだけど、松井さんとお付き合いしているみたいだよ?」
「そうだったんですか」
内緒と言いつつ、しっかり紗愛に伝えてしまう柳さんに苦笑しつつ、紗愛はなぜか頬が少し緩んでいるのを感じていた。
そういえば恭子は柳さんのことを話すとき「~みたい」と繰り返し言っていた。少し考えれば、それは人から聞いたときの言葉であり、直接の知り合いに対して使う言葉ではないことは、明らかだった。
「ん、紗愛ちゃん、どうしたの? なんかほっとしたような顔をしているけど」
「な、なんでもありませんっ」
紗愛はプイっと顔をそむけた。
幸い柳さんは変に追及してくることはなかった。
けど、代わりに紗愛があまり知りたくなかった事実を付け加えた。
「それに、今回の件は、僕としても放っておけなかったし」
「えっ? どうしてですか」
「実はあのトロフィー、僕たちの時代から、接着剤でくっ付けられた跡があったんだ」
「……そうですか」
だったら最初からそのことを話せば良かったんじゃないですか、と思ったけれど、体育会系的にそういうわけにはいかないのかもしれないし、今回はせっかく柳さんが頑張ったのだから、それは言わないでおいていた。




