畑に消えた女性
「ねぇねぇ、紗愛ちゃん。知ってる? ガスというのは、本来無味無臭なんだよ」
「……知っています」
スマホの画面の向こうで得意げな表情を見せている柳さんに向け、紗愛はそっけなく言い放った。
夜中にビデオ電話かけてきて、いきなりこんな話を振られて愛想よくできるほど人間は出来ていないのだ。
そう思いつつも、映像電話に応じてしまう紗愛も紗愛であるが。
柳さんは紗愛の通う高校の、付属大学に所属する大学二年生だ。
いわゆる幼なじみの関係で、彼が引っ越してからは交流が途絶えていたが、つい最近、大学の図書館で再会した。
そのときは連絡先の交換をせずに別れたのだが、その日の夜、柳さんが直接紗愛の家電に電話してきたのだ。子供の頃の知り合いならではの力技である。
毎日掛けて来かねない感じだったので、リビングで弟や両親に見られながら電話するくらいなら……と携帯の電話番号を交換してしまった結果がこれである。
「うん。実はそうなんだ。ガスが充満していても気づかないという危険性を回避するため、わざと臭いが付けられているんだってね。似たような例だと電気自動車もそうかな。本来なら、エンジン音はまったく聞こえないほど静かみたいなんだけど、それじゃ歩行者に危険だからと、わざと音が出るような設計にしているんだよ」
そっけない紗愛の対応にくじけることなく、柳さんは昔と変わらない人懐っこい笑顔を浮かべて話を続ける。
「で、何が言いたいんですか?」
紗愛が冷たい視線をスマホ越しに送る。
これが出来るのも映像電話ならではである。もっとも音声だけでもその冷たさを送ることができる自信が紗愛にはあった。
さすがに柳さんもそれを感じたのか、少しばつの悪そうな笑みを浮かべて答えた。
「いやぁ。いま大学の帰りで、駅から畑道を歩いているんだけど、ちょうど僕の前を白いセーターを着た女性も歩いているんだよ。後を付けるような形になっちゃってね。ほら、暗闇の中で物音もたてずに後ろを付けるように歩いていると、何かと誤解を受けそうじゃない?」
「それが私に電話かけてきた理由ですか」
紗愛は大きくため息をついた。
柳さんが電話してきた理由は分かった。紗愛も同じ女性として、黙って付いてこられるよりは安心できる。もっとも、暗い夜道を一人で歩く女性の方が不用心な気がしないでもないけれど。
その点では、柳さんの対応は悪くはない。
問題なのは、なぜ自分に電話してくるのか、ということだ。
と紗愛が思っていたら、急に柳さんが大声をあげた。
「ええっ、な、なんでっ?」
大音量に、紗愛は思わず首を後ろに反らす。その後、スマホを持つ手を遠くにもっていけばよいことに気付いて、こっそり赤面した。
「どうしたんですか? わざわざ前の女性にそこまでアピールしなくても。かえって怪しまれますよ」
「いや、その、ね。いないんだ。前を歩いていた女性が」
「はい?」
「消えちゃったんだ。も、もしかしてお化けだった?」
「落ち着いてください。おおかた、角を曲がったとかではありませんか?」
紗愛は離していたスマホに少し顔を近づけて尋ねた。
だが画面の向こうの柳さんは、まだ慌てた様子で首をぶんぶん横に振る。春先でまだ冷えるのか、今日は少し厚着だ。
「いやいや。ここ、ほんとに一本道の畑だから、角なんてないし」
「じゃあ、何かの物陰に隠れたとか」
「物陰って言っても、右も左も畑だから。お茶の木とか畝に被せたビニールとかはあるけど、大人の女性が見えなくなるには無理があるかも。そりゃ、無理すれば隠れられるかもしれないけど」
「なるほど。そこまでして身を隠すほど、柳さんが怖かったんでしょうね」
「いやいやいやっ」
もちろん、今のは紗愛の冗談だ。
たとえ後ろを付けるように歩いている柳さんに恐怖したとしても、彼から逃れるために畑にダイブする女性はいないだろう。
スマホ越しに見える畑道は、街灯も家の灯りもなくて、かなり暗い。意図的に隠れようとすれば、隠れられないこともなさそうだ。
「ねぇ、もしかして落とし穴があって、それに落ちちゃったのかな? それともマジック? UFO?」
「……探偵サークルに所属している人の考え方が、それですか」
どんどん飛躍していく話に、紗愛が呆れ気味に言った。
片方が慌てていると、もう片方は落ち着くものだ。
そういうわけで紗愛は冷静に、状況を確認するため柳さんに問いかける。
「女性は酔っていましたか?」
「いや。たぶんそれはないかな」
酔って倒れてそのまま寝てしまったというわけではなさそうだ。
そうなると……
「今日昼間は暖かかったですけど、今、けっこう風が強く吹いていますよね。そっちも寒くないですか?」
「うん。電車の中は暑かったけど、だいぶ冷えてきた感じかな」
「前を歩いていた女性ですが、白いセーターを着ていたと言っていましたけど、もしかして脱いだコートを手に持っていませんでしたか?」
「う、うん。たぶんそうだったと思うけど」
その答えを聞いて、紗愛はうなずいた。
「女性が消えた理由、分かりました」
「え?」
柳さんがきょとんとした顔を画面越しに見せる。
紗愛は特に自慢するわけでももったいぶるわけもなく、淡々と説明する。
「おそらくその女性は、手にしたコートを着込んだんでしょう。それで目立っていたセーターの白色が隠れたから、見えなくなったと思います」
この中途半端な時期。暖房の効いた場所は暑いけれど、外は寒い。女性の行動に不審な点はない。
「でも、それだけで見えなくなっちゃうなんて、あるのかな」
柳さんはまだ半信半疑のようだ。
確かに彼の言う通りだ。
だが紗愛がそう判断した理由は、それだけではなかった。
「もう一つありますよ。女性が見えなくなった理由。そうですね。ビデオ通話を切って、携帯を耳に当ててもらっていいですか?」
「うん。…………えーと。したよ」
しばらく間が空いてから、柳さんの返事があった。
紗愛は柳さんの顔が消えたスマホの画面を見ながら言う。
「それじゃ、今立っているところから、ぎりぎり見えるものありますか。周りは暗いと思いますが、何でもいいです」
「うーん。右前の畑に、ポールって言うか物干しざおみたいなのが地面に刺さっているのが、うっすら見えるよ」
「それでいいです。しばらくそれをじっと見ていてください。何か気づいたことありませんか」
「寒い」
「そーじゃなくて。さっきより、物干しざおがよく見えるようになっていませんか?」
「うん。目が暗闇に慣れてきたからかな」
柳さんが当たり前のように言う。
その言葉に紗愛はうなずいた。
「つまり、そういうことです」
「ん? どういうこと」
「柳さんは、最初暗闇の中をずっと歩いていました。けれどビデオ通話をしていたため、スマホの灯りに目が慣れてしまったんです。ですから改めて前方を見たとき、まだ目が暗闇に対応できていなかったため、女の人の姿がより見えづらくなっていたんだと思います」
「へぇ。なるほど。そうだったのかぁ」
柳さんが感心した声を出す。電話の向こうにある彼の表情が目に浮かぶような、納得した様子だった。
「あれ? でも、そろそろ目が慣れたはずなのに、女性が見えないんだけど」
「そりゃ、女性が見えなくなってからずっとその場で、私と話したまま突っ立っていれば、その人はもう遠くまで歩いて行っちゃってますよ」
紗愛はため息をついて答えた。
そりゃそうだ、と柳さんが苦笑するような声を出した。
「それじゃあ今から、紗愛ちゃんの仮説が正しいか調べたいからダッシュして追いかけてみるね」
紗愛は大きくため息をついた。
「――やめてください。それこそ本当に変質者扱いされますよ?」




