図書館ではお静かに
「あれ? あっ、もしかして紗愛ちゃん?」
大学の図書館で、ハードカバーの本に目を通してた石田紗愛は、不意に自分の名前を呼びかけられて、顔をあげた。
声をかけてきたのは一人の男性だった。体型は普通で身長は170センチの少し上くらい。おそらくここの大学生だろう。ボタン付きのシャツにチノパンという、取り立て特色もないラフな格好をしている。
男性にしてはやや高めの声。自然と茶色がかった髪の毛はさらりと輝いていて、意外と整った顔立ちだ。そして普段から笑顔が多そうな、人懐っこい表情。
見知らぬ男性から声を掛けられたら普通は警戒するはずなのに、不思議とそういう気持ちにはならなかった。図書館でナンパはないだろうし、雰囲気も全然そういう感じではない。
そもそも相手は自分の名前を知っており、逆に紗愛の方も、その男性にどこか見覚えはあった。最近ではなくずいぶん前のこと――
「――柳さん?」
「うん。そうそう。やっぱ紗愛ちゃんだっ。久しぶりだねー」
「……図書館ではお静かに」
「あっ……うん。ごめんごめん」
柳さんははっと気づいて口を手で覆うと、小声に切り替えた。変わらない笑顔を浮かべる顔には、うっすら汗が浮かんでいた。
柳さんは、紗愛の家の近所に住んでいた三つ年上のお兄さんだ。小学校の通学班が一緒で、よくクイズを出し合って一緒に遊んでいた間柄で、いわゆる幼なじみのような存在である。下の名前は美貴と言って、女の子みたいという印象を抱いていた。
柳さんが中学校に進学してからは顔を合わせる機会も減ってしまい、最近では引っ越したのか顔を見かけることはほとんどなくなっていた。
「よく私のことが分かりましたね」
紗愛は小声で話しかけた。同じ年月を過ごしていてもその当時幼かった紗愛の方が変化は大きいはずだけれど。
「えへへ。本を読んでいる後姿がどことなく見覚えがあってね。それに色々なジャンルの本をまとめて側に置いて交互に読むのも、紗愛ちゃんの昔からの癖だよね」
「あっ……そうかもしれませんね。自分ではあまり気にしていませんでしたが」
一冊の本を通しで読むのではなく、少し読んだら別の本、そしてまた別の本と、ちょくちょく読み替えるのが紗愛の読書スタイルである。今もエッセイ本のほかに、戦国時代の歴史本、テレビ業界の裏話系、そして舞台の特集本が横に積まれている。
「それで、もしかしてと思って。そーっと横顔を覗き込んだら、可愛い顔が見えて、あ、紗愛ちゃんだって」
「――か、可愛いって!」
「さ、紗愛ちゃん。図書館では静かに……」
「……まったく、誰のせいですか、もぉ」
紗愛は口をとがらせる。
柳さんの少し天然気味なところも変わっていないようだ。
紗愛は小さく咳払いをして、話題を変えようとした。
「それにしても、柳さんはここの大学に通っていたんですね」
「うん。家は引っ越しちゃったけど、今は大学近くのアパートを借りて一人暮らしをしながら通ってるんだ。文学部の二年生だよー。紗愛ちゃんのその制服は付属の高校のだよね? てことは今度同じ大学に通えるんだぁ。それにしても、あの紗愛ちゃんが制服着てるなんて、なんて不思議な感じだなー」
「……そのセリフ、おじさんっぽいですよ?」
紗愛は苦笑した。
白いブラウスにパープルのセーラーカラー。リボンは赤と白のチェックで、スカートも襟と同じパープルが目立つチェックのプリーツスカート。
紗愛の通う、秋花学院大学付属高校の制服姿だ。
ここ秋花学院大学は地域に密着しており、キャンパスをはじめ、図書館も地元の人にも開放されている。そのため、この大学図書館にも大学生以外の老若男女の姿も数多くみられる。
付属の高校に通う紗愛は、放課後この図書館で読書をするのが最近の日課になっている。
「ねぇねぇ紗愛ちゃん。せっかく会ったんだし、何か面白い話をしようよ。僕、探偵サークルに所属しているから、ミステリーっぽい謎とかあったら、何でも答えちゃうよ」
「ふふ。相変わらずですね」
紗愛も柳さんも、昔から好奇心が旺盛な方で、子供の頃からちょっとした疑問や謎を、二人であれこれ調べまわって遊んでいた。どうやら柳さんは、それが長じて、探偵サークルなどいうものに所属してしまったようだ。
昔と変わらないなぁと思いつつ、せっかくなので少し考えてから、紗愛はとある話題を口にした。
「そうですね。それじゃ、図書館にちなんで……」
読んでいた本をぱたりと閉じて、紗愛は語り出した。
「私、最近この大学の図書館に通っているのですが、とある本を読みたいと思っているのに、いつも本棚に置いていないんです。蔵書検索ができますから本棚の位置は分かります。誰かが借りているというのも分かりますし。けれど借りられていないときでも、その本棚に見つからないんです」
「蔵書検索で出る場所って、あの「913.タ」みたいなやつだよね。司書の資格を取る講義も受けているから、ある程度は分かるよ」
「はい、そうです」
紗愛はうなずいた。日本十進分類法と呼ばれている日本の図書館で利用されている図書の分類法だ。司書の資格を取る講義を受けているのならそこまで説明してほしかったが、名称の問題ではないので紗愛は特に口にしなかった。
「たとえば、誰かが読んでいるとか? 借りているわけじゃないから、蔵書検索の機械でも分からないでしょ」
「私が来るときに、ほぼ毎日ですか?」
「じゃあ、本棚の並べ方がいい加減とか?」
「そういう図書館もありますが、ここの大学図書館はしっかりと分類番号通り並んでいますよ。ほら」
紗愛が近くの書棚を指さす。
この辺りは伝記や地理関係の本が並んでいる。大小さまざまな大きさの本だけれど、確かに分類番号通りに並んでおり、番号が同じときは、その先のカタカナで記された作者順にしっかりと並んでいる。
「あ、分かった。作者の読み方が違うんじゃないかな? もしくは分類が違う場合もあるよね」
たとえば、東野。とうの、とも、ひがしの、とも読める。「と」と「ひ」では当然、置き場所も違う。もしくは分類の問題だ。芸能人が旅した出来事をまとめた本が、旅行記に分類されるか、テレビ関係の分類にされるかで、やはり置き場所が違う。
そう説明する柳さん。
けれど紗愛は首を横に振った。
「確かに一瞬その可能性も考えましたが、そもそも書名からの蔵書検索で分類番号が出ますので」
「それじゃやっぱり置き間違えかな。一冊や二冊くらいは間違いもあるかも」
「ですが、蔵書検索すると、何度か借りられているんですよ」
「うう。そうかぁ……」
柳さんが首をひねった。
借りられているということは、借りた人はちゃんとその本の場所が分かって手にしたわけだ。そして返ってきた本は、再び図書館の職員によって指定の場所に戻される。その一連の流れが繰り返し行われているとしたら、ずっと同じような置き間違えが続くとはあり得ないだろう。
「ねぇ、ところで探している本は?」
柳さんの問いかけに、紗愛は視線を書棚に向け、思い出すような素振りを見せながら答えた。
「はい。『かってに命名。日本の百名山 秋花学院大学ワンゲル部編』という写真集です」
「なにそれ。うちの大学のじゃん。おもしろそう」
柳さんは楽しそうな表情を見せると、見つけてあげる、と意気込んだ。
まず柳さんは蔵書検索機を使って、本の貸し出しの有無、場所を確認しにいった。紗愛もその後に着いて行き、様子をうかがう。
当の本は、今は借りられておらず、ちょうどこの階の閲覧室に並んでいると表示された。
「えーと、291……291.1、291.2……あれ、飛んじゃった」
柳さんは棚の番号を見ながら、ざっと上から下、左から右へと当の本を探しているけれど、案の定見つけられないようだった。
「うーん。もしかして分類番号はこっちになっているけど、写真集の方に間違って置かれているかも」
「写真集の分類番号は748ですよ」
「うん。ありがとう」
紗愛に言われて、柳さんがそちらの棚へと移動する。
「えーと、写真集と言ってもいろいろあるんだねー」
一冊一冊を棚から取り出すようにして確認しながら、柳さんが感心した様子でつぶやく。
写真集だけではなく、映像論・写真の技術論の本もこちらに並んでいる。しかも大きさもバラバラで、文庫本のような大きさから、書棚の前にはみ出すような本も存在している。
それを眺めていた柳さんは不意に何かに気付いたように声を上げた。
「ん……あっ。もしかして――」
柳さんが早足でさっきの書棚へと向かう。図書館内で駆けだすように歩くのはどうかと思いつつも、そんな子供っぽい柳さんに苦笑しながら紗愛も続く。
そして紗愛が少し遅れて書棚に到着すると、柳さんが大きな写真集を手にして笑顔を向けていた。
「ほら、紗愛ちゃん。あったよー。そっか、大きいから別の場所にあったんだね」
紗愛は笑って答えた。
「ええ。そういうわけです。写真集は通常の本に比べて立派で大きな本が多いですが、あまり大きいと通常の書棚には収まらないので、書棚の一番下の段を二段ぶち抜いて、専用の場所を作ってそこにあったんです」
「えー。何だ。紗愛ちゃん知ってたんだ」
柳さんがちょっとすねた表情をして見せた。
「それに、推理って感じでもなかったし」
「そりゃそう簡単にミステリーのネタが転がっているわけないじゃないですか」
紗愛が苦笑した表情を浮かべる。
探偵サークルに入っているといっていたので、そういう話を期待していたのかなと思っていると、柳さんはにんまりと笑って、紗愛の内心を覗き込むような感じに言った。
「じゃあちょっとした推理を見せてあげようか。さっきの話。紗愛ちゃんが探していた本って、実はあれじゃなくて、別の本のことだよね?」
「え?」
紗愛は瞳をぱちくりとさせた。
確かに柳さんの言う通りだ。例の山の写真集は、先ほど座っている席から見えた書名を口にしただけだ。そして本当に探していた本が別にあったのも、その通りだった。
紗愛は面白そうに柳さんに聞き返した。
「どうしてそう思ったんですか?」
「えっとね、さっきの本、隣の本とぴしっとくっついていて、取り出すのにすごく苦労したんだ。紗愛ちゃんがちょっと前に読んだり、誰かが借りたりした様子はなくて、もうずいぶん前から棚に置きっぱなしって感じだったから。でもその割には紗愛ちゃんの説明がしっかりしていたから、別の本での実体験なのかなって」
柳さんはそう言うと、ちょうど紗愛が座っていた席の近くまで戻ってきていたので、その机の上に並べられた本にざっと目を通す。
「戦国武将集、食べ歩きのエッセイ、男性アイドル事務所の暴露本、そして舞台特集。一見するとバラバラだけど、共通しているのは、ひとりの役者さん――だよね?」
「うっ……」
紗愛の口から思わず変な音が漏れてしまった。
「つまり紗愛ちゃんが見たかったのは、とある男性アイドルの写真集……」
「うう。べ、別に良いじゃないですか。空宮くん、格好いいんですからっ」
紗愛は顔を赤く染めた。
今放送されている大河ドラマの主役に抜擢され、バラエティ番組でも活躍中の若手俳優だ。まだブレイクする前に出したという写真集は、今では手に入らないレアものになっている。それがまさか目と鼻の先の大学図書館に所蔵されていたとは、紗愛は目を疑ったものだ。
アイドルの追っかけってほどではないけれど、こうやって人に指摘されると恥ずかしい。
だから、紗愛もお返しに言ってやった。
「それより、柳さんの方こそいいんですか。この後、ゼミか講義があるんじゃないですか? 探している図書は見つかりましたか」
「あっ――」
柳さんが明らかに、忘れたっ! って顔をした。
「私、結構この図書館に通っているんです。それなのに、今になって柳さんと再会したってことは、普段は図書館をほとんど利用していませんよね? それなのに今日は利用していた。あと私と再会したとき、まだ春先なのに額に汗をかいていました。大方、講義かゼミに必要な本を忘れて、慌てて借りにきたんじゃありませんか?」
「わぁ。すごい。紗愛ちゃん、正解だよ! って、そんな場合じゃないや。ごめんね、また今度ねーっ!」
「だから図書館では静かにと……」
ぴゅーっと柳さんが去って行ってしまったため、必然的に自分に集まる視線に赤面しつつ、紗愛はため息をついた。
紗愛はちらりと机の上に並んでいる本に目をやった。
柳さんと出会ったばかりのこと。当時の年齢差からすれば当然だが、紗愛よりずっと物知りで色々なことを知っている柳さんは、小学校一年生になったばかりの紗愛にとって、憧れのお兄さんだった。
紗愛がこうやって本をたくさん読むようになったのも、柳さんに憧れて追い付きたいと思ったからだ。
ところが読書の甲斐があってか、紗愛が小学三年生になる頃には、知識量は柳さんを上回ってしまい、立場は逆転してしていた。
そして柳さんはいつの間にか、逆に紗愛に何でも尋ねてくる「面倒なお兄さん」になっていた。
「……何か、またそんな感じになりそう」
紗愛はため息交じりに小さく漏らした。
けれど久しぶりに見た柳さんの笑顔を思い出すと、それもまぁ悪くないかなと思った。