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埼玉はなぜ魅力がない?  作者: 飛べない豚
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東京と埼玉の主従関係

 埼玉の隣に巨大勢力を持つ、首都・東京。江戸時代に国の中心が江戸となって以降、わが国は江戸はたまた東京ありきの世の中である。それは、今も昔も同じこと。

 昔、埼玉と東京が同じ「武蔵国」であったとはいえ、この両者には格差がある。これは主従関係といえるような奇妙な関係として表れ、かつてから、埼玉は東京に献身してきた。この章では、こうした埼玉と東京の主従関係について述べようと思う。埼玉が、いかに東京にこき使われていたかが分かるはずだ―――。


 関東地方は、知っての通り広大な平野によって成り、関東平野外郭の山間部から流れる水が河川となって東京湾に流れていた。平たく言えば、関東地方には川が多い。

 これは埼玉に限定しても同じことで、埼玉県は河川の流域面積が日本一大きく、最近では「川の県」なんて呼ばれることもある。


 ともあれ、比較的大きい河川が、みんな揃いも揃って東京湾に流れ込んでくるんだから、昔の東京は大変なことになる。ダムなど無い時代の話。江戸時代、江戸では川沿いの地域を中心に大規模な水害が頻発し、住民を結構困らせていた。江戸幕府も、この状態を重く見て、治水を発令することにした。


 ところで この治水、労を費やしたのは江戸ではなく、現在の埼玉県域に当たる地域だった。

 江戸に大規模水害をもたらした河川の大半は、江戸の上流、埼玉を通って流れてきており、これらの河川の治水工事は、ほとんどが埼玉で実施された。

 この工事に動員されたのは、当然ながら武州の人々。江戸のために川の流れを変えろと言われた武州の人々は、さぞかし面食らったことだろう。

 例えば、荒川あらかわ。この川は、秩父山地ちちぶさんちから東京湾へ至る一級河川であるが、この川、漢字からも分かるように「暴れ川」などと呼ばれ、水害を頻発させていた。

 荒川の凄まじいパワーは、当然のごとく下流の江戸でも猛威を奮い、江戸の街を水浸しにしていた。さすがにこれはマズイ、と治水をすることになるのは当然の流れだが、やはり舞台は埼玉である。

 しかしながら、暴れる川の流れを変えたり、水路をこしらえて水量を調節したりする工事は、容易なものではない。むしろ無茶な要求だが、江戸からの命令は絶対。武州人たちは、江戸の安全のためだけに労力を費やし、難工事をこなしていったのだ。

 ところで、この難工事は、それだけでは終わらない。河川の流れを干拓する際、「せっかくだから新田にしちゃえ!」という計画の下、河川沿いにたくさんの田んぼを こしらえたのである。田んぼができるなら いいじゃないか、と思うかもしれないが、収穫した米の大半は江戸に持っていかれるので、単に仕事が増えただけとも思える。江戸時代の武州人は、江戸を水害から守るために働き、ついでに こしらえた田んぼは江戸っ子の腹を満たすために使われた―――。埼玉は、植民地化されていた。


 しかし、武州人は、江戸っ子の予想よりも頭がよかった。


 埼玉県の東部―――つまり、春日部市かすかべし草加市そうかしに当たる地域だが、ここでも河川改良工事のついでに大量の新田が作られていた。米は採れる。この地域では、利根川とねがわから得られる良質な水、そして稲作に向いたよく肥えた土壌があり、なんだかんだ言って稲作が盛んになっていた。

 特に、現在の草加市に当たる地域では、余った米を無駄にしないように、団子状にして乾燥させた保存食「堅餅」というのが作られていた。もうお分かり、この「堅餅」こそが草加せんべいのルーツなのだ。草加には街道があり、堅餅を街道沿いで売ったところ評判になったのが始まり。

 あの「埼玉名物」が東京のお陰で誕生した、というのも なんだかすっきりしないが、埼玉は江戸を見事に“利用”していた。

 ちなみに、当時の草加せんべいは、塩味しかなく、今のような醤油味は存在しなかった。しかし、今のように せんべいに醤油を用いるようになったのも、「地の利」が関係している。

 この地域では、街道が整備された後も、利根川を用いた水運が盛んだった。そしてこの頃、下総(今の千葉県)で醤油の醸造が盛んになっていた。醤油作りで有名な千葉県の野田は、埼玉東部から利根川を挟んで対岸。すぐ近くである。

 野田で醸造された醤油は、利根川の水運を使って江戸に運ばれていた。その過程で、通過地点である草加にも醤油が持ち込まれた。あとは、もうお分かりの通り。千葉の上等な醤油と草加せんべいは、「夢のコラボ」のごとくドッキングを果たし、草加せんべいは水運を活用して今の形になったのである。江戸どころか、千葉もちゃっかり“利用”していた埼玉だった―――。


 そうは言っても、埼玉は今も昔も東京に献身してきた。今までに述べたことに加え、関東大震災の際には多くの人々を受け入れ、人口増加時に溢れた人々の受け皿となった。なのに、埼玉は感謝されるどころか「ダ埼玉」とまで呼ばれる始末。埼玉県民よ、ここまで言われて悔しくはないか!? 立ち上がって、今こそ抗議をすべきだ。「何も知らないクセに、埼玉を貶すな」と。

 まあ逆に、この「献身してきた歴史」のせいで、埼玉を下に見る風潮が確立してしまったのかも知れないが……。

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