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埼玉はなぜ魅力がない?  作者: 飛べない豚
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東京にとって 埼玉など眼中に無かった

 先述の通り、埼玉は東京の隣に位置する県として、古くから同じ歴史を歩み、また、時に東京から恩恵を受けて発展してきた。発展に遅れこそ取ったものの、今では県南部を中心に大都市を形成しているし、県内の宅地化は現在でも著しい。さいたま新都心には、首都機能の一部を移転させる動きもある。交通網の発展により、物流の面でも注目されている。

 ところで、今でこそ 行政、企業の各方面にとって重要な地位を築き、核都市やベットタウンとしての役割を確立している埼玉だが、それは割と最近の話。かつては、行政だって見向きもしないような土地だったのである。章題の通り、それこそ眼中に無かった、と言えるだろう。


 時は江戸時代。政治の中心が江戸(東京)に移り、「中枢」としての機能が西日本から関東へ やって来た。江戸幕府は、幕藩体制を確立させ、同じ頃、東京の日本橋に始まる五街道の整備に着手する。

 五街道は、東海道、中山道なかせんどう、甲州街道、日光街道、奥州おうしゅう街道の総称で、当時の 交通のかなめ、いわば大動脈である。スタート地点が東京ゆえに、お隣の埼玉(現在の県域)では、2つが通り、このうち中山道は、江戸と京都を結ぶ大幹線であった。難所が少なかったことから、東海道よりも利用者が多かったという説もある。それ以外にも、各方面への主要な街道は県内を通るものが多かった。古くは、かの松尾芭蕉まつおばしょうも、東北への道中で埼玉を通ったとされる。とにかく、主要な街道が通ったことで、埼玉では各所に宿場町が形成され、大いに賑わった。当時の宿場町は、現在でも発展を続け、宅地や都市を形成している―――。

 ところで この2線の街道(中山道、日光街道)。中山道は、先述の通り、江戸と京都を結ぶ街道。日光街道は日光への参詣道、また、日光街道に続く奥州街道は東北地方への動脈として 役割を担っていた。要するに、東京と遠隔地を結ぶための道路で、埼玉のために作られた道ではなかった。埼玉は ただの通過点、通り道に過ぎず、「たまたま通っただけ」だったのである。幕府は埼玉に興味など無く、もっと先、京都や東北に視線を向けていた。「埼玉? ああ、東北に行く途中にあるヤツ?」―――そんな認識だったはずである。

 話は少し戻る。

 先ほど、宿場町は、街道を通行する旅人で賑わった、と述べた。確かに それは本当で、街道沿いには様々な店や宿が軒を連ねたという。利用者が多かった中山道沿いに至っては、その活気は相当な物だったのだろう。江戸には相手にされずとも、埼玉には「旅人」という収入源がバッチリある。なんだかんだ言っても、宿場町が多かった当時の埼玉県は、いいことずくめ のように思える―――。

 ただし、この文章に取り上げられている以上、話はこれで終わらない。


 五街道を通るのは、何も一般人や松尾芭蕉に限った事ではない。しかるべき地位の人―――要するに、結構 偉い人だって通ったのである。

 江戸時代には、参勤交代という制度があった。歴史の授業で習った通り、各地の大名が1年おきに江戸と領地を往復する、という制度だが、多くの大名は江戸への道中、埼玉を通ったことだろう。

 大名くらいのクラスになると、相当な資金を引っさげて長旅をしていたのだろう。江戸への道中、埼玉の宿場にも立ち寄り、結構なお金を落としていったはずである。同行者の分も考えると、かなりの収入である。宿場の人々にとっては、そこら辺の旅人よりも、大名の方が断然ありがたかったに違いない。

 参勤交代で大名が通る暁には、揉み手で「ようこそ、いらっしゃいました」とお出迎え―――。

 だが、うまい話ばかりでは無い。

 むしろ、ありがたいと思われた参勤交代こそ、当時の埼玉県民にとっては大きな負担だったのである。

 

 街道沿いの農民には、「助郷すけごう」と呼ばれる労働義務が課された。名目は「街道保全のため」だが、実態は、参勤交代で訪れた大名の世話、馬の提供などの役目である。

「やあ、宿場の活気も凄いねぇ。最近、どうよ」「へえ、お大名様、お陰様で商売も順調でございます」「ほう、そうか。だったらさ、大名(オレ)たちの世話を、義務にしちゃってもいい?」「え!?」「儲かってるんでしょ? じゃ、よろしく~」―――とまあ、こんなカンジ。

 当然、埼玉の農民の負担は膨れ上がるし、さらには年貢ものしかかる。こうなっては、大名を揉み手で迎えている場合では無い。農民の不満は高まり、やがて不満は「伝馬てんま騒動」という事件によって大爆発する。

 1764年に中山道沿いの宿場で発生した伝馬騒動では、30万人にも及ぶ民衆が大反乱を起こして大暴れ。反乱は街道を伝って、他の宿場にも飛び火し、中山道は しばらくの間 マヒ状態だったと言われている。これを契機に、幕府も負担を上げることは無くなったが、埼玉の力を見せつけた瞬間であった。


 埼玉の、交通としての「眼中に無い」状況は、現在でも続く。五街道の役割は、鉄道や高速道路に受け継がれたが、やはり埼玉は「通り道」のままで、いつになっても「目的地」になることは無かった。

 東北新幹線が県内に建設された際も、埼玉は邪険な扱いにされた。ところが、これには住民が黙っていなかった。大いに揉めたのだ。これは、埼玉のためにならない新幹線を作るのに、埼玉県民が土地を提供するのは納得がいかないと考えた住民が、反対運動を行ったからで、大宮~東京の用地買収は進まず、この区間だけ開業がずれ込んでしまった。この反対運動は、新幹線の隣に「通勤新線(埼京線とニューシャトル)」を作ることや、新幹線を大宮駅に全列車停車とすることで沈静化したが、埼玉を素通りすることは、今も昔も当然であったのだ。

 現に、埼玉の交通網は、ほとんどが東京~地方に向かって伸びている。結局、県内は南北間の交通網が発展しているのに対し、東西を横断する交通路は少ない、という状態に陥っている。埼玉のためだけ(・・)に鉄道や道路が建設された例は、未だに少ないのが実情である。


 昔から、埼玉は「各地への通り道」という、重要ながらも影の薄い存在であった。いわば、「縁の下の力持ち」とでも言えようか。目的地にはならない、という昔からの「原則」がある以上、埼玉に魅力を見いだせないのは、当然なのかもしれない。

 

 

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