♠8月
夏休みに入ってからも授業はあった。所謂補習授業だ。夏休み開始から2週間、平日の午前中に3時間だけ。それも成績の悪い奴だけに限られていた。
勿論期末テストで、大いに順位を落とした山下も参加している。そして今日からは、何とこの部屋でも補習を行う事になったのだった。
「先生、ここの口語訳も見て下さい」
「はいはい」
教えて欲しい所があると、昼過ぎに突然山下が押しかけてきた。成績を落としたのが母親にもバレて、現在小遣いを止められているそうだ。それに自分でも、補習を受ける羽目になったのが許せないのだろう。最近はこの部屋でも勉強しているようで、次のテストは絶対巻き返してやると大いに張り切っていた。
腹いせを勉学にぶつけるのは大変良いが、その矛先が服部にも向けられるので少々厄介だった。
「先生、私の成績テストだけ見て下げたでしょ」
この仏頂面にも慣れてきたのか、最近生意気な口を聞くようになっていた。
「手を付けたのは国語だけだ。他は知らん」
むすっとした顔でこちらを見上げる。問題集をやり終えたかと思うと、次は数学の参考書を取り出した。
「先生、こっちも教えて下さい」
「俺はお前の家庭教師じゃないぞ」
「ふーん、数学はわからないんだ」
嬉しそうににやにやしている。一端の国語教師に高校数学が解けるか。範疇外だ。
「お前が教えて欲しいと言うから、ここに残っているんだ。用が済んだなら出て行くぞ」
「待ってよ先生、冗談だってば」
靴を履いて出て行こうとした服部を、山下は腕を掴んで阻止した。最初から素直でいればいいのに。
「冷たい物を買ってくるだけだ。休憩にしよう、何が欲しい」
「えっと……じゃあ、バニラアイス」
「わかった」
猛暑の中、歩いて近くのコンビニに入る。プールの帰りなのか、水着をぶら下げた小学生が戯れていた。服部は子供の合間を縫ってお目当てのアイスを買うと、ついでにお菓子も幾つか買っていった。山下の好意を否定して以来、お互いに接触を避け続けていたので、お菓子のストックも切らしていたのだった。
教師という線引きをしている以上、山下はこれ以上踏み込んで来ないと思っていた。だから今日の訪問は意外だったし、正直驚いた。あの時、自分は山下の事を気に入っていると答えた。それは事実だった。強情な所も嫌いじゃない。素直な奴じゃない程、自分に従わせたくなる気持ちも少なからずあった。でなければ、雨の中を必死で探し回らなかっただろう。
それに最近、エリコと雰囲気が似ていると思うようになった。強情な所なんてそっくりだ。やはり生まれ変わりだったか。服部は再びエリコに惹かれて始めていると感じた。父親に眠らされても、尚男である自分を信じてくれた事実が嬉しかった。この気持ちはもう、教師としての器量を超えてしまっている。今後服部は、山下とどう向き合っていくべきか考えさせられていた。
「ほら、買ってきたぞ。こんなので良かったか?」
「うん、ありがとう先生」
テレビを見ていた山下が、嬉しそうに受け取った。今日は淡いピンクのワンピースを着ていて、髪を高い位置で縛っている。普段より可憐に見えて戸惑う。
「先生も食べないの?」
山下が不思議そうに見上げた。この位置からだと白いブラジャーが丸見えだ。無防備な奴だと、慌てて視線を逸らしながら座った。溶けないうちに早く食べてしまおう。
「先生……私が来て迷惑だった?」
アイス片手に、申し訳なさそうに呟く。私服で接していると、こいつが生徒だという事実を忘れてしまいそうだった。
「迷惑だったら、とっくに追い返しているよ」
「そっか、えへへ」
たまにはこんな休日も良いかもしれない。2人でテレビを見ながら無言で食べ始めた。リラックスして足を伸ばす。もう長い事、こうして一緒に過ごす相手がいなかったと気付かされた。8年前から彼女もいないし、また作る気力もなかった。アイスを食べるのも久し振りだ。
食べ終えた山下が問題集を再開すると、服部は背中を向けてテレビに集中している振りをした。彼女の気持ちが少なからず伝わってきていて、辛い。自分は山下の弱っている所をつけ込んだに過ぎなかった。それを彼女が好きだと錯覚しているだけなのだ。一時の迷いだろう。高校生からして見れば、30代なんてただのおっさんだ。一回りも違う自分を本気で好きになるとは思えなかった。自惚れもいい所だ。
夕食時になってようやく山下は帰った。それまでの時間が、服部にはやたら長く感じて困った。服部の中にはエリコがいる。忘れられない存在がいた。未だにひょっこり現れては、爪痕を幾つも残していく。年を重ねる毎に罪も重なっていくような気がした。そろそろ懺悔の季節だ。
服部はエリコの面影を探して部屋全体を見渡した。何も見えやしなかった。
今日は全国的に暑くなるでしょう、とニュースキャスターが涼しそうなスタジオで語っている。服部はカーテンを捲って外の暑さを目視すると、そろそろ着替えるべく立ち上がった。早いもので、エリコと別れてから丁度8年の歳月が過ぎた。服部の後悔はあの日からずっと続いている。
エリコは実家近くの山中で、ひっそりと永い眠りについていた。正確には骨壷の中にいた。服部はここまで来る道中に菊の花と線香を買うと、丁寧に墓石の前に添えた。年に2回、別れた日と命日に償う事を決めていた。無言で手を合わす。
「相変わらずお前の所は涼しそうだな。こっちは日差しで黒焦げになりそうだ」
冗談交じりに墓石を撫でた。砂埃を持ってきた雑巾で軽く払ってやる。山中にある墓なので、日光は殆ど当たらなかった。また人の気配もない。風が微かに通り過ぎていくだけで、本当に静かな所だった。
「まだ、怒っているのだろう?」
墓石に刻まれた名前に呟く。早過ぎる死に服部はいつも悔やんでいた。何故気付いてやれなかったのだろう。何故連絡を取らなかったのだろう。あの頃の自分は、身を守る事で精一杯だった。
「永遠に許されるとは思わない。だから生き続けるよ」
墓石になったエリコの前で、静かに土下座した。この懺悔は自分が生きている限り続く。想い出として延々に続く。エリコもそれを承知で命を絶ったのだ。本当にずる賢い女だった。
1人静かに涙を流しながら、服部は日が暮れるまでその場を動かなかった。