♥7月…その2
期末テストの結果は悲惨だった。どの教科でも最低記録を更新した気がする。凡ミスが多い。原因は明らかに分かっていた。
放課後、担任の浅川先生に呼び出されたので職員室へと向かった。気分は優れなかった。隣に服部先生も座っていたので、気まずそうに視線を落とす。
「呼び出された理由はわかりますね?」
「はい……」
あれだけ点数を落とせば、誰でも呼び出されるだろう。枝里子は始終俯いて浅川先生の話を聞いていた。他の教師の手前、叱らずにはいられないのだという弁解にしか聞こえない。
「山下。顔色が優れないが、熱でもあるんじゃないのか?」
横で話を聞いていただけの服部先生が、突然口を挟んだ。浅川先生も話を中断する。
「何?体調が悪いのかね?」
「えっ」
とんだ言いがかりだった。現にどこも具合は悪くないし、熱などない。状況に困惑していると、服部先生が立ち上がって額に手を置いた。
「やっぱり熱があるじゃないか、どうして何も言わなかったんだ」
険しい視線を注がれる。その表情で先生に感づかれたのだと悟った。
「浅川先生、話はそこまでにしてやって下さい。急いで親に連絡して帰らせますので」
服部先生に連れられて職員室を後にする。先生は黙って鞄を持つと、先に昇降口へと向かってしまった。自分を送ってくれるつもりなのだろうか。
「待って下さい、先生。私……熱なんかないですけど」
先生が立ち止まって振り向いた。
「分かっている。職員室では話せないだろう。これから先生の家に行くが、いいな?」
先生の気迫に押されて頷くしかなかった。車に乗り込む時、先生がもう1度振り返った。
「山下、先生の事が怖いか?」
その表情は追い詰められて苦しそうに見える。
「いえ、先生の事は大丈夫です」
前は後部座席だったが、枝里子は進んで助手席に乗ることにした。煙草の臭いが鼻につく。その香りが今は心地良いと感じた。
先生は部屋に入るまで何も聞かなかった。枝里子も何も言わなかった。かといって息苦しくはなかった。浅川先生に叱られ続けるよりかは何倍もいい。
「そう言えば芳香剤置いていったな。あれ、幾らだった?」
先生がテレビの上を指して微笑んだ。
「えっと、確か300円くらいです」
「わかった」
財布から小銭を取り出して300円を寄越す。
「お前にはこの部屋の臭いは少々きつかったか」
好意で置いたつもりが、嫌味にとらわれたので悲しかった。
「そんなつもりで置いた訳じゃないです」
「わかっているよ、ありがとうな」
先生がテーブルの前に座るよう促す。枝里子は足を崩して床に座った。
「冷たいのでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
グラスに注がれた麦茶が目の前に置かれた。礼を言ってから一口飲む。ちょっと渋い。
「今日は先生から連れ込んで悪かったな」
照れ臭そうに向かい合って座る。普段学校では見せない表情に、枝里子は思わずドキッとした。
「大丈夫です。あの、また助けて下さって、ありがとうございました」
先生は返事をする代わりに微笑んで見せた。一言断ってから煙草に火を点ける。枝里子は自然とその仕草を目で追っていた。
「何かあったんだな」
「はい……」
枝里子は断片的に、覚えている範囲で父にされた事を話した。
「酷い父親だな」
先生も険しい表情で吐いた。
「でも、何もされていないかもしれないし、今思えば気のせいだったかもしれません」
確実な証拠など何処にもない。先生に話しているうちに、枝里子は自分の話に自信がなくなっていた。もしかしたらあれは悪い夢だったのかもしれない。その方が断然良い。
「そこが父親の賢い所だな。母親には言わなかったのか?」
「……言えなかったです」
悔しくて俯く。自分がおとなしいから。何も言わないから。だから父に舐められるのかもしれない。先生も呆れたように煙を吐き出した。
「お前は優しいな。普通そんな事をされたら、親子の縁を切るぞ」
枝里子は先生を睨んだ。
「どんな家庭だそうが、どんな親だろうが、私の帰る場所はそこしかないって、先生が言ったじゃないですか!」
「そうだ。最低でも卒業するまでは、家から出られないだろうな」
卒業まで後1年半以上ある。それまで自分は母に気付かれず、父に耐えなければならない。不安な表情を浮かべていると、先生が優しく肩を叩いた。
「お前には避難所があるじゃないか」
そうだ。情けないけど、教師なんて頼りないと思っていたけど、自分には先生と言う味方がいた。
「……いつでも来ていいの?」
「構わんよ。この部屋は好きに使いな」
そう言って先生はグラスをさげに立ち上がった。突き放されたようで胸が痛む。
違う。単に逃げ場が欲しい訳じゃない。自分の居場所が欲しい。そこに先生も居て欲しいと願っているのだった。
生徒としてではなく、1人の女性として見て欲しい。枝里子は先生の後ろ姿を見つめた。中肉中背で、お世辞にもかっこいいとは思えなかった。傲慢で言葉も高圧的で、自分の事は何一つ語らなくて。それでいてきちんと見てくれている。必要な時に手を差し伸べてくれる。
「どうした、山下?」
気配を察した先生が振り向いた。
「いえ、何でもないです」
勘違いだと思いたい。相手は自分よりも遥かに年上のおっさんで、それも先生だった。それなのに。このやりようのない気持ちは、本物だと叫んでいた。もっと先生と一緒にいたい。先生に触れて欲しい。
「先生」
「何だ」
「先生はその……私の事、どう思っていますか?」
声が震えているのが分かった。いつの間にか拳を強く握りしめている自分に気付いた。叶わぬ願いなら早く断ち切ってほしい。
「いきなりだな」
そう言って先生は笑ったが、目は真剣そのものだった。無言の視線が痛い。馬鹿な事を聞いてしまった。厚かましい生徒だと思われたかもしれない。先生は暫く考えた後、ゆっくりと答えた。
「気に入ってはいるかな」
その発言に枝里子の心は大いに揺れた。拒まない。
「そんな事言って、期待させるつもりですか?」
強がりだった。本当は、今にも涙か零れ落ちてしまうほど情けなかった。だから否定して欲しかった。
「……やめておけ。お互い苦労するだけだ」
背を向けて会話を断ち切られる。
「そうですね、変な事を聞いてすみませんでした」
先生が自分をそういう対象として見ていないのは明白だった。悔しくて唇を噛む。鉄の味がすぐに広がって、涙が出るくらい苦かった。




