♥7月…その1
今日は初めて自分から、先生の家に行く。枝里子は鞄に鍵が入っているのを確かめてから電車を降りた。この鍵は先月服部先生から借りた物だ。あの日以来、枝里子は先生の事を少し見直してやる事にした。先生は男だが、自分の事を生徒としてしかみていない。余計な私情を持ち出さない。信用してもいいのかもしれない。枝里子は途中コンビニでお菓子と飲み物を買うと、緊張しながらマンションのエントランスを通った。
あの日、鍵をもらってから何度も先生の家を訪ねようとした。しかし、いくら先生が居ないからといって、他人の自分が上がり込んで居座るのはどうかとはばかられた。仮にも男の部屋なのだ。意識しだすと思うように足が進まなく、マンションの手前まで来ては引き返した日もあった。
それでも今日ここへ来たのは、いい加減先生の好意を無下に出来ないと思ったからだ。口や表情に出さなくても、先生が自分の事を心配しているのはわかっていた。この部屋を使えと言ってくれたのは、おそらく体調を気遣っての事だろう。実際この暑さの中、外で長時間潰すのはもう限界だった。
鍵を回して室内に入ると、昼間のこもった熱気と煙草の臭いが鼻につく。先生の部屋は相変わらず汚かった。煙草臭いのは仕方がないが、この部屋の散らかりようは正直不快だった。暇潰しに少し片付けてやろうか。
部屋に上がった所で、まずは先生にメールを送ることにした。アドレスはあの日に交換したのだが、今日まで1通もメールを送らなかったし、また送られもしなかった。学校ですれ違っても先生は何も言わない。他の生徒と同等に扱われる。この部屋で暖をとらせてくれたのが嘘みたいだった。
暑いので勝手にエアコンをつけ、扇風機とテレビも点けてしばらく涼んだ。テレビが見られるのは嬉しいかもしれない。夕方のニュースを聞き流しながら、持ち込んだお菓子を食べ始める。後ろの本棚には漫画が所狭しと積まれていて、まだまだ時間は潰せそうだった。
食べ終わった所でテレビ周辺を片付けていると、後ろからキャラクター物の貯金箱が出てきてびっくりした。埃まみれだが結構重たい。枝里子は先生が100円玉を入れる姿を想像して笑った。貯金するタイプには絶対見えない。床に転がっている様子からして、もう貯金は疎か存在すら忘れているのだろう。枝里子は埃を拭き取ってやると、テレビの上に置いた。次は掃除道具を持ってきた方がいいかもしれない。うん、そうしよう。
とりあえず足の踏み場だけでも確保しておこうと、床に散らかっていた洗濯物をたたみ始めた。
「げっ、普通にパンツ落ちているし」
こんな状態では着ていたのかさえ判別出来ない。そっと摘み上げると、なるべく触れないようにして畳んだ。
それにしても見事に女っ気のない部屋だった。長いこと女性が来ていないのを証明している。流石にタンスの中までは開けられないので、洗濯物をテーブルの上にまとめて置いた。勝手にこんな事して怒られないだろうか。いや、それより感謝するべきだろう。何せ片付けてやったのだから。
枝里子はひと仕事終えると、またテレビの前でくつろぎ始めた。時間が経つにつれ、次第に落ち着かなくなってくる。本当にここにいても大丈夫なのだろうか。枝里子は不安になった。先生は自分を信用してここを貸すと言ってくれたが、普通の感覚の持ち主なら絶対にそんな事はさせてくれない。友人同士でも安易に鍵を貸す事は出来ないだろう。
危険を侵してまで、先生が場所を提供してくれるのが不思議だった。本当の所、先生の真意はさっぱり分からなかったし、今更聞くにも聞けない。同情で先生の私生活にまで関与してしまった自分が情けなかった。
送ったメールは返って来なかった。まだ夜の7時だけど、先生が帰ってくる前に出よう。戸締りと電気を確認してから外に出る。この時期は7時になっても、気温が高くて薄暗かった。家に着いた所で、先生からメールが届いていた。
『まだ部屋にいるのか?』
その一文だけだった。枝里子はもう帰りましたとだけ返信すると自室に入った。しばらく待ったが返信は来ない。何だか寂しかった。
翌日も、枝里子は部屋を片付ける名目でお邪魔する事にした。朝一でメールを送ったが、お昼を過ぎても返信が来ないので、勝手にすることにした。
一度自宅に帰って着替えた後、掃除道具を取り出す。廊下で先生とすれ違った時は何も言われなかったので、多少部屋を片付けても問題なかったのだろう。寧ろ片付けなければ自分が寛げない。
今日は私服のワンピース姿で先生の部屋を訪ねた。相変わらず誰もいないし、煙草臭かった。枝里子は昨日と同じくエアコンをつけると、テーブルにお菓子が積まれているのに気付いた。横にメモ用紙が置いてある。
『昨日は片付けてくれてありがとう。助かるよ。冷蔵庫にある飲み物も勝手に飲んでいいから』
枝里子は嬉しくて何度も先生の走り書きを読み返した。試しに冷蔵庫を開けると、昨日自分が飲んだ物と同じ物が入っていた。積まれたお菓子にも、昨日と同じ物が置いてある。ごみ箱の中から推測して、今朝買って来てくれたのだろう。学校では何も言わなかった癖に。
枝里子は素直に先生の好意を受け入れる事にした。その代わりに今日も掃除してやろう。小さなメモ書きに微笑むと、そっとポケットの中にしまいこんだ。
枝里子が先生の家を訪れるようになってから10日が過ぎた。ある程度片付けてやったので、最初の頃より随分居心地は良くなっている。それに昨日は芳香剤を置いて帰ってきたので、少しは煙草の臭いがとれていると嬉しいな。
一方で先生の態度は相変わらず普通だった。自分が先生の部屋に行っても行かなくっても、どうでもいい表情をしている。その割にはお菓子と飲み物を、欠かさず補充してくれるのだった。
澄ました顔が気に入らなかったので、一度連絡をせずに訪れた事もあったが、それでも先生と遭遇することはなかった。あの部屋にいて先生が帰って来た事は一度もない。本当に部屋だけを貸出してくれているのだった。
枝里子は教科書をしまって早々に立ち上がると、今日は自宅に帰る事にした。明日から学期末のテスト週間に入るので、流石に自粛しなければならないだろう。たまには早く帰って親を安心させなければならない。それに自宅でも少しは勉強しないとまずいと考えていた。先生にもメールでその旨を伝えると、真っ直ぐ家へ帰宅した。
「ただいまー」
「ああ、枝里子か。お帰り」
トイレから父が出て来た所なので、枝里子は少し動揺しながら靴を脱いだ。今日は休みだったか。
「今日は早いんだな」
「もうすぐ期末テストがあるから、部活動も休みなの」
「そうか。部活動では、いつも何をしているんだ?」
「……どうしてそんな事聞くの?」
今まで聞かれた事のない質問だったので、意外だと思い父の動向を探ろうとした。
「いや、いつも帰りが遅いから、部活動がそんなに大変なのかと思って」
気まずそうに視線を逸らす。お母さんに言われての言動かと気付いた。
「別に毎日部活動があるわけじゃないよ。友達と食べて帰る日もあれば、一緒に勉強して帰る日もある。私って、そんなに信用ないの?」
「いや、枝里子が楽しんでいるなら問題ないよ。気を悪くさせてすまなかった。後でお菓子とジュースを持っていくから」
父が申し訳なさそうに頭を下げた。
「そこまで気を使わなくってもいいってば」
「いいから、いいから。お前は気にせず勉強しなさい」
父がそこまで言うので、枝里子は教科書を広げながら待つ事にした。こうしている分には良い父だと思うのに。蟠りがあるからこそ、一々気に障ってしまうのだろう。父の用意してくれたお菓子を食べながら、1日目の数学から取り掛かる事にした。
気が付くと、枝里子は机に伏せて眠っていた。涎でノートに書いた数式がすっかり滲んでいる。
「あれ……いつの間に寝て」
変な体勢で寝入っていた為、身体の痺れが全身を駆け巡った。しばらく耐えて時刻を確認する。もう夜の8時だった。2時間も寝てしまったのか。それにしては異様に頭が重く、まだまだ眠気が残っている感じだった。
「やばい、何だろこれ……」
少し眩暈もする。乗り物酔いでもしたかのような感覚だった。ノートを見ると二ページも進んでいない。まるで突然眠ってしまったかのようだった。
まさか。枝里子の視線は父の差し入れに向かった。小皿に湿気ったせんべいと、飲みかけのオレンジジュースが置いてある。
枝里子は慌てて自分の身体を確認した。下着は両方付けている。が、自分の寝ている隙に何もされていないとは限らない。
怖い。何かされていたらどうしよう。身体を抱えて咄嗟に蹲った。どうして差し入れに警戒しなかったのだろうか。以前の自分だったら、絶対に警戒したはずなのに。服部先生と同じく、少しでも大人を、父を信じてみようと思ったからか。自分は馬鹿だ。
お母さんが帰ってくるまで、枝里子は布団の中から出ることが出来なかった。勿論父の顔など見ることも出来なかった。