♠6月…その2
マンションの駐車スペースに車を停めると、山下を降ろした。もう一人で歩けますと言ったので、服部は彼女の鞄を持ってエントランスを潜った。3階の部屋に着くまで互いに始終無言だった。
「体操着は持っているのか?」
「うん」
「だったらそれに着替えろ。先生は外で待っているから」
山下に鍵を渡して室内に入るよう促す。はっきり言って人を呼べる状態ではないが、暖を取れるだけましだろう。しばらくして山下が顔を出した。
「もう大丈夫です」
「そうか、入るぞ」
ワンルームの男の部屋に、体操着を着た山下は大変不釣合いだった。それに日頃から部屋を綺麗にしておくべきだったと反省する。
「先生、汚いよ」
山下が足場のない床を蹴散らせながら笑った。
「男の一人暮らしなんてこんなもんだ」
服部は台所から新品のタオルを山下に渡すと、自分も風呂場でジャージに着替えた。それからお湯を沸かして、インスタントのスープをマグカップに溶かしてやる。その間に山下はドライヤーで髪と制服を乾かしていた。
「そこにあるハンガーに掛けておけ」
エアコンを暖房設定にすると、山下をローテーブルの前に座らせた。彼女の前にマグカップも置いてやる。
「とりあえず飲め、暖まるぞ」
山下が遠慮がちにマグカップを手にした。自分もスープを飲みながら、山下同様気持ちが落ち着くのを待った。
「悪いが理由を聞かせてもらう。この部屋に入った以上、簡単には帰らせないからな」
山下がわかっていますと視線を寄越した。ようやく答える気になったらしい。服部は一言断ってから煙草を吸うと、彼女が話し出してくれるのを待った。雨音だけが部屋に響き渡る。外はかなり降って来ているようだった。
「父が」
一瞬躊躇ったが山下は言葉を続ける。
「父が、怖いんです」
そう言って彼女は俯いた。煙草の煙を灰皿に押し付ける。やはり再婚相手が原因だったか。
「父って、去年再婚したお父さんの事か?」
「はい」
「どう怖いんだ?」
山下は言い辛そうに表情を歪めた。その表情で何となく事情は察せられた。いくら親になったとはいえ、所詮男なのだ。
「実の父に襲われでもしたか」
「それは」
山下が恐ろしい表情で言葉を飲み込む。いきなり核心を突いてしまったらしい。服部は配慮が足りなかったと反省した。
「悪い、その手の問題は言い辛かったな。無理しなくていい、今度女の先生にでも聞いてもらうか?」
山下は目を伏せた。
「いえ……大丈夫です。今この場で答えられますから」
強がりにしか聞こえなかったが、服部はスープを飲み干してから話を続けることにした。事によっては、彼女を保護しなければならない場合がある。
「何かされたのか?」
「えっと……それは……まだですけど」
含みのある、はっきりとしない物言いに服部は念を押した。
「じゃあ、可能性はあるんだな?」
山下が唇を噛み締めた。眉間に皺を寄せている。単純に怯えている訳ではない。恐らく嫌悪感だ。思春期に娘が父親を避けたがる心。しかし、彼女の場合は血が繋がっていない。
「お母さんには黙っていてもらえますか?」
山下が志願するような目で請う。
「場合にもよる」
「そう……ですか」
それっきり山下は黙ってしまった。服部は2本目の煙草を吸い始める。やはり簡単に口には出せないか。無理強いしたくはないが、このまま沈黙され続けても困る。話し合いが出来なければ、何も解決してやれない。
「お前、自分は子供だと思うか?」
灰皿で煙草を揉み消しながら問う。山下に対して腹立つ理由がようやくわかった。こいつは大人全般を全く信用していない。
「どうなんだ?」
山下は少し考えてから、静かに頷いた。そうだ、生徒である内はまだ子供なのだ。世間知らずのガキなのだ。なのに、自分一人で解決させようと強がる。服部は拳を握り締めた。
「だったらもう少し大人を頼れ、子供なら甘えろ!……お前は一人で、色々頑張り過ぎなんだよ」
そう断言した所で、初めて山下の目から涙が流れた。見る見る内に溢れて頬を濡らす。服部がもう1枚新しいタオルを差し出すと、彼女はそれに伏せて声を上げた。ようやく彼女を覆っていた緊張が解かれたようだった。
「こんな先生じゃ頼りないか」
山下は泣きじゃくりながらも首を振って答えた。服部は「そうか」と笑って泣き止むのを待った。
しばらくして山下は語りだした。自分の下着が無くなった事。父を疑いだした事。男性として父を避けるようになった事。それでも山下が願うのは、自分の身を守りつつ、何事も無いように生活する事だった。
「お前、結構母親想いなんだな」
先程自分が殴りつけた頭を、今度は撫でてやる。こぶにはなっていなさそうで安心した。山下もしばらく身を委ねてくれて、気持ちよさそうに瞳を閉じた。案外サラサラしていて柔らかい。
「先生、痛かった」
しゃくり声で意見する。
「身体を大切にしないからだ」
「先生が大切にしてない」
「悪かったよ」
服部は立ち上がると、ラックの引き出しから鍵を取り出した。この部屋のスペアキーだった。覚悟を決めて山下に渡す。
「何?」
「この部屋の鍵だ。次からはここで時間を潰すといい」
ここなら山下の自宅からも歩いて来られる範囲だろう。服部は言い訳するように呟いた。
「お前は危なっかし過ぎて、外には置いておけないからな」
「でも……」
「先生の事は気にするな。いくらでも学校に仕事が残っているよ。九時過ぎまで無料で時間を潰したいのだろう?」
「でも!」
「お前が信用出来る人間だと思うから、ここを貸すんだ。だから利用すればいい。言っておくけど、山下がここにいる間、先生は帰って来ないからな」
山下は戸惑いながらも部屋の鍵を受け取った。確かめるように握り締める。
「別に無理に使えとは言っていない。お前の自由だ。ショッピングセンターは先生が奪っちゃったからな」
冗談で言ったつもりだが、山下は怒った。
「そんな風に思っていません」
「ならいい。遅いし、送ってやる。制服は乾いたか?」
「一応。靴下までは乾かなかったけど」
「裸足でもいいだろ。外に出るから着替えるんだ」
玄関で靴を履いて立ち上がると、山下が慌てて袖を掴んだ。
「先生……あの」
「何だ」
「見つけてくれて、ありがとうございました」
恥ずかしそうに呟き、長い黒髪が小さく揺れた。
「……どういたしまして」
そう言い返して外に出ると、服部は手摺りにもたれて曇天を見上げた。雨は相変わらず降り続いている。果たしてこれで良かったのだろうか。
山下とは、単純に先生と生徒の間柄では無くなってしまった。下手したら自分は懲戒処分だ。それとも不純異性交遊とみなされて逮捕か。だからと言って、こうする他に方法も思いつかなかった。服部は自分の想像力の豊かさと、行動の浅はかさに笑った。不思議と後悔はしていない。それよりも山下を感服させたのが愉快でたまらなかった。こっちのエリコも中々頑固で面白い。
山下は絶対にこの事を話さないだろう。確証はないが、自信はあった。それは彼女もまた、エリコだったからかもしれない。