♥5月
週末のゴールデンウィークは、自宅でのんびり過ごせそうにもなかった。枝里子は朝8時にセットした時計で目覚めると、軽く寝癖を整えてからリビングへ入った。キッチンでは、お母さんが慌ただしく出掛ける準備をしている。
「お母さん、おはよう」
「おはよう、枝里子。今起きたのね。お母さん今日は早番だから、お昼は適当に食べて頂戴」
「わかった」
ちらっと奥のガラス戸の部屋を伺う。父はまだ寝ているようだった。
「お母さん。今日は私、学校に行くね。夕方には帰るから」
「そう。また部活動?」
「うん……そんな所」
「最近枝里子の帰りが遅いって、お父さん心配しているのよ。もう少し早く帰って来られないの?」
「ごめん、つい友達とお喋りしちゃって。勉強で残っていく日もあるから」
「枝里子も女の子なんだから、夜道には充分気を付けなさいよ。それじゃ、行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
お母さんを見送った後に、自分も朝食を食べようと、クロワッサン片手にテレビを点けた。そこへ父が、タイミングを見計らったかの様に出て来る。
「枝里子、おはよう」
「おはよう……ごめん、起こしちゃった?」
「大丈夫。母さんは?」
「早番だからもう出かけたよ」
「そうか。枝里子は?」
「私も今日は学校。もう少ししたら出掛けるから」
野菜ジュースでクロワッサンを押し流すと、食器を片付けて自室に戻った。カレンダー通り、父は今日休みだ。夕方まで家にはいられない。
枝里子は注意深く父が傍にいないことを確認すると、急いで制服に着替えた。この家に新しい父が来て、半年以上経過していた。未だにあの男と二人っきりになるのが恐ろしくて堪らない。
本当の両親は、枝里子が小学生の時に離婚していた。去年縁があって今の父と再婚したが、向こうはお母さんより三つ下の43歳。2年程前から、二人は内緒でお付き合いをしていたらしい。正直驚いたが、二人の結婚自体に反対する事はなかった。寧ろお母さんにも幸せになってもらいたいと願っていた。実際に新しい父は、自分に凄く気をつかってくれていたし、とても優しかった。一緒に暮らすことになっても、差支えなく過ごせるだろうと思った。ある日下着が無くなるまでは。
「行ってきます」
直接問い詰めた訳でも、証拠がある訳でもないが、あの男の仕業としか思えなかった。この事実をお母さんは知らない。これから築かれるであろう夫婦間を壊したくなかったし、何よりお母さんの傷付く顔を見たくはなかった。自分が我慢すればいいだけの話。
それから父を避け始めた。時折感じる視線は怖いと思うようになった。本当は自分に近づくのが目的で、お母さんと結婚したのではないか。そう考えると反吐が出る。
今日は何処へ行こうか。電車に乗り、一先学校方面へと向かう。通学定期があるので、使い方一つで自由に行動する事ができた。夕方まで無料で時間を潰せる場所。やっぱり図書館辺りかな。いつもより二つ手前の停車駅で降りると、青葉の生い茂る公園をぬけて図書館に入った。そこで休み中に出た課題と、漫画を読んでいる内にお昼が過ぎた。
「外で時間を潰すのはいいけど、お腹が空くのも困りものなのよね」
毎月5,000円の小遣いで、空腹を凌ぐにも限度があった。父に頼めばこっそり小遣いをくれるだろうが、それだけは絶対に嫌。
仕方なくファーストフード店で、空腹を満たしてからまた戻って来る。図書館に来たのは5回目くらいだけど、もう飽きてしまった。ここにいるのは熱心な学生か、自分と同じく暇を持て余す老人くらいだった。お母さんの仕事が終わるまで後3時間以上ある。枝里子はもう帰る事にした。父と二人っきりになる事を、避け続けていても駄目なのだ。帰るタイミングも難しい。
枝里子はショッピングセンターの横を素通りして、奥の公園へと向かった。何となくまだ家には帰りたくない。服部先生に見つかったこのショッピングセンターでは、実はお母さんが働いているのだった。本来夕方までのパート勤務だったのだが、3月から人手不足で夜の10時まで働く日が出来てしまった。下着が無くなったのも丁度その頃だ。父の帰りは早くて7時。お母さんが帰宅するまで二人っきりにならざるを得ない。気味が悪い。
本当に気をつけるべき人物は、外ではなく内にいるのだった。だからと言って、出来たばかりの家族関係を壊せるはずもない。枝里子はお母さんが大好きだった。だから父の事で失望させたくはなかったし、そう言う目線で自分が見られるのも嫌だった。男の先生にこの苦悩が分かる筈もない。
公園に着いたのはいいが、休日なだけもあり小さな子供達で賑わっていた。駄目だ、やっぱり帰ろう。最近は近所の公園を1時間毎に移動しているのだが、先生は気付いているだろうか。送ってもらって以降は、それらしい人影も車も見ていない。
あの先生も変な人だ。自分を咎めるかと思えば、促すような助言をする。その距離感が枝里子を安心させ、また悲しくもさせた。大人に妙な期待をしている自分が何処かにいる。
「ただいまー」
最初に父のいる気配を察知する。テレビの音が聞こえるので、リビングにいるようだった。枝里子は制服からラフな格好に着替えるとベッドに潜った。何だか歩き疲れてしまった。少し仮眠をとろうかと思ったが、自室に鍵がない以上、この家はトイレ以外危険なのだった。寝ている隙に襲われないとも限らない。枝里子はお母さんが帰ってくるまで、漫画を読んで過ごす事にした。
残りの連休は、友達とボーリングやカラオケで過ごしていたら、あっという間に終わってしまった。そして中間テストが始まる。枝里子は賢くない頭をフル活用して、何とか赤点だけは免れようと躍起になっていた。普通科の進学コースを選んだものの、どの大学に行きたいかまでは考えていない。目標もなければ勉学も疎かになる。最近では古文の授業が一番嫌いになっていた。
「山下、もう少し粘れ。それに見直しくらいしろ」
副担任の服部先生に、後ろから叱咤された。テストの開始10分で手を止めたのが気に食わなかったのだろう。一々そんな事で注意してくんなよ、ハゲかけの独身男性の癖に。枝里子は舌打ちしたい衝動を堪えながら、ゆっくり見直す事にした。先生がわざわざ間違っていると教えてくれたのだ。点数の為なら従うしかない。残りの時間でとりあえず回答を埋めると、問題用紙の挿絵に落書きをしながら時間を潰した。
テストはどれも平均点は取れていた。しかし、放課後服部先生に呼び出されてしまった。
「最近お前が授業中にやる気がないと、他の先生から話が出ている……本当か?」
枝里子はどう答えて良いのか分からなかった。そんな気もするし、そうではないような気もする。黙っていると、先生はため息をついた。
「まあいい。今後は通知にも響いてくるから、そんな態度は古文の授業だけにしておけ。いいな」
碌にこちらの顔も見ず忠告してくる。あんたの授業は今まで通りでいいのか。枝里子は先生が書類を書き終わるのを待ってから尋ねた。
「用件はそれだけですか?」
先生がボールペンを置くと、ようやくこちらを向いてくれた。
「お前、最近ちゃんと寝られているか?」
核心を突かれた気がして、枝里子は咄嗟に眉を潜めた。
「寝ていますよ。どういう意味ですか?」
「自宅でも勉強できない環境なのか?」
質問を質問で返される。
「……そう言う訳ではないです」
「ならいい。これからはある程度、愛想良くするんだな」
話は終わったとでも言いたげに、先生が再び机に向かう。枝里子は何だか面白くないと思った。
「気にならないんですか?」
「何が」
「私が家に帰りたがらない理由」
「……聞いて欲しいのか?」
意地悪そうに微笑んだので、枝里子は「もういいです」と言って職員室を後にした。のっぺり顔が無性に腹立つ。構ってくれるのかと思いきや、突き放される。それなのに自分の事を気にかけてくれる。曲がりなりにも先生だからか。義務だからか。
「教師なんか嫌いだ」
心配しているようで、実は自分の立場しか考えていない。その上保身に走り、常に相手より優位でいたがる。特に服部先生が一番苦手だった。岩のように表情を崩さないので、腹の中では何を考えているのかさっぱり分からない。一方的に見透かされているようで、気味が悪い。
そこまで先生を非難した所で、枝里子は父も同類ではないかと苦笑した。