♥3月【完】
先生の転勤が決まり、それに合わせて引っ越しも決まった。今日でこの部屋も見納めだ。枝里子は動きやすいよう髪を束ねると、未だ物が散乱している部屋に向かって吠えた。
「夕方には業者が来ますよ、ほら早く片付けて、片付けて!」
「はいはい」
先生が面倒くさそうに本棚にある物をダンボールに詰めていく。枝里子も台所で、食器を新聞紙で包んでから梱包していた。
「大体引っ越し当日に荷造りを始めるとか、間に合わせる気ないじゃないですか!」
「三年の卒業式までは忙しかったから、仕方がないだろう。それに物は少ないから、いけると思ったんだ」
壁越しに先生が反論する。枝里子が手伝いに来たから良かったものの、先生1人では到底間に合わなかっただろう。
「後で美味しい物ご馳走して下さいよ」
「はいはい。新居に行った帰りにでも奢りますよ」
枝里子は「しょうがないなぁ」と呟くと、手際良く物を片付けていった。確かに本以外は物が少ないから結構楽なのかもしれない。問題はその本が中々片付かないので厄介だったが。
「お、こんな所に隠れていたのか」
先生がエロ本を見つけた中学生みたいに興奮している。どんな本かと思えば、中国の古文書だった。懐かしむようにパラパラとページを捲る。
「先生、真面目に片付けて下さい」
枝里子はその背中に向かってきっぱり言い放つと、自分も本棚の整理に入った。とりあえず漫画本は一気にダンボールへ流し込む。2人係でようやく部屋の物を詰め終えると、先生が遅いお昼にしようとコンビニ弁当を買って来てくれた。すっかり物が無くなった部屋で向かい合って食べ始める。片付いた部屋を見渡しながら、堪らず文句を言った。
「朝一で見送りに来て欲しいって言うから来てみれば、殆ど荷造りの手伝いじゃないですか」
「悪かった、本当に助かったよ。ありがとうな」
先生がふくれっ面の枝里子の頭を撫でる。そんな表情で見つめられると、何でも許せてしまう気になるのだった。
先生から転勤になったと聞かされた時は、凄くショックだった。もう2度と会えないような、突き放された気持ちになった。授業だって、勉強だってもっと見て欲しかったのに。タイミングが悪いとしか思えなかった。ようやくお互い素直に歩み寄れたのに。
枝里子の箸が止まったのを見て、先生が声をかけた。
「そう寂しそうな顔をするな。すぐに追いついてくれるのだろう?」
茶化すように励まされる。先生は寂しくないのだろうか。枝里子は無神経な態度に少し腹を立てた。
「追いついてやりますよ、絶対」
黙々と食べ終える。先生だって好きで転勤になった訳でもないし、ここで我儘を言っても仕方がなかった。
「避難所も無くなってしまったな。すまない」
唯一の気掛かりだと言いたげに先生が謝った。その父の事だが、あれから決着をつけた事により一応元通りになった。優しい父を演じてくれるようになったのだった。その一部始終を告げると、先生が声を上げて笑った。
「返り討ちにしたのか、やるなぁ」
「笑い事じゃないです。あと一歩で襲われる所だったんですよ」
枝里子が拗ねたように顔を膨らませる。先生が「まぁまぁ」と言って宥めた。
「これからは自宅でも勉強出来るじゃないか、よかったな」
「はい……」
もう自分には勉強を教えてくれる気はないのだろうか。枝里子は先生との思い出が詰まった部屋を見渡して悲しくなった。煙草臭い部屋で勉強する方が、先生の香りに包まれるので塾より好きだったのに。
「新居はどんな所なんですか?」
「この部屋よりもう少し広いよ。駅からも近い市街地なら、お前も来やすいだろう」
先生がポケットから鍵を取り出すと、枝里子に手渡した。新居の鍵。まさかくれるとは思わなかったので、枝里子は驚いて顔を上げる。
「手伝ってくれた報酬だ」
先生が恥ずかしそうに咳払いをする。遠く離れても、この関係は変わらないのだと鍵が証明していた。枝里子は嬉し涙を堪えると、思わず先生に抱きついた。
「先生、ありがとう。春休みにでも、遊びに行っていい?」
「いいよ、おいで。いつでも待っているから」
先生はそう笑って受け止めてくれた。今度こそ、しっかりと。最愛の人として。
〈終〉
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。この場をかりて感謝致します。
ムライリカ(´▽`)




