♠2月
服部は部屋でのんびり煙草を吸いながら、先日会議で配布された資料を眺めていた。人事異動者一覧。そこには自分の名前も記載されている。俗に言う転勤だった。
そろそろ来る時期とは思っていたが、まさかこのタイミングとは。服部は苦笑すると同時に虚しさを覚えた。この部屋を提供する事も出来なくなる。山下が卒業式するまで見届けてやる事も出来ない。自分にはその資格すらなかったのだと、改めて思い知らされた。
「英里子は意地悪だな」
服部は新しい煙草を吸おうとして、中身が空なのに気付いて箱を握りつぶした。最近は吸っていないと落ち着かない。面倒だと思いながらも、服部は渋々煙草を買いに立ち上がった。
去年初めて他人に過去を打ち明けた。それも教え子である生徒に。過去を打ち明けない事も償いの1つだと決め込んでいた筈なのに、まさか同じ名前のエリコに話す日が来るとは思いもよらなかった。
山下とはあれから部屋で会わないようにしている。塾に通いだしてからも、時折遊びに来ているようだったが、正直避けていた。分かっていたとは言え、軽蔑された目で見られるのが怖い。随分と臆病になったものだ。高校生に気を遣わせている自分が情けない。
煙草と、ついでに缶コーヒーを買ってコンビニを後にした。向かい側の道路で、山下に良く似た女性が立っている。あのコートには見覚えがあった。
山下だ。服部は気付かない振りをして立ち去ろうと思ったが、その前に目が合ってしった。山下もこちらに気付いたらしく、手を上げた。
「先生、外で会うとは奇遇ですね」
赤いマフラーに顔を埋めながら、少し嬉しそうに声を弾ませた。手提げには教科書が入っている。
「ああ、山下は塾の帰りか?」
「はい。実はこれから先生の家に遊びに行こうと思っていました」山下が恥ずかしそうに白状する。「突然訪問して驚かそうとしていたのに」
「それは残念だったな」
危うく泣き顔を見られる所だったかもしれない。服部は苦笑した。
「塾の方はどうだ、解りやすいか?」
「はい」山下は笑った。「父と同じ事を聞くんですね」
あれ程嫌っていた筈なのに、山下の表情は何処か穏やかだった。少しは問題が改善されたのかもしれない。
「何だ、最近は親とも上手くいっているのか?」
「……まあね」
山下が不敵に笑う。服部は「強くなったな」と頭を撫でた。自分に対してもそうだ。あんな過去があったにも関わらず、以前と変わらず接してくれようとしている。いつまでも逃げていては駄目だ。それよりも限りある時間を一緒に過ごしたい。
「冷えるから早く行くか」
山下の荷物を持ってやると、2人並んでマンションに帰った。
「先生、また散らかしたんですか?」
部屋に上がった途端、あまりの汚さに山下が笑った。要らない物を片付けようとしていただけなのだが、彼女の目にはそう見えたらしい。
服部はテーブルに資料が出しっぱなしなのに気付いて、慌てて取り上げた。自分が転勤になった事をまだ知らせたくはない。
「ごめんなさい、今日はお邪魔でした?」
「いや、構わんよ。散らかった部屋で悪いな」
「片付けなら手伝いますよ?」
「ありがとう」
2人で充分寛げるスペースを確保してから、服部は山下の課題を見てやった。すっかり勉強が板に付いてきている。塾で配布された問題集も中々面白かった。一通り見終えると、山下が突然顔を上げた。
「先生、約束覚えていますか?」
「約束?」
「クラスで10位以内に入ったら、何処へでも連れて行ってやるって話」
去年の中間テストの時に、そのような事を言った気がする。服部は思い出した。
「ああ。何処か行きたい所があるのか?」
山下は問題集を閉じると、真っ直ぐこちらを見て言った。
「エリコさんの所に連れて行って下さい」
山下からの申し込みを受けた服部は、次の休みに2人で出掛ける事にした。寒空の中延々と車を走らせる。
「どうして急に墓参りなんか」
服部は山下の意図している所がわからず、半ば困惑した状態で運転していた。助手席にいる山下が抗議する。
「何処へでも連れて行ってくれるって、約束したじゃないですか」
「そうは言ったが、これじゃムードもへったくりもないぞ」
服部が殺風景な景色を眺めながら呟いた。デートならもっと楽しい場所を選択するだろうに。
「どうしても、エリコさんの前で言いたいことがあるんです」
それ以上は着くまで教えられないらしい。服部は軽くため息を漏らすと、黙って山下の指示に従った。こうなったら彼女は頑固だ。
服部は山下に気付かれぬようひっそりと笑った。相変わらずな態度で安心する。軽蔑されたと思っていたが、寧ろ山下は向き合おうとしてくれていた。今日の墓参りだって、彼女なりの誠意に違いない。こうして隣にいてくれるのは、素直に嬉しかった。
山下との関係は恋人同士なのかと聞かれると、最早何だかよくわからなかった。しかし普通の生徒ではない。ましてや妹の代わりなんかではなかった。山下を1人の女性として接するようになってからは、その直向きさに焦がれたのだった。
自分が失ってしまった物を、山下は持っている。またはこれから掴み取ろうとしている。やはり見届けてやりたい。
「この山を越えたらもうすぐだ」
山下が身を乗り出すように外の景色を眺めた。何処か楽しそうだ。自分の故郷に来られたからかもしれない。
車を停めて山道に入る。町外れにあるのでいつ来ても人の気配は無く、閑散としていて寂しい場所だった。日光もあまり入らないので、北風が身に染みて寒い。2人は黙って手を繋ぎながら、英里子が眠っている墓石の前までやってきた。
「初めまして、エリコさん」
山下が頭を下げ、途中で買ってきた花を添えた。2人してしばらく拝む。どれくらいそうしていただろうか。突然山下が叫んだ。
「先生の事、いい加減許してあげて下さい!」
張り詰めた声が周囲に響き渡った。
「おい、山下……」
服部は咄嗟に宥めようとしたが、山下は更に続けた。
「1人で勝手にいなくなるなんて、狡いです。どうして先生を縛り付けたのですか?怒っているからですか?エリコさんの気持ちはわかりませんが、自分達が許されなかったからと言って、先生を苦しめ続ける理由は無いはずです。大人は勝手です。先生も勝手です。私に嫌われた、軽蔑されたと思って距離を置く前に、きちんと向き合って下さい。私に想いを伝えて下さい!」
山下はぼろぼろと涙を流しながら、自分と英里子に訴えていた。想いを伝える。服部はまだ1度も、山下に想いを伝えていなかったのだと気付かされた。
「私と先生だって許されない関係です。でも、血の繋がっていたエリコさんとは違います。だから向き合います。先生と同じ立場を目指して、私は教師になります!」
山下の一方的な宣言。服部は初めて聞かされた進路に驚きを隠せなかった。
「お前も教師になるのか」
「もう決めましたから」
山下は涙を拭うとニッコリと笑った。その姿が過去の英里子と重なる。経済的な理由で大学を辞めた時にも、同じ表情を見せていた。
『お願いだから、そうして』
山下の決意も揺らぐことはないのだろう。その勝手さが今は頼もしく感じた。服部は山下を抱きしめると、力いっぱいその存在を確かめた。山下もそれに応えて抱き合う。
「勝手に決めやがって」
「先生も勝手じゃないですか。話すだけ話しておいて、避けるような真似して。だから私も勝手にします」
細い身体、長い髪、漂う香り。英里子とは何もかもが違った。だけど失いたくはない。服部は涙目になりながら誓った。今度こそ輝かしい未来が見える気がした。
「大好きだ、枝里子。いつまでも待っている」




