♥1月…その2
公園で寄り道してから帰宅すると、玄関先に父が立っていた。表情が暗い。枝里子は遠慮がちに「ただいま」とだけ告げて部屋に入ろうとした。
「塾はとっくに終わっている時間じゃないのか?」
やはり父に呼び止められる。枝里子は不快そうな顔を向けた。
「少し残って教えてもらっていたのよ。どうしてそんな事を聞くの?」
「心配だからだ」
即座に答えられる。この男から聞かされると、別の意図があるように思えて仕方がない。
「次からは連絡入れます」
「そうしなさい。家にいる時は迎えに行くから」
重苦しい雰囲気を残して父が去っていった。前より過保護になっている。枝里子に男がいると感付いてからは、常に怒っている感じが拭えなかった。
そんなに気に食わないのだろうか。枝里子は眉を潜めると、早く塾の宿題を片付けようと部屋に篭った。今日はお母さんの帰りが遅い日だ。
暫くして部屋のドアがノックされる。枝里子は部屋に鍵が掛けてあるのを確かめてから返事をした。実は集中して勉学に励みたいからとの理由で、先週お母さんに付けさせて貰っていたのだった。金具を取り付けただけの簡易的な物だが、父には効果覿面だったらしい。
『夕食の用意が出来たよ、食べないのか?』
父と2人で食事を取るのは正直嫌だったし、宿題も切りの良い所までやってしまいたい。枝里子は適当に返事をすると、10分後に立ち上がって渋々リビングへと向かった。
父はソファに座ってテレビを見ていた。枝里子はテーブルの上に置いてあった、冷めたチャーハンをレンジで温めてから食べ始める。自分の部屋で食べようかとも思ったが、今日はここで食べていかないと更に文句を言われそうだったので、大人しく食べ終えた。食器を洗って部屋に戻ろうとした所を、またしても父に呼び止められた。
「塾の方はどうだ、解りやすいか?」
お母さんがいないので積極的に話しかけてくるようだ。枝里子は面倒だと思いながらも、気を付けないと父の毒に触れてしまうので、無視する訳にもいかなかった。
「うん、学校の授業より解りやすい所が多いよ。模試も定期的にあるから、偏差値や全国順位とかも分かるし」
無難に塾の利点を述べる。
「そうか、それは良かった」父の顔が若干強ばった。「それにしても今年に入ってから、更に勉学に励み過ぎじゃないのか?受験まで後1年はあるだろう」
冬期講座に模擬試験と、確かに詰め込み過ぎかもしれない。だけど勉強している方が、返って気を紛らわす事が出来た。先生の過去を知って、その深さに今は考えさせられている。先生に早く追いつきたい心境もあった。
「最近は勉強もちょっと楽しいなって思うようになったからかな?適当に息抜きしているから大丈夫だよ」
父にぎこちない笑顔を見せる。
「そうか。余程年上の彼氏とやらと、同じ学校に行きたいのかと思ったよ」父と目が合う。「煙草の香りもきつくなったしな」
枝里子は父の指摘にたじろぐ。最近先生が煙草を吸う量を増やしたので、気をつけていても残ってしまうのだった。
「何処かで嗅いだことのある匂いだ。確か前にプリントを届けに来た、服部先生とやらも喫煙者だったな」
瞳を覗き込むように父が見上げる。動揺を隠しきれない。
一瞬枝里子の目が泳いだのを父は見逃さなかった。咄嗟に腕を掴まれる。
「放して!」
すぐさま振り解こうとしたが、強い力で捩じ伏せられる。父の固執は異常だった。見破った怒りが枝里子に向けられる。
「まさか先生と付き合っているのではないだろうな」
先生。父から歪んで聞かされたその単語に、枝里子は思わず怒鳴り散らした。
「憶測でものを言わないでよ!」
自分でもよく分からない関係を、感情を勝手に決めつけられて不快だった。気持ちを蔑ろにされて悔しかった。枝里子の変化を楽しむかのように父が笑った。
「図星だったか」
改めて目の前にいる男が怖いと思った。執拗なまでの詮索と独占的な怒り。既に親子の域を超えていた。
嫉妬。この男は自分に彼氏がいる事に、先生に嫉妬している。枝里子はこの状況に陥って、ようやく父が怒っている理由を理解出来た。
「もしかして……私の事が好きなの?」
半ば冗談のつもりで言ったが、父の逆鱗に触れてしまったらしい。父は真っ赤な顔を浮かべると、一瞬の内に枝里子を手繰り寄せてソファへ押し倒した。
「嫌っ!放して!」
無理矢理支配しようと躍起になっている。枝里子は必死に抵抗して、所構わず蹴りを入れ続けた。運良くその一発が鳩尾に入り、低い唸り声を上げて父がひっくり返った。そのままテーブルの角で頭を打つ。打った拍子に頭を切ったらしく、こめかみ辺りから血が滲んで流れ出ていた。父も驚いて止血しようと手で押さえる。
自業自得だ。枝里子は小さくなった父に吠えた。
「私と親子で居たくないの!?どうなの!」
血を流しながら青ざめた様子で、今度は父が枝里子を見上げた。自分の犯した失態に気付いたらしく、先程から口をパクパクしている。許しを請おうとしている。
「この事が知れたら、2度と一緒にいられなくなるわよ。それでも良いの?」
父が慌てて首を振った。初めて見る惨めな男の姿。形勢が逆転した瞬間だった。
「一緒にいたいのなら、良好な親子関係でいさせて。私に会えなくなるのが、1番困るでしょう?」
父がうんうんと首を上下に振る。そのあっけなく屈服する姿は、まるでおもちゃを取り上げられた子供だった。
「だったら父親をきちんと演じて。もう2度と下着を盗んだり、睡眠薬をいれたりなんかしないで!」
怒りに任せてソファを蹴った。父が驚いて身体を仰け反る。仮にも親の前で暴力を振るったのは初めてだった。そのままソファを何発も蹴り続ける。
直接暴力を振るえない自分に腹が立った。もどかしさに八つ当たりした。枝里子はすっかり縮んでしまった父を見下ろす。
「今度お母さんを泣かせるような事をしたら、私この家を出るから」
父がわかったと言わんばかりに首を振る。この男はお母さんも好きだが、娘の事も同様に好きなのだ。自分に恋愛感情を抱いていたのだった。
大人は勝手だ。それに振り回されていたのかと思うと、急に馬鹿らしくなった。枝里子は情けない父に、早く病院へ行くよう叱りつけた。




