♥1月…その1
そろそろ塾へ向かう時間だ。枝里子は机の上で開いた参考書を閉じると、椅子の上で伸びをしてから立ち上がった。最近パジャマ姿での勉強が板についてきている気がする。適当なセーターを選んでマフラーを巻きつけると、駅まで駆け足で向かった。
駅前にある雑居ビルの3階。簡素なパイプ椅子に腰を下ろして授業が始まるのを待った。ここへは昨年の冬期講習から通い始めている。本来は冬休みだけの予定だったけど、先生が「折角だからそのまま通えば良い。他人と競争するのも大事だ」と教えてくれたので、何となく通う事にした。
確かに模擬試験を実施してくれるので、自分が志望する大学の偏差値も分かる。年明け最初の試験ではB判定だった。
「では前回の復習から始める。プリントを受け取った者から問題を解いていくように」
講師が厳しい目付きで1人1人の解くスピードをチェックしている。1番苦手な数学だった。苦手だからこそ頑張らないと。枝里子は長い髪を耳にかけると、問題に集中しようとした。
先生の抱えていた闇は、平凡な女子高生にはとても耐えられないものだった。それでも先生は耐え続ける道を選んだ。自分が生き続ける事で、思い出の中のエリコに償おうとしていた。それしか方法が見つからないと嘆いていた。苦しんでいた。
過去の先生は確かに妹を死に追いやったのかもしれない。先生がそう思い続ける限り、それが先生にとっての真実なのだろう。例え世間的に許されない愛だったとしても、2人は互いを心底想い続けていた。それは歪んだ愛の形であり、苦渋の道程だったに違いない。その果てに辿りついたのが妹の死。誰も報われないままではないのか。
気付くと目に涙を溜めながら授業を聞いていた。周囲にバレないようこっそり指で拭う。枝里子は先生を助けてあげたいと思っていた。だけど、どうしたらいいのかわからない。今の自分に出来る事は、以前と変わらずに接するのが精一杯だった。
塾の帰りに公園へ立ち寄った。寒空の下、子供達が薄着で走り回っていた。ベンチには母親達の姿がある。あのベンチで座っていた所を、土砂降りの雨の中を、先生が迎えに来てくれたのだった。嬉しかった。誰も自分の悲鳴に気付いてくれなかったから、尚更かもしれない。
そう言えば殴られたっけ。枝里子は思い出して頭を摩る。あの頃は大人なんか嫌いだった。勉強なんて大嫌いだった。だけど今、両方好きな自分がいる。教えてくれたのは先生だった。可能にしてくれたのは先生だった。
先生の妹がもし生きていたら。同じ名前だけの自分は見向きもされなかっただろう。親密な関係にはならなかっただろう。先生と出会ったのも、死んだエリコによる一種の気まぐれであり、巡り合わせのような気がする。
エリコは先生の中で思い出になった。生きている人間には決して敵わない存在になった。妹はずる賢い女だったと先生は言っていた。その通りなのかもしれない。
「自分達は許されますか?」
今でもエリコは先生を恨んでいるだろうか。空を見上げた所で、答えなど返ってくる筈もなかった。先生との付き合いも世間的には健全ではない。似たような学ランを着た生徒は他にもいっぱいいるのに、何故自分は先生に惹かれたのだろう。エリコに対する償いを、優しさと勘違いして受け取ったに過ぎなかっただろうか。わからない。
「だけど血の繋がりはないから」
それだけは確かな真実だった。だから、枝里子は先生と向き合えるのだと歩き出す。