♠12月…その8
「お腹空いちゃったわね」
散々愛を確かめ合った後に、英里子が下着を身に付けながら笑った。服部も楽な普段着に着替え始める。
「結構激しく動いたからな……身体、痛まないか?」
「うん」
行為の果てには現実が待ち侘びていた。服部は英里子を抱き寄せると、出前をとろうと宅配ピザのチラシを一緒に眺めた。英里子の瞳が遠慮がちにこちらを見ている。
「訳……聞かないの?」
服部は不安そうな英里子の頭を撫でた。短くなってもさらさらしていて気持ちいい。
「身体に聞いたよ」
「ふふ」
「何だ、他にもあったのか」
英里子は一瞬寂しそうな表情を見せると真っ直ぐこちらを向いた。その真剣な目に服部も黙って向き合う。
「私、やっぱり――――」
英里子が何か言いかけたその時、玄関のチャイムが鳴った。2人は驚いて顔を見合わす。
「荷物?」
英里子が立ち上がり、玄関先を覗いた。違う、三橋だ。服部は一気に青ざめた。慌ててスーツに入れてあった携帯電話を開く。そこには何件も三橋の名で着信が残っていた。
「すまん、ちょっと出てくる。部屋から出ずに、大人しく待っていてくれないか?」
服部の焦りに英里子は眉を潜めた。
「どうして?」
「訳は後で説明するから!」
服部は有無を言わさず寝室のドアを閉めた。まさか家にまでやって来るとは。とにかく妹の具合が悪いと言って追い返すしかない。
ドア穴から外を覗くと、案の定三橋が立っていた。服部はドアを開ける前にさっと部屋を見渡し、性情の痕跡が無いことを確認してから静かに開ける。
「良かった、家にいたのね」
自分を探していてくれたらしい。三橋が安堵の表情を浮かべた。
「悪い、連絡も気づかなくて……何かあったのか?」
服部は背後を気にしながら三橋に小声で尋ねる。
「ごめんなさい、どうしても心配で様子が気になって……妹さんは中に?」
三橋が玄関に転がっているハイヒールに目をやった。
「ああ、今は部屋で休んでいるよ。心配かけてすまなかった」
「それは別にいいのよ。ねぇ、もし迷惑でなければ、私何か作って行こうか?」
とんでもない。服部は即座に断った。
「いや、そこまでしてもらうのは流石に悪いよ。今日のところは本当に申し訳無いけど、帰ってくれないか。ご両親にも本当に申し訳なかった。後日改めて――――」
「いいじゃない、作って貰えば?」
後ろから声が聞こえた。服部と三橋が同時に声のした方を見る。薄暗い部屋の中、濃いブルーのワンピースを着た女性が、素知らぬ顔で立っていた。服部は声も出ない。
「兄さんもお腹空いていたでしょ。出前より美味しい物が食べられるかもよ」
英里子が隙間から見える三橋に対して嫌味を放った。そうとは気付かなかった三橋が、妹の元気な様子に顔を綻ばせた。
「良かった、元気になったのね。淳から貴方が駅で倒れたって聞いた時は驚いたわ。元々身体が弱い方だったのかしら?」
英里子が不信な目付きで服部を睨む。勝手にそんな設定を仕立て上げられた事に、説明を要求していた。
「失礼ですけど、どちら様ですか?」
服部を通り越して女性同時の会話になる。英里子は上品な笑を浮かべているが、心底怒りを滾らせているに違いない。
遂に対面してはいけない2人が出会ってしまった。服部はビクビクしながら現状を見守るしかなかった。
「ああ、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね」三橋は軽く乱れた髪を整えた。「私は三橋明菜。服部先生と同じ学校の同期で、英語を教えているわ。貴方のお兄さんとは、現在婚約中なの。正式な挨拶にはお伺い出来ていなくてごめんなさい。近い内に必ず行かせて頂きます」
三橋が丁寧に頭を下げた。いきなり婚約者と聞かされた英里子は固まったまま動かない。もう言い逃れは出来ない。服部はなるべく英里子と目を合わさぬよう、小さく立っているのが精一杯だった。
「婚約者……?」
英里子の困惑した表情に、三橋が「まだ言っていなかったの?」と服部に助けを求めた。こうなったら素直に謝罪するしかない。服部は英里子に頭を下げた。
「英里子、すまない。実は今日、三橋のご両親の所へ挨拶に行っていたんだ。お前の事も大事だったから、落ち着いてから後できちんと説明するつもりだった。本当にすまない」
三橋も出過ぎた真似をしたと思ったのか、一緒に頭を下げた。英里子は放けたようにしばらく動かなかった。1番愛しているからこそ、服部も言い出せずにいたのだった。
「そう……だったんですか。私の方こそ驚いたりしてすみません。まさか兄さんにそんな日が来るなんて、思ってもいなかったものですから……」
すっかり消沈した英里子が小さく答える。服部は今すぐその場で土下座して謝りたかったが、三橋がいる以上兄妹を演じなくてはならない。英里子の方も何とか兄妹を演じようと表情を取り繕った。
「こんな素敵な方、兄さんには勿体無いですよ」
英里子は泣きそうだった。服部も泣きそうだった。再び愛が引き裂かれてしまった。三橋が心配そうにこちらを見ている。
「ごめんなさい、私も出過ぎた事をしたみたいで……」2人のただならぬ雰囲気に三橋が静かに身を引いた。「今日の所はこれで帰るわね。妹さんの元気な姿が見られて良かったわ。それじゃあ」
玄関のドアが締まると、部屋に静寂が訪れた。2人は電気も点けずに立ち竦んでいる。服部は英里子にかける言葉が見つからなかった。そんなもの永久に見つかる筈もなかった。時計の針が、静かに時を刻む音だけが聞こる。
また失ってしまった。それも自らの手で。薄暗い部屋の中、英里子と目が合った。無表情の目は服部に強く訴えていた。何故黙っていたの?何故嘘をついたの?何故抱いたの?何故、何故、何故。言葉にするのにはおこがましい行為の数々だった。
2人は表情もはっきりと見えなくなった部屋で見つめ合っていた。まるで互いに初めて出会う男女のようだった。ただおぼろげな輪郭のみが存在していた。訳が分からない。服部も英里子も、何故自分達がここにいるのか分からなかった。いずれこうなる事はわかっていた筈なのに。1番に選ばれない日が来るのは理解していた筈なのに。兄が先か、妹が先かの違いだった。こんなにも呆気なく断ち切られるものだったのか。
やがて英里子が隣の部屋から鞄を持ち出すと、無言で通り過ぎて行った。遠くでドアの閉まる音が聞こえる。最早服部には追いかける気力もなかった。追いかけた所で、2人が兄妹なのは永久に変わらなかった。結ばれない事実は変わらなかった。
服部は静かに涙を零した。これが永遠の別れだと思い知らされたのは、それから4ヶ月後だった。