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エリコ  作者: ムライリカ
20/28

♠12月…その5

 服部の熱意とは裏腹に、英里子との関係は急速に冷めつつあった。服部が生徒達と、三橋と共に情熱を燃やしていく一方で、兄妹で愛し合っている事実に耐え切れなくなっていた。

 こんな事が他の先生や生徒に知れたら、自分は一生教壇に立てなくなる。その不安が常に服部の思考を覆っていた。三橋と対峙する度に思い知らされ、惨めな気持ちに苛まれていた。やはり自分達は間違っていた。教育者として正しく生きなければならない。


 服部は久し振りに英里子の声を聞こうと番号を押した。上手く別れを告げられる自信は無かったが、最早一生この重みを背負い続ける自信はなかった。自分勝手かもしれない。だけど間違っていた。兄妹でこれ以上進む事は世間に許されなかった。

 数コール鳴らしてやっと英里子が出た。くぐもった声が聞こえる。服部はどう切り出そうか迷っていたが、単刀直入に言う事にした。


「英里子、話があるんだ」


 普段なら「何?」と直ぐ聞き返してくる筈なのに、今日の英里子は大人しく分をわきまえたかのように黙っていた。

 沈黙が痛い。やはり直接会って話そうと持ちかけるべきだったか。しかし、英里子に会ってしまうと、この決心が揺らいでしまう恐れがあった。服部がずるずると悩んでいると、受話器の向こうから声が聞こえた。


『私も話があるの』


 その一言で、英里子も実は自分と同じ心境に至ったのではないかと悟った。再び長い沈黙が続く。この間が自分達の愛情の深さを表しているのだとしたら、永遠に続けばいいのにと思った。それ程までに服部は英里子を愛していた。


 数分して、英里子からしゃくりあげるような声が聞こえてきた。泣いているのだ。服部も静かに唇を噛み締めて涙を流す。互いに愛していた。だけど許されない。ここは自分からはっきり伝えてやるべきなのだ。男として、兄として。服部は涙を拭うと、一息ついてから英里子に言った。


「もう、終わりにしよう」


 どんなに深く愛し合っていようが、これが2人の為なのだ。英里子は受話器の向こうで泣き続けた。服部も泣き続けていた。感情が抑えきれなかった。苦しくて喘いだ。もう1度兄妹に戻る事など許されない。


『私……バイト先の後輩と……付き合う事にしたの』


 英里子が嗚咽を漏らしながら、何とかその事実を自分に伝えようとしがみついた。そうか。そうだよな。あんな美人な妹を他の男が放っておく筈がない。

 服部はうんうんと唸りながら英里子の話に耳を傾けた。半分以上が言葉にならなかったが、その辛さだけは人一倍理解出来た。度重なる英里子の冷たい態度は、自分から離れようと準備をしていたのだ。


 無理もない。自分は英里子に依存し過ぎていた。英里子は賢い女だ。きっと自分よりも早い段階で、現実に折り合いをつけていたのだろう。最後に寄り添った情景が瞼の奥に浮かんできた。半年。教師になって半年が過ぎた夏の出来事だった。




 翌日。服部は瞼を腫らしながら授業に励んだ。教室では生徒達に馬鹿にされ、職員室でも笑い者になったが、どうでも良かった。三橋が心配そうに覗き込む。


「服部先生。その目、どうしちゃったんですか?」

「あはは、やっぱり気になります?実は昨日、歳柄にもなく映画で号泣しちゃいまして」


 この言い訳をするのも今日で何回目だろう。服部は笑って誤魔化そうとしたが、三橋がそれを許さなかった。怪訝そうに眉を潜める。


「無理……しないで下さいね」


 去り際に英語で何か呟かれたが、服部は上手く聞き取れなった。辛うじてプリーズと言う単語が聞こえたので、元気を出せとかそのような意味合いなのだろう。服部は乾いた喉を鳴らすと、この日はテストの採点に大きく時間を割いた。これ程までに仕事の多忙さに感謝した日はなかった。




 英里子に別れを告げてから1ヶ月が経過したが、服部は立ち直れずにいた。以前の教育に対する情熱も失いかけている。心配した三橋が服部を飲みに誘った。


「服部先生、どうしちゃったの?まるで抜け殻みたいよ」


 笑いながら言ってくれたが、本当にその通りだと服部は頷いた。

 心ここに有らず。妹の英里子によって狂わされた感情の歯車は、現実と噛み合わないまま服部を教育者にし立て上げた。ここの所毎晩酒を煽りながら眠っている。二日酔いの状態で教壇に立っている。三橋も見兼ねて自分を誘ったのだろう。同情の眼差しがこちらに向けられていた。


「三橋先生。どうしても欲しい物が、永遠に手に入れられない物だとしたら……どうしますか?」


 今更こんな質問を投げかけた所で意味はなかった。それでも三橋に縋ったのは、希望を見出したかったからかもしれない。三橋は「そうねぇ」とビールを一口飲み干してから呟いた。


「私なら諦めちゃうかな。いつまでも手に入らないものを追いかけていたら、何も手に入れられないかもしれないじゃない」


 三橋らしい合理的な答えだった。服部は深いため息を漏らすと、英里子もそう考えたに違いないと思った。

 手に入らないものなど、要らない。だったら最初から求めなければ良かったのに。どうして。服部が涙を堪えていると、三橋がそっと服部の手を握った。柔らかい。


「どうしても手に入れたかったのね」


 三橋はそれ以上何も言わずに手を握り続けてくれた。大人の、年上の余裕なのかもしれない。

 服部はふと甘えたくなった。女に、三橋に。気が付くと服部も三橋の手を強く握り返していた。


「助けてくれ」


 この狂った歯車を元に戻すには、新しい歯車が必要だ。その為だけに服部は三橋を欲した。またも自分勝手だった。三橋は母親のような笑を浮かべると、服部を優しく受け入れてくれた。まるで刃物を扱うかのような手付きに、服部は一時的にでも安堵出来た。もう英里子には惑わされない。惑わされたくない。


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