♠4月…その2
学校から車で30分程都心を離れた所に、服部は一人マンションを借りて生活していた。今の学校に配属されてから4年目。1DKの部屋が今の服部の全てであり、それは今後も変わらない予定だった。
この日も帰りに夕食を買おうと、ショッピングセンターに立ち寄る。立体駐車場に車を停めて、入店しようと自動ドアが開いた瞬間だった。山下枝里子が一人ベンチに座っているのが見えた。
まさか駐車場の入口で生徒と出会すとは思わなかったので、服部は咄嗟にエスカレーターで下に降りて来てしまった。恐る恐る振り返ってみたが、山下は無表情のまま携帯をいじっている。こちらに気付いてはいなさそうだった。
エリコと似て非なる存在の登場に、思わず胸をなで下ろす。恐ろしく心臓に悪い奴だ。時間外まで生徒と関わる気はないと思いつつも、服部は時刻を確認する。もう夜の9時だ。制服姿のまま、一体あそこで何をしているのだろうか。
山下がいた事を不審に思いながらも、服部は買い物をする事にした。どうせ親の買い物が終わるのを待っているだけだ。そこまで心配する必要はない。値引きされた弁当とカップラーメンを買い占めながら、他にうちの生徒はいないだろうなと警戒する。こんな寂しい姿を見られただけでも、生徒には話題にされてしまうのだった。
それにしても山下が突然目の前に現れたのには驚いた。自分にとって彼女の名前は脅威そのものだ。どの道あそこを通らなくては駐車場にも行けない。もし帰りにも山下がいるようであれば、その時は教師として声をかけるしかないだろう。面倒事だけは勘弁してほしい。どうかいませんようにと、服部は願いを込めてエスカレーターを上がった。山下はいなかった。
良かった、流石に帰ったか。服部は安心して車に乗り込み、駐車場を後にした。しかし外へ出てすぐの交差点で、再び山下を見つけてしまった。
彼女は信号待ちの街灯の下で佇んでいた。驚きながらもブレーキを踏み込む。まさか歩いて帰るつもりなのか。服部は山下の奇行を横目で確認しながら、素性について少し調べておくべきだろうと思った。
山下の自宅は、昨日立ち寄ったショッピングセンターの近くだった。しかし、理由はそれだけでもなさそうだ。去年彼女の両親が再婚して苗字が変わっている。
この事実を知ったからと言って、山下への態度が変わる訳でもなかった。一般教師が深入りする問題でもあるまい。教師と生徒の関係はあくまで平行。所詮は他人の子供。今まで通り、良好な生徒として接してやればいいだけの話。服部は頼まれていた書類を浅川先生に渡すと、授業を行いにいつもの教室へと向かった。
山下は今日もそっぽを向いていた。服部は彼女の動向を気にしつつ、黒板に羅列を書いていく。昨日はあれからきちんと家に帰れたのだろうか。親と上手く行っていないのか。いざ本人を目の前にすると、幾重にも不安が募ってきて仕方がない。エリコと同じ名だから気に病む所があった。
服部は今日もショッピングセンターへ立ち寄ろうとしていた。今までの教員生活からは考えられない行動だった。他人との接触は最低限に留め、生徒間の面倒事は静かに回避する。あくまでも中立。一人の生徒に対して動くような自分ではなかった筈だ。自ら引いた境界線を、服部は密かに越えようとしていた。エリコの名が不安を掻き立てる。それに今回は、放っておけば更に面倒な事になりそうな予感がしていた。
昨日と同じ場所に駐車すると、注意深く店内に入る。自動販売機の所に山下はいない。だが、館内にはいるだろう。服部は上のフロアから順番に店内を巡回していった。自然と歩幅が早くなる。いるなら静かに出てきてくれ。
しばらくして服部は山下を見つけた。今日は1階エスカレーター横のベンチに座っている。相変わらず冷たい表情で携帯電話をいじっていた。時間を潰す方法がそれしか無いとでも言いたげに。
服部がどう声をかけるべきか立ち止まっていると、警備服を着た男が山下の前で立ち止まった。まずい。まだ補導されるような時間ではないが、山下がここの常連だったら連れて行かれるかもしれない。
「最近制服姿でうろうろしているのは君か」
警備員が話しかけるが、山下は思いっきり無視している。その様子に腹を立てた警備員が山下の腕を掴んだ。
「少し事情を聞かせてもらうから、事務所まで来てもらおうか」
「すみません、うちの生徒がどうかしましたか?」
服部が慌てて口を挟むと、山下が初めて顔を上げた。警備員も不快そうな顔をする。
「あんた、この子の先生ですか?」
「はい、今外で親御さんに連絡していまして……家に返す所ですが何か?」
「いえ……それなら結構です」
警備員は一瞬だけ山下を睨みつけると、掴んだ手を払いながら立ち去った。説得できたとは思えないが、向こうも余計な騒ぎは起こしたくないだろう。服部は一先安心した。
「どうして先生がここにいるの」
例の冷たい視線がこちらに向けられる。
「買い物に来ていたんだよ、悪いか。ついでに送ってやるから一緒に来なさい」
「嫌だ」
「今度こそ補導されるぞ。親に知られたくはないだろう」
『親』の一言に顔を強ばらせると、山下は渋々腰を上げた。隣に並ぶと結構背丈がある。
「いつもここで時間を潰しているのか」
山下は答えない。
「……まぁいい。次からはせめて着替えて来るんだな」
可愛げのない生徒だ。服部が駐車場へと足を進めると、不貞腐れた山下も後方からついて来た。あのまま補導されて、学校側に知られる方が厄介だった。服部は後ろの座席を開けて荷物を退かせると、山下に入るよう促した。