♠12月…その4
仕事の方は少しずつだが慣れていった。初めは先生と呼ばれる事にも抵抗があったが、中間テストを過ぎる頃にはどうでも良くなっていた。
不規則な時間割に身体も追いついてきている。教員の中でも1番年下なので、服部は常に雑用で校内を走り回されていた。
「先生、ありがとうございまーす」
放課後は生徒にボランティアで教えてやる。中々学校では1人になれなかった。服部は痺れを切らして喫煙所へ向かう。
「ふぅ」
煙草の煙が隅々まで行き渡ると、ようやく自分を取り戻せた気がした。部活動の活気溢れる声がここまで聞こえてくる。忙しい方が返って楽なのかもしれない。余計なことを考えなくて済む。
「おや、服部先生もこちらでしたか」
ノックの音と共に同じ国語科の教師、上松が入って来た。前に突き出た腹は見るに耐えない代物だが、教員としては既にベテランで、教え方も国語科の中では1番上手い。服部の上司にあたる人だった。
「はは、ここくらいしか生徒から離れられませんから」
「それもそうだ」
上松はぴっちりとした上着の内ポケットから小さな煙草を取り出す。まずは互いに1本、無言で味わった。
「学校には慣れましたかな?」
上松がゆっくりと顔をこちらに向けた。服部より背が低いのでどうしても見上げる格好になるのだが、その代わり貫禄が凄まじい。今年で55を迎えたその渋い横顔には、幾つもの教えが刻まれているようだった。服部は思わず萎縮する。
「ええ、お陰さまで校舎案内なら迷わず出来そうです」
「はっは。私も新人の頃はよく走り回ったものだ。ちょっとでも廊下を走ったりすると、何処からともなく教頭の声が聞こえてきましてね。廊下は走るなって。いやぁ、当時の七不思議でしたよ」
懐かしそうに目を窄める。服部は微笑ましく思った。ベテランにも新人の頃があるのだ。
「更にうちの学校は、若い先生が少ないですからねぇ。老人の世話も大変でしょう」
「老人だなんて。まだそこまで皆さん年を召してはおられませんよ」
「若い連中から見れば皆ジジイさ」
がははと声を上げて笑う。確かに扱いづらいかもしれない。服部は苦笑いを浮かべながら、上松から教員としての心構えを幾つか教えて貰った。
「そう言えば、この学校にはうちの姪も働いていましてね。姪と言っても、私の姉の娘なので、服部先生よりは年上なのですが」上松は笑った。「英語科の三橋先生をご存知ですかな?」
服部はおぼろげながらその輪郭を思い出そうとした。確か小柄なショートカットの女性で、同じ新任教師としてこの学校に来た人だ。
「今年新任された方ですよね?ええ、ご存知ですよ」
上松の表情がぱっと明るくなった。
「それなら話が早い。実はその姪が中々他の教員や生徒に馴染めないと、愚痴をこぼしておるんですわ。そこで境遇も似た服部先生にも、一つ相談に乗って頂きたいと思いましてね」
上松は予め決めていたかのように、すらすらと日時と場所を指定して来た。その日は英里子との予定を入れていたのだが、この話は断れないと静かに悟った。恐らく三橋にも話が通っているのだろう。
英里子の怒りが安易に想像出来たが、これも仕事の内なのだから仕方がない。それに同期として、不安を抱いている女性を放って置く事も出来なかった。
服部は三橋と会うべく、土曜日の補習を終えると直ぐに駅前へと向かった。当日は上松も同席するのかと思われたが、まだ学校に残っている限り違うらしい。
服部はきょろきょろと辺りを見回した。待ち合わせ時刻の18時よりも30分前に着く。流石にまだ来ていないか。服部は喫煙所に入って時間を潰すことにした。今から挨拶しか交わしたことのない女性と食事に行くのだ。それも上司の姪と。失礼の無いように接しなければならない。
それにしてもどうして自分を指定してきたのだろうか。単に上松と同じ国語科だから誘いやすかったとか。充分にありえる。
携帯を開いた。英里子からメールは届いていない。昨日上司との打ち合わせが入った事を告げると、英里子は怒って拗ねたのだった。お互い仕方のない事だと理解はしていても、感情が追いついていかない。服部も拗ねたいのは同じだった。もう3ヶ月以上抱いていない。
ふと顔を上げると、時計台の下で白いパンツスーツを着た女性が立っていた。恐らく三橋だ。向こうも失礼のないようにと早めに来ていたのだろう。服部は慌てて喫煙所を飛び出すと三橋の元へ向かった。
「すみません、お待たせしました」
声をかけられた女性が戸惑いながら振り向く。
「こんばんは、服部先生。まだ約束の10分前ですから、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
金色のピアスを光らせながら服部と対峙する。細くて華奢な体付きだが、意志の強い瞳がはっきりとこちらを見上げていた。口元が鈍く光る。美人な英里子と違って、随分可愛らしい女性だと思った。
「ちょっと喫煙所に寄っていまして。失礼」
服部は衣服に染み付いた煙草の煙をパタパタと払った。
「まぁ、お気遣いなく」
三橋は口元を押さえて笑った。笑うと可憐さに発射がかかり、実年齢より幼く見える。これでも服部より年上なのだから驚きだ。
「予約してあるお店はこちらです。イタリアンは大丈夫でしたか?」
「はい、大好物です」
適切な距離を保ちながら並んで歩く。隣で歩く三橋はかなり小さく見えた。女性にしては背が低い方なのだろう。それだけで守ってあげたくなる雰囲気が出ていた。
「改めまして、国語科の服部淳です。大学では日本文学を専攻しておりました。学校では古典を教えております」
「三橋明菜です。英語科担当でこちらに新任する前は、イギリスで2年程留学しておりました。本日はお付き合いして頂き、ありがとうございます」
向かい合って席に座ると、互いに簡単な自己紹介を交えて乾杯した。風味の良い白ワインがまろやかに舌を整える。お店は全体的にレンガを基調とした落ち着いた造りになっていて、シャンデリアの暖かな光がテーブルを1つ1つ照らしていた。BGMも落ち着きがあって良い。女性客の多さからして繁盛しているようだった。
「とても良い雰囲気のお店ですね。服部先生がこのような場所をご存知だとは思いませんでした」
三橋が店内を見渡しながら答える。
「いやぁ、結構迷いましたよ。何せ女性とお食事する機会なんて、滅多にありませんから」
実は英里子と来ようと思って予約していたなんて言えない。三橋の表情から見て、この店は正解のようだった。今日はその下見だと思うことにしよう。
「まぁ。服部先生、お付き合いしている方はいらっしゃらないの?」
三橋の表情は一見穏やかそうに見えるが、その口調には刺があった。英里子とは違うタイプのプライドが見え隠れしている。
服部は嘘をつく事にした。面倒なのもあったが、妹との背道徳な関係を痛感したからかもしれない。
「もう長い事いませんよ。自分の事で精一杯です。三橋先生も同じではないですか?」
服部の指摘に三橋が小気味よく笑った。この時点で三橋に恋人がいたならば、自分が呼ばれる事などなかっただろう。伯父に愚痴を零す事もなかっただろう。
「そうね、いつだって自分の事で精一杯なのよ。授業を作るのだけでも精一杯。とても生徒1人1人にまで手が回らないわ」
それは服部も同じだった。だが純粋な生徒はお構いなしに質問を投げかけてくる。教師も生徒と同じで、日々勉強の毎日だった。
それから三橋と授業について語り合った。教えている教科は違えども、お互い生徒と向き合う姿勢は真剣そのものだった。服部もつい夢中なって、自分の思い描く教育論を熱く語った。三橋も熱心に服部の話に耳を傾けてくれる。酔が完全に回った頃には、2人ともすっかり未来の教育を担っている気分に浸った。
「服部先生がこんなにも熱い男だとは思いもよりませんでした」
三橋がケタケタと笑ってワインを飲み干す。その陽気な笑いも留学の名残なのだろうか。服部には新鮮に写って面白い。
「いえいえ、三橋先生も中々。同期で討論会ってのもいいですね。学生時代を思い出しましたよ」
「先生同士が語り合う機会ってそうありませんからね。会議も一方的な連絡事項だけですし。伯父に服部先生を紹介された時は正直不安でしたが、思い切ってお話できて良かったです」
三橋が握手を求めてきたので、服部も躊躇わずその手を握り返した。同士。結託。時間にして僅か3時間程度だったが、これ程までに濃密な時間を女性と過ごしたのは初めてだった。